首相補佐官・岡本行夫は4度目のイラク訪問任務を終えた11月5日、バクダッドで記者会見した。 岡本は、もちろん、日本国自衛隊をイラクに派兵することの「需要度」を調査するために、という日本政府の主体的な立場から、だが、米国政府が行なう「派兵圧力」の強度に時期を左右されながら、4度も派遣されているのである。彼が語ったことを新聞報道の要約記事でまとめてみる。
「人道支援の勢い、日本の姿勢をイラク国民に見せ続けなければならない。ここで退いては国際的な支援の努力を頓挫させようとしているテロリストの思い通りになる」。
「国際と名のつく限り、赤十字国際委員会のように狙われる。理論的には、イラクから完全撤退しない限り日本も標的になることを免れない」。
「今の段階で『何人死んでもやる』とまなじりを決していうつもりはない。日本人全体が死の恐怖に直面しないですむことを祈っている。
だが、『一人でも死んだら撤退』という、テロリストが待っているステートメントは言えない」(11月6日付朝日新聞夕刊)。
岡本は、ペルシャ湾岸戦争当時の外務省北米局北米第一課長だった。何年間その位置にいたのかは知らぬが、米国の対日政策の矢面にいた官僚だったのだ。他国に対していかなる「論理」であの国が攻め立ててくるものか、身にしみて知っていよう。
それに対して日本の政治家や外務官僚が、どんな「関係性」の位置を定めてきたのか、も。日米関係のあり方(実態)を知り尽くしているはずの人間が、米国側の「要請」や「恫喝」にはいっさい触れずして、あたかも日本側の主体的な判断であるかのようにして、上のように語っている。
他人(自衛隊員)を死地に追いやり、その他人を他国の民衆を死傷させる担い手にするかもしれないような政策決定の、あやふやな根拠を。
岡本がメディアで目立ち始めたのは、橋本政権下で首相補佐官を務めたとき以来だが、以後一貫して対外的な軍事路線・強硬路線の主唱者だった。常日頃の言動で見る限り、彼には、米国のひとりよがりな外交路線に対する警戒の念が、ないではない。
同時に言うべきことは、岡本の強硬路線の基盤にあるのは「屈辱とトラウマ」という感情であるということだ。「依然として、客観的な観察者にはなれない。感情が出る」。それは、湾岸戦争を思い出すときの、岡本の偽らざる心情だ。
「ペルシャ湾岸地域に多数の石油タンカーを常時行き来させていながらイラク制裁の軍事活動に参加せず、軍資金しか出さなかった」日本が、欧米諸国によって「現金自動払い出し機」のように扱われたことへの「怨念」に基づいた感情である(『外交フォーラム』2001年9月号)。
ここから、「自由のために銃をとって戦うことに対する支持などない」2001年秋当時の日本の情況への慨嘆が生まれる。
外務官僚の「感情」ごときもので、その国の外交政策が左右されては堪ったものではない。
だが現実には、みずからの姿を「客観視」できない岡本のような人間が、ひとの生死に関わる問題の「調査」に出かけ、予め決めていた、我田引水的な結論を得々として語るのである。
それができる今、岡本は幸福だろう。金正日の度重なる愚行を奇貨として、自衛隊をイラクへ派兵する「法的基盤整備」も整えることができた、と連中は考えている。
だが、折りしも行なわれる総選挙では「派兵の正否を総選挙の争点にしては、与党に不利になる」。
政府・与党はそう言っていると、どの新聞も書いていた。誰が言ったのか、具体的な名前は明らかにされていないが、選挙運動の実態を見ていれば、それが政府・与党の暗黙の了解事項であったことは、よく理解できる。
派遣の主力部隊になるのが陸上自衛隊北部方面隊第二師団(司令部・旭川)であることは以前から推定されていたが、選挙中の北海道新聞によれば、この地域においてすら派兵問題が争点化することはついぞなかった。
北部方面隊はすでに、防暑グッズ・特殊作業手袋などの調達に着手しているにもかかわらず、である。
ひと(この場合、有権者)が自覚的に戦争への道を選ぶわけではないこと、それとは知れず、なしくずし的にその道に引きずり込むしかないことを、支配者は熟知しているのであろう。
「派兵」が、自国と派兵先の地域の人びとに、どんな結果をもたらすか。シベリア派兵を行ない、ロシア革命に敵対した時代の経験をはじめとして、近代日本には教訓とすべき事例が数多くある。
現代日本の政治・経済・軍事の支配層の年齢からすれば、米国・韓国・オーストラリアなど他国のベトナム派兵の教訓も、十分に知りうる立場にあるだろう。
ベトナムの民衆が最大の被害者であったことは自明のことだが、岡本行夫が気になって仕方のない米国にも、この30年間というもの、あの戦争のいくつもの後遺症を見ることは難しいことではない。
麻薬や多発する犯罪の陰に、文学や映画や音楽表現の背後に、ベトナム戦争の傷を見つけることは容易なことだ。
この一年間、朝鮮と日本の関係を再考してきた私からすれば、植民地支配問題もさることながら、両者の間にある戦後体験の違いが大きく心に残った。
もちろん、朝鮮戦争とベトナム戦争というふたつの戦争において、南北朝鮮と日本の民衆はそれぞれどこに位置し、何を失い、何を得たか、に関わる問題である。
とりわけ、米国の派兵要請に応じた朴大統領の下でベトナムに参戦した韓国の、その後の問題意識のありかに、深い関心をもった。ベトナムに留学し、かつて韓国兵が行なった残虐な行為の実態を調べている女子学生がいる。
派兵された当時の自分をふりかえりながら、「自分たちの問題さえ満足に解決できないのに外国に対して加害者になってしまった」過程を描く作家がいる。
凱旋したと思いきや、ドルを溜め込んだ帰還兵に対して、冷たい嫉妬の視線を送る世間に気づいて、深刻な疎外感に悩む青年がいる。
小泉や岡本が発する勇猛な言語の背後に潜む「派兵」の実態を見つめること。それを明るみに出す、もっともっとたくさんの表現方法があるはずだ。
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