一
『映画/革命』の中でもっとも印象的な足立正生の言葉は次のものである。
「作り上げたい映画への思いが何としても断ち切れず、砲弾に怯えて闇夜の塹壕を這いずっていたりすると、突然、納得の行くアイデアが忽然として浮かび上がったりする。今思い浮かんだイメージは無音の世界でなければならない、などと確信に満ちて納得する。そのように、気持ちの余裕など全く無い中でも、映画作りを考えていたりした」(四九四頁)。
一九六五年、今となっては懐かしいアートシアター新宿文化で、映画『鎖陰』によって不思議な世界へと案内してくれた映画作家が、四〇年に少し足りない歳月の後、右の言葉を語ったことに感動する。
この言葉は、映像作家ではない私でも、イメージ化することができる。
イメージ化して、思わず、こころ詰まるものをおぼえる。足立が生きてきた苛烈な状況とは比べものにならない条件の中でしか生きてこなかった私にも、表現への衝動とはこういうものだと考える地点で、この言葉を共有できる。
二
足立が語る言葉の中で、生きているガッサン・カナファーニに出会えたことに、感慨深いものを感じる(三五五〜五六頁)。
一〇年有余前のペルシャ湾岸戦争のとき、アメリカのブッシュが発動した戦争そのものには反対しつつも、イラクのフセインにももちろん共感することはできなかった。
この戦争をどのような視点から見るべきかを考えたとき、イラクも含めた中東全域を彷徨うほかはないパレスチナ人の姿を描いた、作家カナファーニの諸作品がこころに浮かび、「ガッサン・カナファーニに戻って:湾岸戦争への一視点」という文章を書いた(『インパクション』一九九一年二月号)。
『映画/革命』を読む日々は、近代以降の世界を支配してきた新旧の植民地帝国=アメリカとイギリスがイラクを攻撃することが必至と伝えられ、だが反戦運動の世界的な高揚もあって阻止できるかもしれないという希望もないではない時期に重なった。
そしてついに、戦争とすら呼ぶこともできない、一方的な虐殺行為が始まった。
地上戦の最初の攻防の地点となったイラク南部の都市、バスラの動静が伝えられた。出稼ぎ労働のためにクウェートへの密入国を狙ってまずはバスラに集うパルスチナ人労働者の悲劇を描いたカナファーニの『太陽の男たち』が、否応なく、あらためて思い出された。
三
『映画/革命』を読みながら、また、こんなことも思った。
足立が日本に不在の三〇年ほどの間に、こちらにも大きな変化があった。一九九二年、死の床にあった作家・桐山襲が「〈革命〉は、いま病室の中の私の肉体と同じくらい絶望的だ」と嘆じたときよりもいっそう「革命」の不可能性が私たちを取り巻いている。
他方その間に、私は、「革命映画の創造」をめざすボリビア・ウカマウ集団との偶然の出会いから、思いもかけなかった映画自主上映の道に入った。
その後共同製作にまで至り、現在もその協働は続いている。この活動の、新しく若い担い手・平沢剛がこの『映画/革命』の有能な聞き手役であるということは、この逆境にもめげず「精神のリレー」が続いていることを示唆している。
また、友人・佐藤満夫と山岡強一は一九八〇年代なかばに、映画『山谷 やられたらやりかえせ』を撮った。生粋の映画人・佐藤はともかく、素人・山岡の「映画」への関わりは、意外な面白さに満ちており、死の直前の山岡とその思いを共有できたことを、せめてもの慰めとする。
不幸にも、ふたりは右翼の狙撃者の凶刃と凶弾に倒れたが、バトンを受け継いだ人びとの手によって上映は今も続けられている。
『映画/革命』が遺した課題は、足立自身も含めて、まだまだ書き継ぐ/行ない継ぐべき人びとに恵まれていると思えることが、微かな希望の証かもしれない。
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