「9・17」日朝首脳会談以降のおよそ11ヵ月間、北朝鮮‐日本問題を集中的に考え続けながら何度も思ったのは、私たちの多くが1970年代から80年代にかけて
ほぼ共通してもっていたひとつの性向について、であった。
それは、朝鮮半島南半部(韓国)軍事独裁体制およびその下での民主化闘争に対する熱烈な関心と、北半部(朝鮮民主主義人民共和国)世襲独裁体制およびその支配下の声なき民衆に対する徹底した無関心とが共存していたという事実について、である。
それがなぜであったかは、自分たちの主体に即して検証すべきことではあるが、今回は、韓国に対する私たちの関心を高めるに大きな影響があった「T・K生」が遺した記録のことに触れたい。
「T・K生」とは、雑誌『世界』(岩波書店)の1973年5月号から88年3月号まで、実に15年ものあいだ「韓国からの通信」を書き続けた人物のペンネームである。
朴正煕および全斗煥体制下で、いかに人権が抑圧され民主化運動が弾圧されたか、
日本からの在日韓国人留学生がいかにスパイ団として「デッチ上げられて」きたかなどについて、この匿名通信は詳細に報告した。雑誌連載分が一定の量になると、それらは次々と岩波新書としてまとめられ、私たちは、この時代の韓国軍事政権の「実態」を、この報告を読みながら把握できたと思い込んでいたと思う。
私は、当時の時代状況からいって、これが匿名で書かれていることは仕方のないことだろうと考えてはいた。また連載が回を重ねるにつれて、記述に伝聞・推定の部分が多く、街の噂話も拾われていることが気になり始めたが、それはむしろ、すべてを「真実」と捉えるよりも、韓国社会の鼓動が伝わってくるものとして考えればよいとする立場であった。
ただ80年代に入って翻訳・紹介が格段に進んだ韓国現代文学のいくつかを読みながら、「韓国からの通信」の重要性は認めつつも、それが基盤としている「軍事政権の独裁支配」というキーワードだけで、現代韓国をすべて理解したと思ってはいけないと自覚した。
連載最終回は88年3月号だったが、T・K生はそこで大韓航空機爆破事件に触れた。
「韓国の民主化勢力の間における共通の認識」として、「韓国にとってはオリンピックを前にそのような〔北の仕業といい得るような〕事件が必要である」とか「〔北の工作員を〕泳がせておいて、大事件にして北を孤立させるのに使おうとした」などの見解が示されていた。
北朝鮮指導部の方針に対する批判がいっさいないままに、謀略史観に基づいて事態を分析する方法には大きな違和感をおぼえ、「韓国からの通信」はその使命を終えるべくして終えるのだと思った。
その後「T・K生」をめぐっては、いくつもの憶測が、陰に陽になされてきた。
私は正体暴きには関心がなかったが、自分にもった影響力は否定し難いので、時期が来たら可能な限り真相が明かされることを期待はしていた。
連載終了から15年、「T・K生」が名乗りをあげた、と報道したのは7月26日付朝日新聞であった。
ソウル特派員が宗教哲学者、池明観(現在、翰林大学日本学研究所長)と会見し、当時日本に在住していた彼が「T・K生であったことを認めた」と報じたのである。「連載内容の80%以上は正確だったと思う。
しかし、例えば獄中から出てきた人たちが『こう闘った』と言った場合の伝聞情報を間違えたり、誇張されたりしたことはあった」とか「北朝鮮批判はほとんどしなかった。
我々は南の軍事政権と闘っているのだから、北の問題を強調しすぎることで戦線を分断させてはならないと考えた」などの発言が印象に残った。
追いかけるように『世界』誌9月号には『国際共同プロジェクトとしての「韓国からの通信」』と題する池明観への特別インタビューが載った。聞き手は編集長、岡本厚である。
ここでは、主としてキリスト者のネットワークによって韓国からの情報が持ち出されたなどの、興味深い逸話が明らかにされているが、もっとも心に残る池明観の言葉は末尾近くの次のものだった。
「長いこと悩んでいたことを一つだけ言わせてください。闘いの書というのはつねに闘う方を過度に英雄化します。このことと歴史的事実との隔たりの問題で私は苦しんできました。
事実、真実、真理などの問題といいましょうか。そのために特に勝利の日には敵対関係を超えて一つにという理想をいだいて苦しみました。しかし現実はどうもそうはいかないもののようです。
この年になって革命家の老後における悲しさが多少はわかるような気がいたします。
避けられない状況とはいえ、このような匿名の通信をおことわりもないまま長いことお送りしたことを、ほんとうにお許し下さるようお願いいたします」。
「韓国からの通信」を読んでいた私が途中からもったわだかまりが、原著者との想像上の会話で、少しだけ解きほぐされていく感じがした。
他方、ふたりの対話者は、『世界』元編集長、安江良介の南北朝鮮に対する態度に関して、「日本人には朝鮮人を批判する資格は倫理的にない。すべて日本人が悪い」とする立場を貫いたとの評価で一致している。
度重なる金日成との会談でも「面と向かっては、金日成の側近が真っ青になって立ち上がるくらいの厳しい批判をしたが、それを日本へ帰っては絶対にしゃべらなかった」(要旨)との証言もなされている。
朝鮮人をつねに絶対的に擁護する安江に対して池明観は「それは現実じゃない」といって抗議したが、安江は独自の人生観を変えることはなかったという。
戦後史における、朝鮮―日本関係を省みるうえで忘れることのできない存在としての安江=『世界』の問題性は、やはり、安江のこの不動の信念に胚胎されていたと思うほかはない。
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