社会的出来事にせよ自然現象にせよ、常日頃「科学的に」考えることを心がけている私としたことが、思わず「祟りじゃあ!」と口走ってしまったことだ。
宇宙往還機「スペースシャトル・コロンビア」の空中分解事故の第一報に接した時のことである。地球上でも宇宙空間でも、傍若無人なふるまいばかりしているからだよ、と。
7人の宇宙飛行士の死を悼まないのかという、しごくまっとうな論難の声が、すぐ沸き起こることは覚悟している。
私は、例の「 9・11」事件の時にも、実行者たちの行為の背景に確固として存在している世界的な政治・経済・社会状況は了解しつつも、選択した行為自体は批判的に捉えたが、当初は6000人とも予想された死者の「死を悼む」という常套句を使うことはしなかった。
「 9・11」事件でも、スペースシャトルの事故でも、マスメディアと米国政府は、事件の社会的・政治的性格を覆い隠すことに全力を挙げる。
ひたすら情緒的に、死者と遺族の姿を伝えようと演出する。死者を絶対化することで、事件の本質を問うこと自体が、倫理的に許されないことであるかのような雰囲気を作り出す。
その報道攻勢に巻き込まれないためには、私たちにも譲ることのできない一線がある。他人に勧めることでもないが、私の場合、それは「犠牲者の死を悼む」とまずもって発語しなければ、次のことばへと進めることができない社会的空気とたたかうことだ。
驚くべきことは、今回のような事件に際して米政府当局がまず「テロの可能性は低い」などと言わなければならないことだ。
米国社会が、自らが作り出したテロの「幻影」に、いかに日常的に怯える日々を送っているかを、このことは物語っていよう。自業自得とはいえ、お気の毒なことだ。
事故の原因については、NASA(米航空宇宙局)が日々判明した事実に基づいて発表している。素人ゆえ新聞を熟読してもわからぬこともあるが、スペースシャトルの安全性確保について懸念を表明したNASA安全諮問委員会メンバー9人のうち 5人が昨年解任されていたという 2月 3日付共同電は興味深い。
「米政府は事故直後、宇宙分野での緊縮財政路線が安全管理に影響を与えた可能性を考慮し、後継機の開発促進など大幅な予算増額方針を決めた」などという報道も、あまりに事も無げになされていて、怖い。
「 7人の英雄たち」などと死後におだて挙げておいて、実はカネを惜しんでいたことを赤裸々に証すものでしかないからだ。
スペースシャトルについては、宇宙空間から大気圏に再突入する際に大気との摩擦で機体が超高熱を発するにもかかわらず、通算 100回もの再使用が想定されていることの危険性が当初から指摘されていたが、まさにその再突入直後の事故だったことを知れば、なおさらである。
2月 3日付の「しんぶん赤旗」は「米シャトル、 110回の打ち上げ、 2回の重大事故」と端的に表現したが、これほどの事故確率性を一般航空機に適用したらどんな数値になるか。
事故直後にも「宇宙開発の夢と希望」を語り続ける米政府やメディアは、こんなわかりやすい数字で事態を説明することはない。
いまひとつの重大な問題は、落下してきたシャトル機に積載されていた物質・物資についての詳細な説明がなされていないことだろう。
インターネット上では、危惧する人びとが、放射性物質やエンジン燃料ヒドラジンなどをめぐって、推定に基づくさまざまな情報提供を行なっているが、テキサス州をはじめ広大な地域に落下した搭載物資の内容についての説明をNASAはしていない。
「有害物質が含まれているから、触れるな。持ち去ったら、処罰だ」。落下地点の住民には、こんな天の声が届くばかりだ。
スペースシャトルの機体が疲弊してか打ち上げ時の断熱材損傷かによって分解したのだとしたら、それはほぼ「自爆」にひとしく、その結果得体の知れぬ危険物質が人びとの上に降ってくるのだから、それはテロ(恐怖)であり、これをこそ「自爆テロ」と呼ぶべきだ、と思えてくるほどだ。
飛行士に関する情緒的な報道をも、少し客観化してみよう。インド生まれの女性を除き 6人が軍の関係者である。
イスラエル人初の宇宙飛行士と言われるイラン・ラモンは、母親と祖母がアウシュビッツ強制収容所の生存者であることが強調されているが、彼は1981年イラクが建設中の原子炉空爆作戦に参加した最年少パイロットであったことがもつ意味こそ報道されるべきだ。
海軍大尉デビッド・ブラウン(46歳)にまつわるエピソードも、その年齢を思えば、甘すぎる。飛行士たちは宇宙で味わった「感動」を家族にメールで送り続けたというが、彼の文章はこうだ。
「私が最も心を動かされたのは、ユダヤ人大虐殺の生存者が、死んだ 7歳の娘の話をする手紙なんだ。こんな美しい惑星で、そんなひどいことが起きたとは信じられない」。
その手紙とは、もちろん、イスラエル人飛行士が機内に持ち込んだものだという関連づけがなされている。
46歳の大人が、ホロコーストに関していまさらこんな感想を? 絶句するしかない。マイケル・ムーアが自嘲的に言う「アホで、マヌケなアメリカ白人」は、本当に、ホロコーストどころか、米国のふるまいによってもたらされているアフガニスタンやイラクの悲劇も知らずに、現代を生きているのかもしれない。
墜落したコロンビア号の名は、1492年にアメリカ大陸を「発見」したコロンブスに由来するとの説明も目についた。
そこで思い出すのだが、1992年スペースシャトル「エンデバー」に搭乗した毛利衛は宇宙から帰還し、成田空港に帰国した時の記者会見で次のように語った。「コロンブスがアメリカを発見してからちょうど 500年目のこの日に、彼が夢見たジパングに帰ってこれて意義深いと思います」。
彼としては、透徹した歴史意識を語ったつもりかもしれないが、その10月12日当日「 500年後のコロンブス裁判」を開いて、大航海時代以降の近代が孕む意味を再考したばかりの私たちは、この能天気な発言に呆れた。
いつの時代でも、「発見」とか「偉業」とか言われるものの担い手の意識は、この程度のものなのだろうか。
毛利衛や向井千秋は、死んだ仲間の追憶に耽るばかりではなく、数少ない非軍人の宇宙飛行士として、スペースシャトル計画がもつ軍事的な意義や、シャトル空中分解後の落下物にどんなものが含まれているのかを明らかにする責任があるのではないか。ジャーナリストも、そんな質問は投げかけようともしない。
閑話休題。数日後、名大と国立天文台の研究チームが近赤外線で撮影した暗黒星雲の姿が新聞に出ていた。
暗黒星雲が真っ暗ではなく、弱く光る部分もあるという興味深い写真を見ながら、私も人並みに宇宙への関心を持ち続けるだろうが、それはやはりNASAのように一方的な「征服」の対象としてではなく、埴谷雄高のように暗黒星雲の彼方からの視線でわれわれの〈存在〉を照射し顛覆しようとするほうが好ましいと思ったことだ。
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