今春(東京で)公開された『永遠のハバナ』という映画(キューバ=スペイン合作、フェルナンド・ペレス監督、2003年)に、深く思うところがあった。ドキュメンタリー映画は、誰にとっても、自分の関心と感覚によほど合ったものでなければ、観通すこと自体が苦行になる。
この映画は、キューバの首都ハバナに暮らす幾人もの市井の人びとの、早朝から深夜までの日常を、物語作りもせずに、台詞もないままに、ただただ映し出しただけの映画だ。
ダウン症児のフランシスキートがいる(10歳)。母親が若くして死亡したために(そのことは映画の最後に明らかにされる)、父親と祖母が育てている。
大人たちの、さりげない愛情の注ぎ方が印象的だ。小さな紙で円錐形の入れ物を作り、そこに幾ばくかのピーナツを入れて、街頭に立つ年配の女性がいる。
全部売れて、どんな日銭になるのだろうと思うが、そういえば、私が学生時代の40年前に大阪へ行くと、梅田の地下鉄駅には回数券の一枚売りをしていた小母さんたちが立っていて、11枚売って1枚分の利益か、と思ったことなども思い出される。
いつも自転車に乗って自宅と職場を行き交う鉄道保線員の男が、ある土曜日の夜、スーツにネクタイをして、サクソフォンを持っている。聞くと、ミュージシャンでいることが好きで、教会で演奏するのだという。
監督がおもしろい生活だな、と思ったこの人も登場人物のひとりとなる。家族と離れてキューバを出国し、「合法的に」マイアミへ向かう青年もいる。タラップを上り、複雑な気持ちがするのか去り難いのか、後ろを見やる表情が、私の中でもいつまでも消えない。
別離を経験しなかった家族はほとんどいないだろうと推測しても見当違いではないだろう、キューバに関しては。否、移民労働者や難民がここまで普遍的な現象になっている現在、それはひとりキューバのみならず、世界大の、とりわけ第三世界に共通の問題だ。
この街には、とりわけチェ・ゲバラとジョン・レノンに心を寄せる人びとが多い。ゲバラの肖像は、多くの家のそこここにある。その理由は、あまり説明されなくてもわかる気がする。ジョン・レノンはどうだろう? ビートルズ全盛の60〜70年代にかけて、ハバナの若者たちは、とある公園に集まって、ビートルズの歌を歌っており、そこがいつのまにかジョン・レノン公園と呼ばれるようになったという。
死後20年の2000年には、レノンの銅像が立てられた公園もできた。熱狂的なフアンが銅像から眼鏡を盗んでしまってからは、市役所との契約で昼夜分かたず常設の監視員が置かれているというエピソードがおもしろい。
ハバナの人びとは、レノンそのものというよりもレノンが象徴していたものを守り抜きたいのだろう。それは、そのために人を殺したり死んだりすることのない、国(国境)のない、未来的な世界像だ。
ハバナの革命広場に集まった万余の群集がキューバ国旗を打ち振る様子を映し出すテレビ画面を、じっと見つめる百歳ちかい老女が出てくる。
革命記念日の大集会の様子なのかもしれない。いずれにせよ、その日にはカストロか誰かの長大演説が行なわれ、人びとが打ち振る旗はそれに向けられているのだろう。小さな画面に映し出される人びとの動きと旗の振り方――それはいかにも機械的に見える。振り付け師でもいるかのようだ。
チャップリンの『独裁者』を連想させるような映像でもある。それは、革命勝利直後の1960年代初頭の、躍動的で、自発性に満ちていた(ように思われた)民衆集会の様子を、後の映像で知る者には、見るのがつらい映像だ。
画面を眺めるその女性の内面まではわからないが、その女性の「人生」を覆い尽くすまでの幅をもたない「政治」が、あの小旗に象徴されているように思える。
「祖国か死か、われわれは勝利する!」というのが、60年代キューバから続く革命のスローガンだ。「身を捨つるほどの祖国」というものをもたない(もちたくない)身から見ても、キューバなどの第三世界地域でそう叫ばれる「必然性」は、客観的に理解していた。40年有余を経た今は?
その意味では、キューバ革命が実現してきたものを大事に思いながらも、指導者の自信過剰な演説が、現実のキューバを見ないで、あるべきモデルをみようとしていることに危惧を抱いているフェルナンデス・ペレス監督の言葉(3月18日、NHKBS第1「きょうの世界」で放映)に深く共感した。
同監督が、おそらく『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』が作り出した世界的な、キューバ・イメージに不満を感じて(それは、映画それ自体の評価とは別なことだ)、キューバ人だって、何かにつけては音楽とダンスにかまけ、ラム酒をこよなく愛し、よくしゃべり――といった具合に、きわめて外向的なイメージから外れて、静かに読書したり、考えたり、私的で内面的、内向的な時間を愉しむ人間もいると語っていたことも、当然のことなのだが、おもしろかった。
こうして、すぐれた映画を通して、ハバナに住む愛すべき人びとの表情を知ってしまうと、国際政治の中に登場するキューバ関連ニュースに、いっそう心が波打つことになる。
最近来日したアムネスティ・インターナショナルのアイリーン・カーン事務局長は、アルカイダ容疑者などを収容している米軍の在キューバ・グアンタナモ基地の状況について、そこで何が行なわれているかもわからぬ、闇の中の「強制収容所」にひとしい、と断定した。
米軍兵士がグアンタナモ基地で、クアルーン(コーラン)をトイレに捨てたか捨てなかったかの真偽の追求にメディアが夢中になっている限りは、グアンタナモ基地という存在の不条理にも、弁護士や家族との面会も許されないままにそこに幽閉されているイスラーム圏の500人以上の人びとの無権利状態にも、世界は無自覚のままで居続けるのだ。
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