見てはいけないものを見てしまったように感じて、すぐチャンネルを変えた。
1月30日、日曜日の朝、いつものように、新聞を読みながらテレビの報道番組をかけていた。
おどろおどろしい声を背景に、北朝鮮の飢餓事情や難民が置かれている状況を映像として見せることに熱心な日本テレビの「ザ・サンデー」と、批判精神が少ないがゆえに重用されているとしか思えない毎日新聞編集委員・岸井成格が毎週出るTBSテレビの「サンデーモーニング」の音声を交互に聞きながら、リモコンを操る指がふと別な局に触れてしまい、フジテレビ「報道2001」が映し出された。
顔つきが岸信介にますます似てきた(アジア太平洋戦争の時代を思い出し、60年安保の時代を知る者には、それだけで憎むに十分な理由をなすと言っても、あながち、理不尽ではない)自民党幹事長代理・アベシンゾウが、何やらパネルを手に語っていた。
一瞬でチャンネルを変えたから、ここに再現する字面は正確ではないかもしれないが、縦には「朝日新聞」と「NHK」の項目があった。
横の項目は「女性国際戦犯法廷」と「今回のキャンペーン」とでもなっていたのだろう。
左側には上下それぞれ「松井やより」「池田恵理子」と記してあった。右側はアベの手に隠れていたが、当然にも「本田雅和」と「長井暁」の名前があったに違いない。
アベは、もちろん、2000年末に開催された「女性国際戦犯法廷」を取り上げた4年前のNHK番組にまつわる「政治家の介入による改変事件の有無」のことを語っていたのである。
アベの意図は、一瞬にして見てとれる。「法廷」を主催したヴァウネットには、朝日新聞の松井とNHKエンタープライズの池田が入っていた。
アベらがNHKに圧力をかけて番組内容を改変させたとする今回の報道においても、朝日の本田とNHKの長井は連動している。
アベにしてみれば「茶番」というべき法廷も、今回の中傷的な報道も、朝日新聞とNHKの内部に巣食う極小の人間たちが織り成すこの「相関図」によって支えられているのだ――『諸君!』3月号におけるアベの言動から推し量っても、この推察は外れていないと思われる。
この一件を朝日新聞が大きく報道したのは1月12日だったが、それからほぼ3週間後になっても、アベシンゾウがこの程度の水準の「反論」に甘んじていたことを知って、私はやはり心底驚く。
この程度の「弁明」をさせているテレビ番組があり、それには幾人もの局員が関わっているという現実にも驚く。
今さら、という内心の声がないではない。しかし、NHKの番組の内容に関わって政治家の介入・圧力があったかなかったかを本質とする問題をめぐって、ここまでズラシた地点で「応える」というのは、論理的に言ってこの上なく恥ずかしいことである。
とても自分に許すことができるような理屈ではない。「敵方」にもその程度の矜持はあるだろうと、私はながい間考えてきた。そのような、ギリギリの「水準」をすら易々と乗り超えたような言動が、電波と紙面を大きく占めている事態は、あまりに異常である。
「事実」を究めることに何ら拘泥することもないアベの悪扇動は留まるところを知らない。
件の「法廷」の検事役を務めたのは北朝鮮の代表者二人であると断定する。
時にはこれを「工作員」と表現し、マスコミ関係者に会って北朝鮮シンパに仕立て上げることも「オペレーション、すなわち工作」なのだと牽強付会な物言いをする。この強引きわまりない「論理」は、次の結論を導き出すための仕掛けである。
すなわち、かの「法廷」なるものに北朝鮮の独裁政権が絡んでいたことを考えると、事件から4年後のいま、アベシンゾウとナカガワショウイチが朝日新聞の集中砲火を浴びているのは、未解決の日本人拉致事件に関わって北朝鮮への経済制裁発動を強硬に主張している自分たちを狙い撃ちしたものなのだ、というように。
私は、アベらの言動に対して、事実をもってリアリズムで対応・対抗することの虚しさをこの間抱えてきた。
それは、首相・コイズミにも見られることだが、虚構に虚構を重ねた言動を繰り返した挙句に「事実」を作り出してしまう彼らのやり口に対する徒労感なのだろう。
NHK問題の論考を読むために『諸君!』と『正論』を久しぶりに熟読したが、とても読めたものではない。
「敵方」の思考が、歴史認識にも論理にも裏打ちされないままに、むしろそこに居直る形で大手を振って流通していることは、この社会の危機が一段と深まったことを示している。
そんなことで鬱屈した心を抱えているさなかに、すでに読んだという友人に薦められて、三崎亜記『となり町戦争』(集英社、2005年)を読んだ。
第17回小説すばる新人賞受賞作である。ある日、町役場の広報紙に載った「となり町との戦争のお知らせ」。
戦時下にあるという実感ももてないままに、主人公は町役場から敵情偵察を任じられるが……。
これ以上のストーリーは明かさないほうがいいだろう。
五木寛之に倣って、この著者を評して「無意識の天才」と呼ぶか「卓抜な批評性」を掴み取るかは、それぞれの読者に委ねられていようが、私は「見えない戦争」を、何らの暗さも感じさせないままに、むしろ軽妙に描いたこの作品に、いかにもこの時代にふさわしい批評精神を感じた。
作者は、こんな物言いを聞いたら舌をペロリと出してほくそ笑むかもしれないが、こんな時代を批評的に生き抜くためには、この作品に横溢しているような「幻視力」が必要だと思える。
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