昨年末、演劇企画集団THE・ガジラ公演、鐘下辰男作・演出『あるいは友をつどいて』を観た(池袋・東京芸術劇場)。
事前に新聞に載った小さな紹介記事では、1970年代の反国家テロリズムを題材とした芝居らしいということまではわかったので、気にはなっていた。
観た人からの連絡で、実際に起こった東アジア反日武装戦線・狼グループの三菱重工ビル爆破(1974年8月30日)を下敷きにした作品だということを知り、さっそく観に行ったのだった 。上演台本はその後、『悲劇喜劇』2005年2月号(早川書房)に掲載された。
長年自分の来歴を隠し、ゴーストライターとして生きてきた男がいる。彼はいま初めて、自分の言葉を書こうとしている。そんな思いに駈られたのは、他でもない、若い女の来訪がきっかけだった。
男のもとには、先だって、ゴーストライターの仕事の依頼に来た男がいた。男は「遺書」にひとしい物語をゴーストライターに語ったのち自殺した。そして、その「遺書」の宛名人であった娘=若い女が訪ねてきたのだ。
ゴーストライターの男と、訪ねてきた若い女との、噛み合わない会話が続くうちに、自殺した男も、そしてかつてその男が若かったころ属していた同じ政治グループの男3人も登場して、終わりのない対話劇が展開していく。
最後には、「あなたの心 言葉にします」が売り物だった「幽霊ライター」もまた、かつては同じ組織に属していたが、その後世の中を欺くために偽名で、自分のではなく他人の物語を書き綴ってきたことが明らかにされて――
舞台装置はいたってシンプル、六人の登場人物の、所作的な動きも少ない。いきおい、台詞(言葉)がどこまで「立っているか」が勝負の、素人目にも難しい芝居である。私は、全体として緊張感が漲る、いい芝居であったという印象をもった。
芝居や映画や小説で、若い学生運動の用語が氾濫するのを見聞きしたときの、あのどうにもならない気恥ずかしさを観客が強要されることもなく、言葉、言葉、言葉にこそ集中して、観客は舞台に見入ることになる。
作者・鐘下は、現実に行なわれた三菱重工ビル爆破の行為当事者たちが残している証言を十分に読み込み、現実に出された声明文などの一部を生かしたうえで、人物像と物語をフィクション化した。その作業のなかで彼が重視したと思われる点にふたつ触れてみる。
「予告電話」が何度も出てくる。現実に行動した戦線の「狼」グループも、三菱ビル前に爆弾を仕掛けたうえで同社に予告電話をかけ、「避難せよ」と告げた。殺意は、もとより、なかったからである。
だが、不慣れな相手側の対応の仕方、予告電話と爆発の間に設定された時間の幅の読み違え――不幸な事情が重なって、多数の死傷者は生じた。
爆発五分前に「予告電話」をかけたということを通して行為者たちの本意を証しながらも、電話をかけ始めた時間と、予告電話が完了した時間の「差」に着目することで、当事者間の総括問答は緊張感を孕んで進行することになる。
一個人のなかにすら凝縮して現われる「加害者と被害者の二重性」の問題も、この作品において、繰り返し言及されるテーマである。
現実に存在した戦線の「狼」は、近代日本が抱える植民地支配責任と戦争責任の問題が、敗戦後25年を過ぎた1970年代前半当時、未決のままであることを指摘して、一連の行動を展開した。
「狼」の基本的な思想と行動には疑念と批判を隠さない鐘下も、登場人物が激しくやり取りする台詞を通して、この問題を掘り下げようとしている。
演劇的な展開としては、もっと深く、もっと奥へ、と望まないではないが、鐘下は明快な根拠に基づいて、この問題を主軸に据えている。
彼は、この芝居のプログラムに寄せた小文において、単純極まりない「善悪二元論」がまかり通る時代状況の中で、「狼」が提起した、所与の社会に生きる人間が強いられる二重性に着目し、これを踏まえなければならないのではないかと述べているからである。
東アジア反日武装戦線メンバーの一斉逮捕のとき(1975年5月19日)から、間もなく30年目を迎える。
2005年年頭から心に去来することの多い「敗戦後60年」という問題意識に照らせば、彼らの逮捕は、今年を軸にして捉えた場合の「敗戦後史」にあって、ちょうど真ん中に位置していることを知る。
彼らが選択した行動、それを支えた思想、それが生み出した結果などをめぐっては、当然にも、異なるさまざまな考えがありうる。
鐘下は、このテーマを劇作家としてフィクション化することによって、現実からは少し自由に、解釈のひとつのあり方を示した。
異論を幾重にも積み重ね、時制も過去・現在・未来と自由に行き来する対話を通して、行為者たちもが捉え返そうとしている問題の根源へ向かおうとした。
「予告電話」の有効性をめぐる彼のこだわりは、ひとり三菱ビル爆破を意図した「狼」の足元を照らすものには終わらない。
現実の「狼」の思想と行動に決して共感をもつ者ではない鐘下は、にもかかわらず、彼らがある時代の動きを予感して、何かを「予告」したのではないかという暗喩を込めたように思える。
深読みかもしれないが、そう捉えることで、この芝居は深みと広がりを増すのではないか。
民主主義、人権、軍備不保持、戦争放棄――これらの言葉に対応する現実はますます私たちの視野から消えていこうとしている。
原理もなく、規範もなく、社会の足元を掘り崩してゆく自殺的な風潮とは、あくまでもリアリズムの同一次元でたたかわなければならないことは自明のことだ。
同時に、この苛立たしいまでの現実に拮抗する、フィクションとしての構想力と言葉は、確実に存在し、私たちに新しい道を指し示す。
劇団ガジラの芝居『あるいは友をつどいて』や、前回触れた三崎亜記の小説『となり町戦争』などは、そのような意味で貴重な、同時代の表現だと思える。
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