|
2005選挙「勝利者」の独白 |
「派兵チェック」第156号(2005年9月15日)掲載 |
太田昌国 |
東京拘置所に確定死刑囚として収容されている人間が、今回の衆議院選挙投票日以前に、面会者に言ったという。
「獄中で購読している新聞を読み、毎日夜7時のNHKニュースを録音したものが、検閲後時間的に遅れて放送されるのを聞いているだけでも、自民党が圧倒的に優勢な状況がわかる。カラオケで何を歌うかを聞かれて、小泉は恥ずかしげもなくプレスリーだのX・JAPANだのと挙げているが、民主党の岡田は《歌いません》と答えていた。これだけで、選挙民のウケは違ってくる」。
「恥ずかしげもなく」と私を言うのは余計だが、情報が厳格に統制されている獄中に30年間もいるにしては、彼の判断は的確だ。顔の造作ばかりか考え方も四角張っていて、柔軟性のない岡田君が大衆ウケしない理由もよく見抜いている。
現在もマルクス主義から完全には切れてはいない評論家が、ある集会で語ったという。
「元来共産党の専売特許であった中央集権主義的な恐怖政治をやっているのが、小泉だ。自分の政策に反対する者はすべて追い出し、抵抗する者には《刺客》をおくるという今回のやり方が奏効し、人びとのあいだに政治とはこういうものだという意識が定着するなら、ソビエト的な恐怖政治の時代が来る」。
否定的な例としてソビエトを持ち出さざるを得ないとは、立場上お気の毒なことだが、身(仲間内)から出た錆、仕方なかろう。いずれにせよ、彼の分析は、非共産主義者である私にしても、自民党を《ぶっこわす》ためにやらねばならぬと覚悟した道がどこへ通じているかを捉えていて、鋭い。
自民党内では「変人」と揶揄されることはあっても、私も十数回の衆議院選挙を勝ち抜いてきた人間だ。
自分の選挙であっても、閣僚をいく度か経験し応援演説を頼まれた場合であっても、選挙カーの上に乗って演説した時に、聴衆の反応がどんなものであるかは、すぐ見てとることができた。
4年前の総裁選挙で、党内の政治力学上の関係からヒョンなことで私は選ばれたが、その直後の記者会見、テレビ会見、新聞報道、そしてやがて国会論戦、地方自治体や国政選挙など――さまざまな場所に私が露出する度に、「政治」にというよりは私が本来的にもつスタイルと、打ち出す政策の方向性に対して、ただならぬ関心と興味をもつ人びとが群れ集う様子が手に取るようにわかった。それは、かつての選挙の時のありようとは、質的にも量的にも、格段に違った。
派閥を作らず、「子分」も持たない私は、確かに、自民党総裁としては異色な存在であろう。ことさらに奇を衒ったわけではないが、料亭政治に明け暮れるぐらいならオペラを観るか公邸で音楽CDを鑑賞するというふだんからのスタイルが、公衆の目に認知されていくにつれ、私に対する関心が驚くべき勢いで増していく様子もまた、すぐにわかった。
戦後保守政治の澱みに、人びとはうんざりしている。夜になると、料亭に黒塗りの車で乗り付けては仲間と密談し、ほろ酔い加減で車に乗り込むところばかりを映されてきた歴代保守党政治家に比べ、毎日必ず総理番記者の前に現れて、質問に二言三言でも答える私の姿が、これほどの新鮮さで受け入れられるとは、私にすら予想外のことだった。
答えの中身が問題なのではない。いつも大したことは言っていないことくらい、掃いて捨てるほどいる評論家に言われなくても、自分でわかっている。そのスタイルが決め手なのだ。
「首相動静」に載る夜の食事場所だって、フレンチかイタリアンかスパニッシュ、せめて瀟洒な中華料理店であるように心がけてきた。都市生活者が多い高度消費社会の人びとの感性は、そうしたスタイルに寄り添うのだ。小泉は中身のない人間だ、入り口を入るとすぐ出口だ、と繰り返し言っていた同窓の物書きは、口惜しかったら、選挙に出て、私と人気争いをしてみろ。
かつてなら、選挙民の3分の1ほどの共感は勝ち得てきた革新派も、往年の輝きを失っていた。ソ連は崩壊した、社会から貧困は追放された。さまざまな不平が現実政治を標的にするのは、どんな社会でもありがちなことだが、生活がそこそこ安定している社会における不満や不平の表出の仕方は違う。
「革新」の中に「保守」や「停滞」や「旧守」を見抜き、「保守」の中にも「革新」と「改革」を見る感性が育つのだ。私が前面に登場したタイミングは、とてもよかったのだろう。
人びとが私に対してもつものは、関心や興味というよりも、《支持》にちかいということが、私にはわかった。これを利用するに如くはない、と政治家なら誰でも考えよう。私とて、その程度には政治家だ。
高度消費社会に生きる大衆は、刺激過多で忙しい。若者は新聞も読まなくなって久しい。言葉はわかりやすく、簡潔に。歯切れよく、断定的にものを言う。
「敵」を明確に定める。そこそこ生活はできるとは言っても、不安な要素はいっぱいある。その不安や不満のはけ口を「敵」に向けさせればよい。
大衆がもつ欲望や怨念(ルサンチマン)を、それと知られずして、活用するのは、当たり前のことだ。私のことを超歴史的だとか非論理的だとか言いたい者には、言わせておけ。
私には、時代の流れに逆らい自説を曲げなかったガリレオだって、何なら「汝の道を行け、そして人びとの語るに任せよ」の道を突き進んだマルクスだってついていると言ってもいいのだ。
どんな思想領域でもクロスオーバーして振る舞うのが、イマドキの若者の琴線に触れるんだから。
今回の選挙では、かつて私に「総理、総理!」と迫ったために視聴者から「総理をいじめるな」との電話やファクスが殺到したと言ってぼやいていたあの辻元清美が復活した。
その辻元にさんざん追及された鈴木宗男も蘇えった。テレビに出ずっぱりだった私は見損なったが、鈴木は、開票速報中のあるテレビ局で言ったという。「小泉さんも岡田さんも新自由主義なんです。同じ新自由主義なら歯切れのいいほうへ流れたということです」と。
この田舎政治家には、地域に根づいているぶん独特の嗅覚が備わっていて、相変わらず、おもしろい。
あの土臭い男の質問と、都会的な私の洗練されたワンフレーズ答弁は、人びとの関心を惹きつけるだろう。辻元や宗男は、かつてのように、スパイスとして活用しよう。同じタイプの人間ばかりでやりあっていても、政治はおもしろくならない。
さて、選挙結果は見てのとおりだ。小泉的な「感情」に基づく政治煽動に乗るな、という声も高い。
だが、効率的戦争の観点から「軍縮」に懸命な国際政治学者、計算高い財務省官僚、マネーゲームに精通した金融アナリスト――「女性であるもかかわらず」感情ではなく理性と知性によって私を支える国会コンパニオンも、選り取り見どり、大勢そろえた。
独裁者は孤独だという。自民党の中では「孤児」にひとしかった私には、なんのこともない。しかも、情勢は変わった。開票日翌日、記者会見を終えた私は、ストライプのカッターシャツを着て、スキっとした足取りで会場を去る。
陪席した党役員は、ノーネクタイの者でも濃紺のスーツを着て、全員総立ちになって恭しく私に頭を下げている。「革新」と「伝統」。対照的なこの構図が、何度でもテレビや新聞写真で流されることが大事だ。大衆は、「改革」の現実を、こうした日々のスタイルの中にすら見てとっては、明日への希望を新たにするのだ。
|
|