一
ある過去の出来事と、私たちが生きる現在との間に流れた時間を考えていると、思いがけないことに気づくことがある。
今年、二〇〇五年がアジア太平洋戦争における日本の敗北から六〇周年に当たることは、マスメディアでも年初頭から話題になっている。
本誌の読者が共通してもつ関心に引きつけて、東アジア反日武装戦線メンバーが一斉逮捕された一九七五年という年代をそこにはさみ込めば、それはちょうど敗戦後六〇年間の真ん中に位置していることを知る。
一九四五年から七五年にかけての三〇年、七五年から二〇〇五年にかけての三〇年の歩み
(社会全体の、そして個々人の)をそれぞれ捉え返すことで、戦後史(あるいは、悔しいことを言えば新たな「戦前史」)から重要な問題を引き出すことができるように思える。
視点を変える。「明治維新」(一八六八年)から六〇周年目の年は一九二八年である。つまり、六〇年という時の流れは、(止むを得ず元号を使えば)「明治」と「大正」年間をすべて包摂してしまって、なお若干余る時間帯である。
政治・社会的には、この間に日本と朝鮮の間にどんな関係が成立したかを考えればよい。
朝鮮併合の報に接して、地図上の朝鮮国に黒々と墨を塗って秋風を聞いた啄木は、この六〇年の時間帯の半分を満たすこともない年数で生き死にした。
経済的に苦しみの多い短い生をおくり、死後百年を超えたいま(気の毒にも、屈辱的にも)腐朽せるブルジョワ国家の五千円紙幣(だったっけ?)の顔にされてしまった一葉も、同じである。
三〇年にしても、ましてや六〇年とは、実に数多くの出来事を包摂してしまう時間帯で、自分たちがそこでなしえたことは何? と自らに問うことは、本当は、おそろしいことでもあることがわかる。
二
韓国政府は去る一月中旬、三〇年を過ぎた外交文書を公開対象とする「三〇年ルール」に基づき、一九六五年の日韓条約関連文書の一部を公開した。
このルールが存在することは、政府間の外交関係においても、三〇年という時間帯が過去を対象化しうる長さであると国際的に考えられてきたことを示している。
私は一昨年『「拉致」異論』を書いていたときに日本における当時の国会討論の内容を検討したので推定はできたが、公開文書は、日本政府が戦後補償を逃れるためにいかに躍起になっていたかを余すところなく明らかにした。
歴史教科書問題や「従軍慰安婦」への補償問題は、四〇年前に日本政府がとったこのような責任逃れの態度に起因しており、それゆえに敗戦後六〇年の今なお未解決のままなのだ。
焦眉の急の課題としての共和国(北朝鮮)との国交正常化交渉においても、同じことが問題となるだろう。
二〇〇二年日朝首脳会談で出されたピョンヤン宣言は、今後の正常化交渉の基盤をなすものになるだろうが、戦後補償を逃れたい日本側と、経済援助という名の金がほしい共和国政府側は、六五年日韓条約方式で妥協点を探ろうとしている。
時の両政府の思惑はともかく、民衆レベルで言えば、それこそが禍根を残すものであることを、私たちはたゆまず主張し続けることが必要だ。
韓国政府はさらに、七四年文世光事件についての外交文書も公開した。朴大統領殺害を図った在日朝鮮人青年の背後関係に関わる内容である。
在日朝鮮総連が文世光に指令してこの行為が実行されたと捉える韓国政府が、総連への捜査を「忌避する」日本政府に不信感をあらわにし、外交関係の断絶すら考えていたことが明らかになった。
私たちは、東アジア反日武装戦線「狼」が、この文世光の行為に大きな衝撃を受けたことを、当事者の証言を通して知っている。
「狼」は前日、那須から東京に戻る天皇列車の爆破を計画し、荒川鉄橋で実行寸前までいっていたが、不審な人物が目撃しているように感じて撤退した。
翌日、同世代の在日朝鮮人青年が韓国軍事政権最高責任者を標的とした行為を実行したことを知って、自分たちの不徹底さを痛感し、急遽二週間後の八月三〇日、同じ爆弾を三菱重工本社ビル前に設置するに至った、とする証言である。
公開された文世光関連文書を報道する一月二一日付毎日新聞は、文公判を扱った本が韓国で出版されており、そこでは、事件から四ヵ月後には死刑を執行される文世光が、生前に語ったという言葉を伝えているという。
「私はバカでした。韓国に生まれていれば、こんな罪を犯さなかった。朴大統領に心から申し訳ないと伝えてください」「だまされて過ちを犯した私がバカで、死刑になっても当然です」
「狼」ではない私も、この言葉が本当に文世光の口から語られたものだと仮定して、過去を振り返るよう誘われる。三〇年の歳月は容赦のないものだ。
三
昨年末、演劇企画集団THE・ガジラ公演『あるいは友をつどいて』を観た。東京池袋・東京芸術劇場での一一日間興行だった。同劇団の主宰者、鐘下辰男の作・演出によるもので、テーマは「狼」による三菱重工本社ビル爆破事件を扱うものだった。十勝平野の鹿追に生まれ育ったという鐘下は、先住民族=アイヌとの関係性を考えざるを得なかった年少時体験をもつが、それゆえに、思想も行動も支持はできない「狼」の問題意識に注目して、今回の作品化に至ったものらしい。
「観劇の手引き」として観客に配布されたA4一枚のチラシは、「狼」の誕生から死刑判決までの動きを実名を示しつつ正確にたどるものだった。
劇のストーリーも、当事者と周辺資料を広範かつ深く読み込むことによってはじめて可能になるような内容のものとして成立していた。
脚本が公開されていないので台詞を正確にたどりなおすことは難しいが、七人の登場人物による討論劇は、予告電話の効力をめぐり、カプセル保持の妥当性をめぐり、「加害」と「被害」の問題をめぐって、濃密に展開された。
私は、その数ヵ月前に三好十郎作の『胎内』を観て、千葉哲也の演技に注目したが、その千葉が鐘下の芝居でも重要な役を演じているのを知って、『あるいは友をつどいて』という芝居全体を支えている力の広がりに触れたように思った。
三〇年前の「過去」の出来事をテーマにしたこの作品が、現在を照射し未来を予感するという、芸術本来の仕事を果たしていて、頼もしくも感じた。
私たちが心をかける人びとが逮捕されて三〇年目を迎える今年を、多様な角度からこの三〇年を振り返り、未来の三〇年を見通すことができるような形で送りたいと思う。
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