北朝鮮による拉致事件をめぐる報道・情報の内容、世論の受けとめ方などに、ある変化が見られるようになってきた。情報と解釈が多様化してきた、と言ってもよい。もちろん、ジャカルタにおける曽我さん家族の再会報道に見られるように、一方では相変わらず過剰な取り上げ方も続いている。
「家族」をめぐる物語は、眺めている者たちが、同情の対象として安心して一体化できているうちは、曽我さん報道とそれに対する穏やかな世論の反応を呼び起こして、「こころ暖まる」ものとしての水準を維持し続けるだろう。
だが、先行きは、誰にも分からない。イラクにおける日本人拘束事件や、小泉再訪朝をめぐって、関係者「家族」の態度と発言が、ある一線を越えたと「世論」が判断した時(そして、その雰囲気を利用しようとする者たちが、陰に陽に蠢いた時)、社会的な空気は一変した。
声をあげる市民を忌避する、草の根ロマン主義の論理と心理を、「論座」2004年8月号の北田暁大論文は分析している。
イラク人質・拉致家族をめぐる二つのバッシングは、「サヨク」と「プロ市民」をもっぱらネット掲示板上でおもしろおかしく嘲笑してきた「2ちゃんねらー」の世界がネット空間の外部に染み出してきたこと、彼らにとって問題は「サヨク」だけではなく、「無謬の正義の立場」に立つことができると信じて疑わない「市民的な語り口」の人なのだとする北田の解釈は、私の共感を呼ぶ。
小泉再訪朝を指して「最悪の結果だ」とか「プライドはあるのか」と批判せざるを得なかった拉致被害者家族会の一部と人びととはちがい、曽我さんには、幸い現在の時点で、日本政府を厳しく批判する発言を行なう必要はないようだが、参院選投票日直前のジャカルタ再会となったこともあって、大げさに演出された日本政府による「特別待遇」ぶりが長引けば長引くほどに、どのような「世論」の反転が起こるかも分からない。
その意味では、私がこれまでいくつかの論点で批判してきた佐藤勝巳「救う会」会長や蓮池透「被害者家族会」事務局長の発言(前者は「論座」8月号、後者は「諸君!」8月号)に、家族会へのバッシングをうけての、来し方のふりかえりが見られることが興味深い。
佐藤は、出版社でもテレビ局でも下にも置かないもてなしをうけてきた家族のふるまい方について批判的に語り、蓮池も「家族会はもっと謙虚でなければならない」と語っている。私の考えでは、それは、単にマナーの問題に留まらず、日朝の歴史的・現在的関係の捉え方にも及ぶべきものであるだろう。
別な方向からの変化もある。弁護士で、過労死弁護団で活躍している川人博は「論座」8月号に「徹底調査で独裁者を国際的に包囲せよ――拉致問題解決のために何をなすべきか」を書いている。
川人は、2003年3月に結成された「北朝鮮による拉致被害者の救出にとりくむ法律家の会」幹事も務めている。この法律家の会は『拉致と強制収容所――北朝鮮の人権侵害』(朝日新聞社、2004年)を出版したばかりだ。
川人の論点には後で触れるが、この著書には、拉致犯罪を認めた2002年9月17日の金正日発言を契機に一気に浮上した「特定失踪者」(日本政府の認定を得ていないが、北朝鮮による拉致の疑いがある人びと)についての詳しい情報も収められており、注目に値する。
失踪時の状況が、主として家族からの情報によって数頁にまとめられている十数人の人びとのケースを読んでも、それが北朝鮮によって拉致されたという具体的な理由を構成するに至っているものは、ない。北朝鮮からの亡命者は、失踪者の写真を見せられて「似た人を北朝鮮のどこそこで見た」とする証言をよく行なうが、それも決定的な証言にはなり得ないだろう。
だが、北朝鮮当局が少なくとも13人の日本人を拉致したことを認めた2002年9 月以降は、この問題について、以前と同じ態度で臨むことはできない。つまり、失踪の時期、場所、年齢、職業、北朝鮮工作員の上陸地点など、情報を総合してみた時に浮かび上がってくる拉致の可能性を頭から否定することはできないだろう、ということである。
拉致問題を、「民族間の対立では決してない、北朝鮮の独裁者が日本国民とアジアの人々の人生を奪っているという実態」と規定する川人の立脚点は明快だが、彼の怒りと批判は、拉致問題の重大性を認識できない進歩的知識人やリベラル派知識人に対して向けられる。
だが、それは個別具体的な発言に即しての批判ではない。強制連行に憤ったり、金大中の拉致誘拐に関して政治決着ではなく法の裁きを主張した人が、北朝鮮の拉致には明確な発言をしないと批判したところで、(私もある程度はその問題意識を共有はできるが)名前と発言を明示しない限り、有効な批判とはならないと思える。
「法律家の会」の著書に「北朝鮮強制収容所」について寄稿している小川晴久の文章も「今すぐにも廃絶されなければならないものは、北朝鮮の山の中の強制収容所である。
それは、現代に生きる者の最優先の義務であり、彼がどんなに他の仕事で忙しくても、とりくまねばならない課題である」と高揚している。
事実として大事なことが語られていることは理解できるが、この種の独り善がりな文章には辟易する。金正成=金正日支配下の国家体制の犯罪性に、遅れてきた青年のようにして気づいた左派やリベラルな人びとは、己の今までの無関心さの裏返しのように、声と言葉が上擦る。
落ち着いて、論理的に提起されない限り、「無関心な人びとの共謀」の壁を突き崩すことはできない。
いずれにせよ、中野徹三+藤井一行編著『拉致・国家・人権――北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』(大村書店、2003年)に続いて、単なる北朝鮮暴露本とは異なる性格の本・発言・情報・分析が、ようやくにして多様に現われていることは、従来に比べると、確かに一歩前進であると思われる。
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