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「先住民族との出会い」3題 |
「独火星急使II」(編集=独火星 野戦の月・海筆子通信部、2004年7月1日発行)に掲載 |
太田昌国 |
キューバ革命への関心からこの島の歴史を調べて、はじめて知った。コロンブスがこの島に来ておよそ百年、島は「死の島」と化した。
先住民が絶滅したのである。侵入したヨーロッパ人による虐殺、虐待、持ち込まれた病原菌によるものである。キューバ島だけではない。
カリブ海の島々は、ほとんどが同じ運命を強いられた。ヨーロッパの「栄光の近代」の裏面にぴったりと張りついた無数の死者たち。
以後、日本の、アジアの、世界の、近代以降の歴史を考える時、先住民の存在を、歴史的に、かつ現在的に、無視することはできなくなった。
『アイヌ神謡集』
知里幸恵編訳の『アイヌ神謡集』が岩波文庫に入れられたのは、私の記憶ではもっと昔なのだが、いま手元にある現物にあたると、「第1刷1978年」になっており、そのとおりなのだろう。
カバーに色を刷り込んである現在とは違って、当時は帯がついており、『アイヌ神謡集』は赤色の帯に包まれていたことが、目にも新鮮であった。いくつもある、書物に関わる思い出のなかでも特に忘れがたい記憶のひとつである。
白は社会科学、青は哲学と自然科学、黄は古典文学、緑は明治以降の近代文学、そして赤は外国文学というのが、常に変わることのない岩波文庫のジャンル別色分けだ。
私は、当時、近代日本の植民地主義的膨張の起点を、明治維新の翌年1869年に行なわれたエゾ地の北海道への改名と「開拓使」の設置による明治国家への編入の時期におくべきだと考えて始めていた。
江戸幕府時代から、松前藩を尖兵として和人はエゾ地内部にかなり浸透していたが、そこを全的な支配の下に組み入れたのは、明治国家になってからである。
北海道はおろか、いわゆる「北方四島」までをも「わが国固有の領土」と呼ぶ歴史の詐術が罷り通っているとき、このことを認識することはとりわけ重要なことだと思えた。それは、旧ソ連=現ロシアの立場についても同断である。
国家間の「領土問題」なるものの解決は、国家の枠組みをずらす、外すという、意識的で、果敢な試みが双方からなされない限り、そしてその際には、近代国家がその形成過程において多くの場合暴力的に蹴散らしてきた先住民族の存在を念頭においた、革命的とも言える方針を示さない限り、永遠に先送りの運命にあると私は考えている。
私は、異民族の土地=エゾ地を日本式に改名し強制的に新国家に編入した史実を、このような観点から捉えるべきだと考え始めていた時期だっただけに、『アイヌ神謡集』を外国文学に入れた岩波文庫編集部の見識に共感をおぼえたのである。
作家の津島佑子さんの作品が、私は好きだが、津島さんは『アイヌ神謡集』の区分について、別な考えをもっている。
文学上のアニとして交流のあった中上建次の思い出に捧げられた『アニの夢 私のイノチ』(講談社、1999年)には、津軽出身の父親、太宰治の血にひかれたせいか、幼いころから気になっていた北海道との出会いから、アイヌ叙事詩ユーカラにまで行き着く精神の遍歴にも触れたエッセイも収められている。書店で外国文学の棚に入れられた『アイヌ神謡集』を見て、津島さんは驚く。
日本列島の北海道、東北の先住民はアイヌであり、日本は今まで一方的に加害の立場でアイヌと対してきているのだから出来る限りアイヌを支持・援助すべきである、強制的に日本国籍も持たされているのだから、というのが、趣旨である。
不審に思った彼女が岩波書店に問い合せると、アイヌ語は日本語との類縁性がなく、言語上の区別で「外国語の文学」とせざるを得ないという回答をもらうのだが、それでも釈然としない思いを彼女は綴っている。
植民地国家=日本に、しかるべき責任をとらせるためには、アイヌの文学的表現を今さら「外国」の枠組みに追いやることのない歴史的認識が必要なのだと、おそらく、津島さんは考えているのだろう。
それもひとつの立場だが、私の考えでは、次のようになる。日本植民地主義の最初の試みであったアイヌの土地=エゾ地の支配に関して、日本国家が責任をとらなければならないことは自明のことだ。
だから、1997年に制定された「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が、問題を「文化の振興」にのみ「矮小化」し、先住民権を認めず、補償・賠償問題には一顧だにしない姿勢を明確にした時、私たちはこれを批判した。
そのうえで、文学的・思想的には、現在の国境の枠内に意識を封じ込めることなく、「ユーカラ」も「アイヌ神謡集」も、「エゾ地」時代の歴史的空間の中に解き放つ。それが、アイヌと和人の双方が、近代国家の重荷から精神的に解放されてゆく道筋なのではないか。
日本敗戦に先立つ1943年カイロ宣言および敗戦直前の1945年ポツダム宣言は、「暴力および強欲により日本国が略取した地域」に、北海道と琉球諸島を含めなかった。
ソ連にせよ中華民国にせよ、明治国家が北海道と琉球を包摂する以前に、自分たちが実効支配を行なっていたと主張する根拠をもたなかったために、それらの地が大国政治の谷間で翻弄されることを「免れた」のであろう。
こうして、私たちの中で、現代日本国家の版図の南北両端に位置するふたつの地域が、最初の植民地支配が行なわれたところであるという意識は、きわめて薄い。ことばを換えると、問題のありかの自覚は、この社会を構成する私たちの内部からしか生まれ得ない。
『アイヌ神謡集』を外国文学ジャンルに入れるという試みは、言語上の区別を意味するに留まらず、そのような歴史意識を変えていく起爆力を本来的に秘めている、と私には思える。
『鳥の歌』
「このくにの人間は、外来者に対して、歴史的な経緯があって、どうしても警戒心をいだく。ぼくが最初に、君がどういう人間であるかを説明するから、それから君も挨拶してくれないか」
ボリビア・ウカマウ集団の1995年製作作品『鳥の歌』の撮影に、ほんの数日立ち会うためにボリビアへ行ったことがある。
出迎えにきた監督ホルヘ・サンヒネスは、ロケ地へ向かう車の中でそう言った。ラパス郊外の、少し小高い丘の上にセットはあった。
あの映画の中で、登場人物たる撮影チームが起居している場所として頻繁に登場する建物なので、映画を観ている人には、わかると思う。その時すでに自主上映という形での付き合いが始まって十数年、前作品の『地下の民』では、共同製作も実現していた。だが、一貫した不動のスタッフは、監督のサンヒネスと、プロデューサーのベアトリス・パラシオスだけであり、演技者は映画ごとに変わる。
カメラ、音響などの技術スタッフも、その他諸々の役割分担も、作品ごとに変わる。日本のように大勢の映画関係者がいるわけではないし、ここ2作品は、カメラ担当者はキューバから参加しているくらいだが、スタッフの人選はなかなかに難儀だ。誰もが私たちのことを知っているわけではない。
ロケ地に着いて、ホルヘが言ったとおりに、スタッフや俳優を前に挨拶した。先住民インディオ、メスティーソ(混血)、白人――さまざまな人たちが目の前に立っている。
ホルヘは、私がラテンアメリカ旅行中だった1975年、偶然にもウカマウの作品を観て以来の交友と、1980年以降の自主上映と、『地下の民』の協働作業などの過程を手短に語り、その間にウカマウ集団と私たちの間では精神的かつ経済的な関係性が深化したことを説明している。
精神的な支柱であるホルヘがそう語る以上、基本的な信頼の基盤はできたろうが、私もことばを選んで、ウカマウとの交流が私たちにもった意味を話の中心にして、簡潔に挨拶する。
その後、その夜の撮影が行なわれた。ヨーロッパ人が先住民族を「征服」した史実を批判的に捉え返す映画を製作するために、現代の映画スタッフ・俳優がアンデスのとある先住民の村に入る――という形でこの映画は始まる。
スタッフと俳優は、全員が白人かメスティーソだ。ところが、映画創りに協力してくれるはずの先住民の村人たちは、そっぽを向くばかりだ。
反感や敵意すら感じられる。撮影は進まず、撮影チームのメンバーは、猟銃で鳥を撃ち落したり、村人の日常生活に傍若無人に入り込んだり、イライラした日々を送っている。
ある夜、村人の敵意は頂点に達した。撃ち落されたまま放置されていた小鳥の死骸をスタッフのいる部屋に投げ込み、静かな抗議の意思を表した後、松明をかざした何人もの先住民が家屋の回りをめぐっては、「出て行け!」と叫ぶ。当夜の撮影シーンは、包囲された家屋の中にいるスタッフ・俳優間のやりとりだ。
この画面に至るまでの映画ではすでに、スタッフ・俳優のなかには、さまざまな個性があること、思想的にも一枚岩ではなく、先住民に対する軽侮の感情を顕わにするメスティーソのプロデューサーや白人女優がいることが、伏線的に描かれている。
だが、包囲されたという危機に直面して、自分を虚飾なくさらけ出すのは、そのような人物だけではない。「征服」を批判的に描くことに一番情熱を傾けてきた、その意味では、先住民社会に敬意をはらっているかに見えた監督のロドリゴが、いち早く銃を手にして身構え、他にも銃があるはずだとスタッフに言う。
彼を信頼してきたプロデューサーのヒメナは「先住民を殺すというの?」とロドリゴを問い詰める。一スタッフも銃を手にしながら「ぼくは労組で働いている左翼だし、君たちの味方だから安心してくれ」と、いささか父権主義的な態度で叫ぶばかりだ。
スタッフのなかでは、仲間割れするような、激しい言葉のやりとりが続く。
そのうちに、最初から先住民を蔑み、弟が先住民の娘と恋しているらしい様子を知って「血を汚すものだ」と弟を難詰していたプロデューサーのペドロが、家屋内部にいるスタッフのなかに、外で騒いでいる先住民と内通しているインディオがいるのではないかと疑い、風貌的にもっともインディオにちかい青年を槍玉に挙げて、縄で縛りあげようとする。青年は逃げまどった挙句に言う。「ぼくはインディオじゃない。母は混血だけど、父親はりっぱな紳士だ。白人だ!」。
人びとの動きも台詞もとても早い、緊張感あふれるシーンだ。数回のリハーサルを終えて、いよいよ本番。私は外へ出て、窓の隙間から、本番の撮影風景を眺めた。そして、ホルヘが言った「このくにの人間は、外来者に対して、歴史的な経緯からいって、どうしても警戒心をいだく」という言葉の意味をかみ締めた。
危機に際して、こんな風に噴出する人種主義的・民族主義的な怨念・不信・怒り・戸惑い・居直り。こんな張り詰めた緊張感が支配している社会にあって、ウカマウ的な立場で映画を撮り続けていることの意味が、私の中でいっそう明確になった。
そんなエピソードがあってから、また十数年が過ぎた。昨年(2003年)、ウカマウのプロデューサーで、私たちとの連絡役を一貫して務めてきたベアトリス・パラシオスが急死した。52 歳の若さだった。
先住民のアイマラ文化圏でメスティーサ(混血)として生まれ育った彼女は、その風貌に加え生来の気さくな人柄のおかげなのだろう、ホルヘはよく次のように述懐したものだ、「自分には心を容易には開いてくれない先住民の人びとが、彼女にはよく話をするんだ」と。
白人であるホルヘ・サンヒネスは、その哲学的・思想的確信に基づいて、先住民世界への「越境」を果敢に試みてきた人間だと思うが、どこか、孤高な単独者との印象を与える。善き媒介者=ベアトリスを喪ったいま、どんなふうに、先住民世界と出会うのか。
ベアトリスがいなかった初期ウカマウも、『ウカマウ』(1964年)『コンドルの血』(1969年)など、先住民社会を内在的に描いた秀作を生み出しているが、私たちは、新たな、スリリングな緊張感をもって、ホルヘ=ウカマウの今後と伴走しようとしている。
『サパティスタの夢』
物心ついてからの世界では、不正に満ちた現行秩序を変革(転覆)するために「革命的な」暴力に訴える運動がつねに存在してきた。
輝かしく(見えた)革命家たちが、「鉄砲から政権が生まれる」とか「解放への唯一の道――武装闘争」と主張し、事実、世界各地でその現実は生まれもしたし、超大国の支援を受けた自国政権を相手に、よく抵抗してもいた。
だが、同時に、20世紀後半から21世紀初頭の時代を生きてきた私たちは、その武装闘争によって実現された「革命」や「民族解放闘争」の行く末(現在的到達点)を見てしまった人間でもある。革命的ロマンティシズムは汚辱にまみれ、「革命」は「粛清・殺し合い・抑圧」と同義語になりはて、旧い権力に代わって、新たな権力を生んだ。
ソ連は、遂に、74年間の試行錯誤の果てに無惨に自滅した。「民族解放」は、多くの場合、民衆を疎外したまま、新たな特権層を生み出した。幻滅が広がり、やはり人間の世の中は、なるようにしかならないのだという諦念が、ひたひたと人びとの心に忍び寄る。果てしない、現状肯定の気分に、この社会は満ちている。
世界を満たす、そんな気分も利用しながら、アフガニスタンやイラクにおける米軍主導の一方的な殺戮行為は続けられている。
これに対してイラクで展開されている武装行動が、米日両政府やマスメディアが言うような「テロ行為」ではなく、「レジスタンス」と正しく呼ばれるべき性格のものだということは明らかだとしても、私たちは、その武装抵抗を続けている人びと・集団が、どのような考えに基づいて行動しているのかを、よく知らない。
組織不信論者の私が言うのもおかしいが、かつてなら、民族解放戦線なり革命軍なりが発するコミュニケが、軍事作戦に伴ってつねに存在した。
誰よりもその社会に生きる人びとに、作戦がもつ意義を説明した。外部世界にいる者にとっても、そのメッセージを解読しさえすれば、闘争の意味は伝わった。現イラクの「レジスタンス」からは、その声がほとんど伝わってはこない。
稀に、ビンラーディンやアルカイダを名乗っての声明や録音テープがメディアには流れるが、真偽のほどはわからない。仮にその声明が本当のものだと考えても、「宗教戦争」を誘発するような言説には、私は共感ひとつ持つことができない。それはブッシュの言動に見合い、その意味で両者は「持ちつ持たれつ」の関係なのだ。
米軍の占領支配に対する抵抗のたたかいが必然だとしても、そのたたかいの戦術が、多数のイラク民衆の命をも巻き込みながら展開されており、闘争の先に何を目指しているのかが伝わってこないことは、悲しいことだ。
民衆の犠牲を避けるために最大限の配慮をはらわない形で展開される闘争が「勝利」した後に、美しい「解放」の夢が実現するとは思えない。
こんなことを考えていると、武装闘争によって公然と登場しながら、いち早く「武装」に頼ることなく「政治闘争」への切り替えを図ったメキシコ・サパティスタ民族解放軍の思想と行動の意味が、いっそう鮮明になる。イラクの現在の状況とメキシコのそれとが同一化できるものではないことは、弁えている。
イラクの「レジスタンス」を批判するために、対照的なメキシコの例をひくというのでもない。大事なことを考える契機にできればよいのだ。
1994年1月1日、メキシコ南東部チアパス州のラカンドン密林から市中に公然と現われて、彼らの闘争は始まった。
州政府レベルに対しては、住宅・道路・仕事・電気・医療など日常生活に必要不可欠でありながら従来一顧だにされなかった基本条件の整備を要求した。
メキシコ国家レベル、いやそれは世界レベルの要求だと言ってよいだろうが、同日に発効する北米自由貿易協定に異議を唱えて、経済のグローバリゼーション化に対する反対の意思を明確にした。
その後世界各地で、グローバリゼーションに抗する活動が活発化するが、それには、サパティスタの問題提起が大きな役割を果たしたと私は思う。
サパティスタの思想と行動には、従来の左翼・革命運動のそれとは大きく異なる特色がいくつもあるが、そのひとつが「軍隊」「武装」「戦争」に関わっている。
彼らは、自ら武装していながら、それが本当にありたい姿ではないと言う。人を殺す役目をもつ兵士であることは、究極の目的ではない。
本来なら、医者や教師や看護婦やエンジニアや、人を生かす仕事に就きたい。「兵士が兵士であることをやめることができる」日を、一日でも早く招き寄せたい、と語る。それは、軍隊なき社会の夢想である。
武器を持つ者(軍隊・兵士)がそのことによって、武器なき者に対して優位に立つような、社会のあり方はおかしい――そう考えるサパティスタは、集会や会議において、武装兵士が持つ投票権を厳しく、最小限に限定する。軍隊の思うがままにはならない社会システムを、萌芽的に構想している。
このようなサパティスタの思想は、私の理解では、ラカンドン地域の先住民の考え・哲学を背景にして形成されている。
サパティスタの対外的なスポークスパースンのマルコス副司令らは、伝統的なマルクス主義の教義と理念を頭に詰め込んで、「オルグのために」メキシコの最貧困地域に入り込んだ。
そこには、独自の社会的闘争の経験を積み重ねてきた先住民族の活動がすでにあった。両者は対等の立場で出会い、互いに影響しあった。相互浸透・相互教育の過程が生まれた。マルコスらの西欧的マルクス主義に、先住民の自然哲学・歴史観・人生観が重なり合った。そこに、彼らの独自性の根拠がある。
異質な歴史過程をたどり、異質な価値観によって育まれた者同士の出会いは、それが対等な立場でなされるならば、このような豊かな「成果」をもたらす。
西欧的な価値が普遍性をもつものと信じられてきた世界に、その西欧の侵略によって否応なく作り出された「先住民」の価値観が浸透していくことによって、まだまだ計測し得ない意味が生まれてくるように思える。
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