若いころ、手当たり次第の読書遍歴の中でいくばくかを読むだけで、その後本も売り飛ばしてしまい、そのまま疎遠になってしまう著者がいる。
その中にも、時代状況と自分自身の変化を経て、どこか気になり、古本を買い集めてあらためて出会うことになる人も、たまには、ある。ここ五、六年だろうか、劇作家・三好十郎(1902〜58)は、私にとってそのような人のひとりである。
三好の存在を教えてくれたのは、京都の書店・三月書房を主宰していた宍戸恭一の著書『現代史の視点――〈進歩的〉知識人論』(深夜叢書社、1964年)であった。
いま思えば、持続的な関心をこの劇作家にいだいておれば、という悔やみはあるが、最初の出会いの時に自分の関心がどこに集中しているかによっては、人と本・人と著者の出会いは、なかなか理想的なものにはならない場合もある。
三好は、少年時代の不幸な体験があってマルクス主義に近づき、大学卒業後は労働者解放の夢をいだいて、プロット(日本プロレタリア演劇同盟)に参加した。
だが、教条に呪縛されたソ連式社会主義リアリズムに依拠した創作方法よりはバルザック的なリアリズムに惹かれるものがあって、次第に組織の方針には従わず、独自の方法で作品を創造した。
教条に囚われる者(たとえば、村山知義)は「反党分子」のレッテルを三好に貼りつけた。
戦争への関わりについては、戦後になって自ら次のように振り返っている。
「戦前も戦争中も私の思想は戦争に賛成せず、私の理性は日本の敗北を見とおしていたのに、自分の目の前で無数の同胞が殺されていくのを見ているうちに、私の目はくらみ、負けてはたまらぬと思い、敵をにくいと思い、そして気がついたときには、片隅のところではあるが、日本戦力増強のためのボタンの一つを握っていたのです……」(「抵抗のよりどころ」1952年6月)
敗戦後も戯曲を書き続けた。それについては、後で触れる。かつてのプロレタリア文化運動の仲間たちが、戦争協力をした者も含めて、戦後社会の中で左翼・進歩的知識人としてふるまう偽善を嫌い、これを徹底的に批判したので、いわゆる運動圏では無視され、煙たがられた。
58歳で亡くなり、一部にごく熱心な編集者があって、ある程度の著作が出版されていた時期もあるが、現在入手できる著作は一冊もない。
宍戸以外では、吉本隆明がその作品と生き方を高く評価し、芝居好きだった文藝評論家・奥野健男が何度も三好の戯曲を好意的に論じている。
最近では、NHKディレクターで、ETV2001シリーズ『吉本隆明がいま語る・炎の人三好十郎』を製作した片島紀男が、『三好十郎傳――悲しい火だるま』(五月書房、2004年)という、600頁近い大著の評伝を書いた。
私が関心をもつのは、戦争中の「転向」体験の過程と、それを作品に形象化した方法という問題もあるが、敗戦という現実を三好がどのように受け止めたか、という問題である。戦争についての、先の文章は次のように続く。「これは、私の恥です。私が私自身にくわえた恥です。
私の本能や感性が、私の精神と理性にあたえた侮辱です。肉体が精神をうらぎり侮辱することができるほど、私の肉体と精神は分裂していたということです。
これは、まさに人間の恥辱のなかの最大の恥辱でありましょう。こんな恥辱をふたたびくりかえさぬように、私はしなければならない。私はそうするつもりです。たぶん、そうできるだろうと思います」。
民主主義文学を掲げた「新日本文学会」への参加を断って、三好は独りで戦後の歩みを始めた。
会には、軍需工場に働く労働者の姿を生産文学の名で描き、産業報国会に加わって、三好よりはるかに翼賛していた文学者がいた。
独り歩きを始めた三好には「戦後3部作」と呼ばれる作品がある。『廃墟』(1946年11月)、『その人を知らず』(48年2月)、『胎内』(49年1月)である。
『廃墟』の舞台は観ていない。『その人を知らず』は、三好の生誕百年記念として2002年に劇団民藝が公演したので、はじめて観ることができた。
そして去る10月、舞台化があまりに難しく公演回数の少ない『胎内』を、新国立劇場での公演が実現した機会に、観ることができた(栗山民也演出)。
『その人を知らず』は、戦時下、聖書の「汝、殺すなかれ」の教えに忠実に、牧師の説得にもかかわらず出征を拒否したクリスチャンの物語である。
拷問をうけ、非国民と呼ばれ、実家も崩壊した主人公は、思想風景が様変わりした戦後になると、手のひらを返したように、かつて彼を非国民と指弾した者たちによって英雄扱いされ、それが再び彼を孤立させていく……。
この作品が書かれた1948年という時代状況を考えると、驚くべき先駆性が見られる。
熱烈な戦争協力者であったのに、戦後になると途端に組合運動に挺身する人物を登場させた演劇が、当時の情勢下でいかに刺激的なものであり、「労働者に味方しない」芝居との風評が流され、共産党機関紙が「醜悪な説教劇」と評した事情も「理解」できる。
『胎内』もまた、敗戦直後の日本の精神風景を描いて、秀逸である。登場人物は3人――汚職事件にからんで逃亡生活を続ける男。
男に同行する、体を売って生きてきた女。二人が迷い込んだ山中の洞窟に、先住者として住まい、生きる意欲も失っていた復員兵の男。
最初は、同行している男女二人の饒舌が冴え渡り、後半は、当初消え入るような声を出していた復員兵が次第に生命力を回復して多弁になる。
途中起こった地震で、洞の出口が塞がれ、死に直面した3人が極限状況で、怒鳴るように語る言葉とは何か。戦争責任・戦後責任に関わる三好の問題意識が、きっちりと書き込まれた戯曲である。
21世紀初頭のわずか2年間のあいだに、敗戦直後の日本社会でほぼ孤絶して位置していた三好のもっとも重要な作品が、ふたつ続けて公演されたことに、大きな意味を見出す。
これらの作品が孕む問題意識が、演劇界の狭い壁を突き破って広く社会全体に広がっていくべき時代に、私たちは生きている。
小熊英二も『清水幾太郎・ある戦後知識人の軌跡』(お茶の水書房、2003年)で触れていたが、朝鮮戦争をめぐって清水のオポチュニストぶりを辛辣に批判した「清水幾太郎さんへの手紙」(1953年1月)などにも遡って、三好が戦後思想史の中で果たした役割を再検討したいものだ。
時代的制約としか言いようがないのであろうが、三好は他者の空理空論を批判するとき「ホッテントットのような」という修辞を好む人で、この表現だけにはたじろぐが。
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