金芝河が帰ってきた。
今から三〇年有余前の一九七〇年代初頭、軍事政権下の韓国で、この詩人は支配層の心胆を寒からしめる詩、評論、戯曲を次々と発表した。掲載誌は警察に押収され、発禁となった。詩人は取り調べを受け、逃亡し、逮捕・投獄され、そして苛烈な拷問をうけた。何度目かの逮捕の時の容疑では、一度は死刑判決をうけた。
無期懲役への減刑、刑の執行停止処分による釈放、再逮捕、刑の執行停止処分の取り消し、世界的な救援運動の展開もあって釈放――一〇年間の簡略年表を記すと、あの時代の様相が浮かび上がる。金芝河の主要な作品は日本でも直ちに翻訳された。私たちの、一時期の韓国イメージを形づくるうえでそれは大きな役割を果たし、同時に、詩人がもつ不屈の魂のありかも私たちに伝えた。
釈放から二〇年有余。その間の詩人の発言を私はほとんど知らない。随分と観念的な世界に移行したらしいことが、きれぎれの情報で伝わってきた。一九九一年、転換期の軍事独裁体制に抗議して焼身自殺を行なう学生が次々と現われた時、詩人の声が久しぶりに響いた。
「死の礼賛を中止せよ!」。さすが、と私は思い、その発言に対して韓国民主化運動内部では「死者に対する冒?だ」とする批判が起こっていることを伝える新聞記事に、複雑な感慨をおぼえた。
その金芝河が、本書によって私たちの前に帰ってきた。収められているのは、一九九四年から二〇〇三年までの間になされた五つの発言である。うち三編は講演の収録で、最後の「今、私が立っている場所」は、昨秋京都で行なわれた講演である。編集は翻訳者によるもので、独自の日本語版ということになる。
国家、民族、階級――大きな体系を離れて思考するようになった金芝河は、人々のささやかな生の問題から出発する。
生命への関心は、女性、女性性、フェミニズムの大切さを知ることに繋がる。殺すのではなく生かすことを意味する「サルリム」=生命運動に触れた最初の講演に出てくる問題意識は、地域自治・住民自治・環境などであり、それは男性中心の産業社会的価値意識では対応できないと論じることで、現在の金芝河が、日本の私たちから遠い場所にいるのではないことを教える。
「国家」を、その成り立ちの根源から疑う彼が、南北統一の必然性を知りつつ、国民より強い力をもつ中央集権的な統一国家論へ向かう政治的主流の思考方法に批判的で、これを修正しなければならないと主張していることも、何事にせよ国家中心の論理を批判しなければならないと考える私の深い関心を呼ぶ。
国家と民族のような、大きなテーマから問題を考えることは止めたと語りつつ、金芝河がその次元での世界中の動向に深い関心を抱き続けていることは、例示する事項から知れる。その点も、彼の「生命中心主義」が、現実を離れた観念的な世界に飛翔したわけではないことを示している。
本書を読みながら、ひとりの日本の詩人を思い起こした。左翼詩人として難解な評論を書くことで出発し、その後幾多の思想的かつ実生活上の変遷を経ながら、その詩人は最後には、子どもたちに平易な言葉で物語を話し聞かせる世界に移行した。
金芝河が遍歴の果てに行きついた平明な語り口は、その詩人、谷川雁のそれと二重写しになって、深い示唆を私たちに与える。きれぎれの噂で人を判断してはいけないという、本来もつべき当たり前の自戒の念が浮かぶ。
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