一
私が、菅孝行の名前と彼が書いた文章に初めて接したのは一九六二年のことだった。そのころ私は、北海道の高校を出て東京で学生生活を始めたばかりの時期だったが、その前年に発刊された思想・文学誌『試行』(同人=吉本隆明、谷川雁、村上一郎)を、大きな刺激を受けながら読んでいた。
「文化果つる地」と自嘲的に言ってきたような土地に一八年間暮らし、ごく限られた本や映画にしか触れることができなかった身にすれば、東京では何に取り組むにしても、精神的に背伸びするしかなかった。『試行』に載る文章のなかには、テーマも文体も、私の理解を絶するものもあったが、この雑誌に載るものを読まなければだめだという「予感」だけは感じていたので、どの文章にも目を通していた。結果的には消化不良に終わったものも多かったように記憶している。
その第六号(一九六二年一〇月)に菅孝行の文章『死せる「芸術」=「新劇」に寄す』は載った。内容から判断すればわずか四歳の年上でしかない人が書いたこの文章も、当時の私には難解だった。
名前だけは知っている著名な演出家の新劇論に対する激しい論駁の文章であり、当時の私が大きな関心を抱いていた「芸術」と「政治」の関係をめぐる議論でもあったことを手掛かりに、何とかして読み通した。この人は、演劇を志ながら途中で挫折し、すぐ転身して当時は東映京都で映画製作に携わっている自分を、どこかで許しがたいと考えているようだった。文体がもつある種の「熱気」がいつまでも記憶に残り、当然にも著者の名も忘れがたいものとして刻み込まれた。
菅孝行の最初の単行本は、この文章の題そのままに一九六七年に刊行された(書肆・深夜叢書)。深夜叢書社は、そのころ山形を根城に、思想・文学の特異な出版活動を行なっていた出版社で、『試行』といい、深夜叢書社といい、気になる出版活動を行なっている思想運動体と、関心をもちはじめた著者の結びつきに、読者としての私は大いに満足した。
度重なる引っ越しの過程でこの本は手元から失われており、いまは読み返すことができない。小さな本のたたずまいだけが、はっきりと記憶に残っている。
菅孝行の二冊目の本は戯曲集『ヴァカンス/ブルースをうたえ』(三一書房、一九六九年)だった。いずれも、一九六〇年にたたかわれた日米安保条約反対闘争を現実的な背景にした思想演劇で、「遅れてきた青年」としての私に、戦後史の重大な転換期を画した安保闘争を追体験させてくれた一書であった。
こうして私にとって、菅孝行の名は演劇評論家・劇作家として、まず印象づけられた。今日の若い世代の読者に、菅孝行のこの側面はあまりよく知られてはいないかもしれない。菅が所属していた演劇集団・不連続線が活動を休止した一九七八年以降、彼が芝居の現場に関わることを長い間控えたことも、その理由となっているに違いない。
しかし、菅はその後も、さまざまな角度からの演劇論を執筆する形で、自ら述懐するように「芝居をやらない状態のなかで、芝居に対する緊張を維持しつづけるという、奇妙な芸当」を続けて現在に至っている。
菅孝行の多様な表現活動を理解するうえで、このことの意味を軽視することはできない。『解体する演劇』(アディン書房、一九七四年)の続編『解体する演劇 続』(れんが書房新社、一九八一年)は、再び著者自身の表現を使えば「演劇することの理論についての総括」であり、『戦後演劇:新劇はのりこえられたか』(朝日新聞社、一九八一年、増補版は社会評論社、二〇〇三年)は「演劇することの歴史についての総括」の書である。
これらに、作品論『想像力の社会史:作劇の時間構造』(未来社、一九八三年)を加えて、著者自らが「演劇三部作」と呼んでいる。『関係としての身体』(れんが書房新社、一九八一年)や『身体論:関係を内視する』(れんが書房新社、一九八三年)という著作も、「ことば」と共に「身体」を決定的に重要なモメント(契機)として成立し得る演劇表現へのこだわりがあったからこそ、必然的に書かれたものだと言えよう。
私が「観客」として演劇に魅せられて以降、菅孝行の演劇論は、戦後日本社会の変容の過程に位置づけられた「演劇の精神史」とでも言うべきものをふりかえる時にも、また「ことば」や「身体」をめぐって哲学的な領域のことがらを考える時にも、欠くことのできない水先案内人あるいは伴走者となってきた。
二
演劇が菅孝行の表現活動の出発点であることは、右に挙げたいくつもの演劇関連書リストを見るだけでわかる。今日に至るまで、彼がこの場所を固有なものとして大事にしてきていることは、ごく最近も、演劇関係の同人誌での発言が目立っていることから明らかであろう。
だが、菅孝行の関心と仕事には、当初から、そこに収まりきらない、大きな広がりがある。それは、項目別に要約することを簡単には許さない広がりだと言えるが、私が大事だと思う点をふたつに限って挙げてみる。
ひとつには、社会に現存する差別構造を「天皇(制)論」を通して批判的に分析する仕事である。それは、『天皇論ノート』(田畑書店、一九七五年、新版は明石書店、一九八六年)を皮切りに次々と積み上げられて、編著を含めると、高い山をなす仕事として結実している。
菅孝行の天皇制批判の仕事は、主として一九七〇年代半ばから八〇年代半ばにかけて集中的になされた。一九七五年天皇夫妻の米国訪問によってあらためて象徴天皇制の意味と天皇の戦争責任の問題とが浮上した時期に始まり、やがて「昭和」天皇=裕仁が死亡し、新しい天皇=明仁へと代替わりする一九八九年へと至る直前の時代状況のなかにおいて、である。
前天皇の死と新天皇の即位をめぐるさまざまな奇怪な儀式を見せつけられながら、私は、菅が天皇制論のごく初期の段階で行なった「嬰児殺し論」の鮮やかさを思い出した。
それは、子殺し、とりわけ母親の嬰児殺しに見られる残虐性を、天皇制の存在構造の歴史性と関連づけて考察した「嬰児殺しとは何か」という文章である(『天皇論ノート』所収)。
また、ある一族を特権的な位置に押し上げるためには、「他者」との関係がどのようなものとして形成されなければならないか、という問題意識に発して、一国内の差別構造を分析した『現代の部落差別と天皇制:国家権力と差別構造』(明石書店、一九七八年)や『賎民文化と天皇制』(明石書店、一九八四年)などの仕事の意義を噛み締めたことも思い出す。
ふたつめには、アジア太平洋戦争後の日本の社会思想に対して、菅孝行が持ち続けている深い関心が反映されている一連の仕事である。
『吉本隆明論』(第三文明社、一九七三年)、『竹内好論』(三一書房、一九七六年)、『鶴見俊輔論』(第三文明社、一九八〇年)などの戦後思想家論は、著作家としての菅孝行が行なった比較的初期の仕事の中に入っている。
吉本、竹内、鶴見は、いずれも、それぞれが持つ思想態度・出処進退の独自性において、菅に限らず後代を生きる私たちに、(あるときには正の、またあるときには負の)強烈な影響と示唆を与え続けてくれた思想家である。
早い時期にこれら三人の論客とあいまみえる場所に進み出たことに、菅孝行の強い自負を見る。『竹内好論』には竹内と丸山真男の比較を試みた一節がすでにあるが、今回の「丸山真男論」が一連の戦後思想家論の延長上に位置する作品であることは、容易にみてとることができよう。
それにしても、戦後思想家論としては二〇数年の「空白」を経て(この表現は、公的に発表されたものを読む読者の立場からの物言いであって、著者の内面の動機とは関わり合いが、ない)、菅孝行は、いま、なぜ、丸山真男を論ずることに意味を見出したのだろうか。
それは、本書の冒頭において「9・11以降」の状況論として明快に語られていること なので、屋上屋を架することはやめよう。
学生時代に読んだ『日本の思想』(岩波書店、一九六一年)と『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社、一九六四年)以来、丸山真男は私にとっても、つねに気になる思想家であり続けている。
丸山の死後すでに七年有余になるが、著作集(岩波書店、全16巻、別巻1)はも とより、『講義録』(東大出版会、全7冊)『書簡集』(みすず書房、全5巻)が編まれ、さらには著作集未収録の談話、講演、自主ゼミナール、雑談(丸山がそれを好んだことは、よく知られている)、思い出話の類いが連綿と記録される小冊子『丸山真男手帖』(丸山真男手帖の会)も二〇〇三年末段階で二七号を数え、刊行が終わる気配は、ない。
それだけの「魅力」と「吸引力」を持ちえている人物の文章・論文を読むという行為は、時代の様相が急激な変化にさらされている現在においても、何かに寄与しうるのか。丸山が近代世界の前提としていた認識と価値の枠組の原型には西欧の理念があるが、「9・11」以後、その理念とは似ても似つかぬ剥き出しの暴力を米国とイギリスが中心になって行使している。
こうして、普遍性・公共性を志向してきた西欧近代の「理念」は、限りなく暴力的な「存在」によって裏切られている。多くの人びとが実感している、二一世紀初頭のこの恐るべき現実の只中にあって、この「理念」に賭けた丸山思想は生き延びることが可能なのか。戦後思想史を知る者には、切実で魅力的な問いに、菅孝行は本書で取り組んだ。
菅孝行の文章が、きわめてポレミック(論争的)なものであることは、最初に出会った文章以来、私に強く印象づけられていることである。本書においても、その性格は貫かれているように見える。
著者からすれば、「二一世紀のパラダイムで、二〇世紀前半の思想と学問を裁断している」ことで、「空しくも常に正しく、常勝」する「左右」の批判者たちが、無根拠な丸山批判に興じていると見えるからである。
解説者としての私は、菅孝行がなしてきた仕事の幅と奥行きを、比較的若い読者に向けて道案内するのが役目であり、この論争の審判者としてふるまったり、どちらかに荷担したり、自分独自の考えを披瀝する立場には、ない。
私もまた、「9・11」以後、さらに言えばペルシャ湾岸戦争以後の時代状況の中で、政治・軍事・経済・文化帝国としての米国のあり方を規定してきた「理念」と「存在の現実」を批判的に再考する課題を自らに課してきた。
日本が、より小さな帝国として、その米国の後追いをしている現実にも居たたまれなさをおぼえ、多くの人びとと共にこれを逆転する契機を掴もうとしてきた。その方法は、差し当たっては菅とは別な回路をたどることになるかもしれないが、同じ課題に不可避的に取り組む「同志」の存在を、本書から感じとった。
菅孝行はかつて、演劇論において、「テント・小劇場の演劇をつくることにかかわったすべての者は、制度としての新演劇の墓堀り人にはもっともふさわしいはずである。
墓堀り人なしに、歴史が進んだためしはない」と書いた。それは、もちろん、批判すべき先人をいち早く葬ることを自己目的とするものではなく、自分たちがなした仕事が「葬り方」としての内実を伴なっているという確信があっての言葉であっただろう。
後世の人間が先人の仕事を検証するとき、「葬り方」をめぐる論争は必然的に起こる。事実、菅孝行の本文の脱稿に前後して、安川寿之輔の『福沢諭吉と丸山真男:「丸山諭吉」神話を解体する』(高文研、二〇〇三年)が出版され、そこでは丸山の福沢解釈をめぐって、激烈な批判が展開されている。論争は、さらに深く、継続されなければならないのだ。
いずれにせよ、丸山真男を非歴史的に「葬る」ことを急ぐのではなく、「葬方」をこそ問題としようという本書の呼びかけに、菅孝行の「成熟」を見るーーと、年下の私としてはおこがましい言い方だが、あえて言っておきたい。
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