「暴力はいけません」――誰もがいえるこの台詞の本質を問うところから、本書は始まります。
とりわけ、あの「9・11」以降、「反テロ戦争」をめぐる米国大統領や日本国首相の奇妙奇天烈なレトリックを思い出してみれば、「暴力はいけません」に類した言葉を言っている者こそが、現代世界で最大・最悪の暴力を揮っている現実を、私たちは目撃していることになります。
この倒錯した状況を批判するために、一見口当たりが良さそうに思えるスローガンに疑義を提出すること。著者の出発点は、その的確さにおいて、まず多くの人びとの共感を得るでしょう。
本書はその後、大きくは「第一部 暴力と非暴力」と「第二部 反暴力の地平――主権、セキュリティ、防御」に分かれて、構成されています。
第一部は、現代の条件の下で暴力がどういう現われ方をしているかの考察に始まり、「もっとも暴力が知的・実践的に真剣に問われた時代」一九六〇年代を回顧し、最後に、その六〇年代の暴力をめぐる理論と実践のあり方を厳しく批判したハンナ・アーレントの考えを通して「敵対性」なるものの分析へと向かいます。
まず、一九九〇年代に米国とフランスで製作された二つの映画を通して、現代における暴力の立ち現われ方が論じられます。いずれの映画も観ていない私にも、種々の情報をもとに描いている現実的な世界イメージを背景に据えてみれば、著者が問題を引き出す方法がよく理解できます。
著者の端的なまとめ方によれば、現代の暴力は「水平的な分断化の暴力」と「垂直的に分極化が生み出す暴力」のふたつに特徴づけられます。
詳しくは本書に譲りますが、ソ連崩壊による東西対立の消滅、国民国家の衰退、グローバリゼーションの浸透とそれがもたらしている新しい諸現実などを考え合わせると、この定義づけは、説得力があります。
それは、「暴力からの意味の剥奪」という現実に行き着いています。「遅れてきた青年」として、〈政治的なもの〉をすりぬけてしまって行使されている暴力に、どこか苦いものを感じているのであろう著者は、ここで、暴力が意味を、政治性を持ちえた一九六〇年代へと立ち戻るのです。
そこでは、米国公民権運動の指導者のひとりであったマーティン・ルーサー・キング牧師と、彼が影響を受けたインドのマハトマ・ガンディーらの「非暴力直接行動主義」を、現代日本の反戦運動に見られる、単純明快な「非暴力主義」から切り離す作業が、とりわけ重要に思えます。敵対関係から生まれる葛藤や摩擦が、そのまま暴力なのではない。
こんな当たり前のことを言わなければならない時代なのです。そういえば、著者の姿を、イラク戦争反対のデモの現場で時おり見かけました。
とくに、「サウンド・デモ」の時に(ということは、私も、サウンド・デモの場によくいたということですが)。
その現場感覚があってはじめてわかるエピソードが随所にちりばめられていることが、この本の主張を根拠あるものにしています。
もちろん、キングと同時代の米国には、暴力をめぐる立場においてその対極的存在と見なされていたマルコムXもいれば、ブラック・パンサー党もいました。
著者はそれらの論点の意義を説き明かす作業に入ります。
パンサー党が最終的には消滅していかざるを得なかったとしても、彼らが掲げ、実践を試みたコミュニティー論が「世界を作り変えるための」重要な試行錯誤であったと考えている私にしても、グローバリゼーションという現代的な構図の中で、その重要性を強調する著者の視点は新鮮に映りました。
「主権、セキュリティ、防御」をキー概念に「反暴力」の構想へと向かう第二部も、大勢の人びとに読まれ、観られた小説や映画を下敷きにしながら、論理の展開を図るという方法が、効果を発揮しているようです。
ここでも、いくつもの大切な論点が提示されていますが、私の関心からすれば、「国」の内と外における「敵対性」の現われ方を論議している箇所に、もっとも共感をおぼえました。
つまり、現代日本では、(他の産業先進国と比較しても際立つほどに)労働組合も学生もほとんど対抗性を失っており、(以下の点だけは他国の政治状況と同じですが)政策的にほとんどちがいのない二つの政党の競合状態に〈政治的なもの〉が収斂されつつある。つまり、内的な敵対性は否認されている。
ところが、オウム真理教や北朝鮮バッシングに見られるように、交渉すら不可能な敵は次々と立ち現われ、論議の余地のない「不寛容」が社会に満ち溢れている。
この状況を、著者は「敵対性の抹消と敵対性の絶対化」と名づけています。「こんな窒息的な動きに対して距離をとりつつ、別の線を引いていくためには」敵対性を「正しく」定める必要がある、と著者は結論づけます。
そして、時にはクラウゼヴィッツ理論やナポレオン指揮下のフランス軍侵攻に対するスペイン人民戦争にまで遡りながら、主要には世界現代史のさまざまな事例を挙げて、論理を深めていきます。
著者は独自の論理をすでに自らのものとしているのだから、他者の文献に触れたり、引用したりするのは控えめにしてほしかったという思いは残りますが、短い枚数のなかで、きわめて明快なふり返り方になっていると思いました。
さて、枚数も尽きてきましたが、著者は本書を「です・ます」調で書いています。それに影響されて、この書評も同じ文体で書く破目に陥りました。
私が若かった時代、文芸評論家の中村光夫は常に、作家・評論家のいいだももは時々「です・ます」調で文章を書いていました。
若さゆえか、きっぱりとした切断を好んだ当時の私は、内容以前に、その文体の「戦闘性」のなさに、途中で本を投げ出したことが度々ありました。
張り詰めた緊張感を、この文体は生み出しえないと思ったのです。
読者の多くが若者であろうと想定される、「暴力」というテーマを扱った本書を「です・ます」調で書いた著者の意図がどこにあるかはわかりませんが、客観的に見ればなかなかに戦略的で、その方法は効を奏しているようです。
自分の経験に照らしてみても、抜き差しならぬ場所に「追い詰められる」ことを好む若者が、暴力というテーマをめぐって心理的に瀬戸際まで行くことにならないような仕掛けとして、この文体が有効に作用していると思えるからです。
もちろん、文体の効用だけを言うのではありません。
著者は、自分自身が「暴力と非暴力」「戦争と平和」などときっぱりと区分されるカテゴリーのまえで、割り切れない思いを抱えて逡巡している人間であり、そういう人に向けて書いた本だと述懐するところから、本書の記述を始めています。
その後の書き方も、著者が手探りでテーマににじり寄っていく過程を、読者も共有しながら読み進めるという形になっていて、いわば参加型の読書体験を味わうことができるのです。
引用され、言及されている文献は、おびただしい数にわたります。
哲学思想の古典や、いわゆる現代思想の場合ならば、直接文献に当たりたい読者の希望は比較的簡単に叶えられますが、著者も書いているように、本書の記述の中で重要な比重を占めているブラック・パンサー党の文献などは、古本屋や図書館で探すしかないでしょう。
直接それに当たる読者は少ないだろうと想定されるときにはとくに、引用の的確さや公平性が必要とされますが、著者はその要求に十分に応えていると思えます。
総じて、暴力をめぐる議論の中で、しばらく必読の文献になると思います。
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