現在イラクで進行している事態と比較すると、背景としての政治・社会状況も、現地社会と日本の関わりもずいぶんと違うが、人質事件という共通性にのみ依拠して、過去の三つの出来事をふりかえるところから始めてみる。
1974年、ソモサ独裁政権に対して長年の抵抗闘争を展開していたニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)の一部隊が、クリスマス・パーティーを開いている閣僚の豪邸を襲い、米国大使・軍事クーデタ直後のチリ大使・多国籍企業要人などを多数人質にした。
獄中者釈放・コミュニケ公表・闘争資金の供出などを政府に要求し、ソモサはすべてを受け入れた。
当時ニカラグアにいた私は、乗り合わせた長距離バスの中でラジオを通じて流されるサンディニスタのコミュニケを聴き、内容もさることながら、田舎道をガタガタと走って静かとは言えない車中で必死に放送に耳を傾ける人びとの姿に深い印象を受けた。
独裁政治下で今まで決して公然とは耳にできない言葉を聞いて、多くの人びとが喝采を送っている様子が見てとれた。
日本のことが直接に語られていたわけではないが、いい文書だと考えた私は、長い全文を翻訳して日本へ送り、当時の『情況』誌に掲載してもらった。
その後FSLNメンバーと知り合ったが、鉄壁の独裁体制を誇ったソモサの危機を公然化させるうえで、この作戦がいかに重要であったかについて考えが一致した。サンディニスタはそれから5年後にソモサ独裁体制を倒した。
1978年、内戦下にあった中米エルサルバドルの民族解放組織「民族抵抗」(RN)は、中米でも最大規模の日系合繊企業インシンカ社の日本人社長を誘拐した。
同社は軍事政権との経済的・政治的癒着を前提としてその企業活動を成り立たせており、これは反政府・反帝闘争の一環であるというコミュニケが発表された。事件は、(政府側の説明によれば)ゲリラの処刑によって、(ゲリラの説明では)撤退作戦中に政府軍が発砲した弾丸によって、社長が死亡することで、終わった。
真相を私は今も知らない。同年暮、RNはインシンカ社の別な日本人責任者を誘拐した。噂によれば、同社は推定数十億円の身代金を支払い、釈放を取りつけた。その前に、世界各国の主要新聞は、インシンカ社の費用でRNの長文のコミュニケを掲載した。
日本では日本経済新聞が夕刊の全2面を使って、スペイン語の全文を掲載した。第三世界の政治・経済・社会状況を牛耳る、日本を含めた高度産業社会の仕組みを批判的に分析した明快な論理のものであった。
大事なコミュニケだと考えた私は大急ぎで翻訳し、ミニコミ紙誌に掲載した。ゲリラの行動を否定するにせよ共感を寄せるにせよ、何らかのメッセージを伝えようと思っても、作戦展開中のゲリラと連絡をとることなど、思いも及ばない時代だった。
その後知り合ったエルサルバドルの解放勢力メンバーは、当時の身代金を指してであろう、「日本帝国主義はエルサルバドルの解放闘争の進展に寄与しているよ」と語った。
1960年代の南米ウルグアイでも、国際援助機関のスタッフとして入国した人物が、実は現地の軍・警察に政治犯への拷問などを指揮する米国の軍事要員だったことを暴露したゲリラが当人を誘拐したこともあった(コスタ・ガブラス監督の『戒厳令』は、この実話に基づいた映画である)が、これらは、体制側の有力人物を誘拐して何らかの政治目的を達成するゲリラ戦術が、その組織の本質的な「堕落」を招くことのないギリギリの地点で、有効に選択されていた時代であったように思える。
1996〜97年にかけて、ペルーのトゥパック・アマル革命運動(MRTA)は、フジモリ政権と日本支配層との結びつきを捉えて、天皇誕生日祝賀パーティーの客で賑わうリマにある日本大使公邸を襲い、多数の人びとを人質にして、獄中者釈放などフジモリ政権への要求を突きつけた。
4ヵ月有余後、フジモリは特殊部隊に武力突入を指令し、ゲリラ14人、警官2人、人質1人の死者を出して、事件は終わった。
その期間中メディアを通して大量の人質報道が流される一方、日本・ペルー両政府の方針と報道の内容をめぐって、少ないながら批判的な問題提起もなされた。
MRTA の方針に全面的には納得できない私も、それを行なったが、MRTA に向かって問題提起する可能性を探ろうとはまったくしなかった。国外にいるMRTAメンバーがインターネット上にホームページをすでにもっている時代であったから、やろうと思えばそれは可能だった。人質の中の知り合いに本と簡単なメッセージを差し入れることしか、しなかった。
冒頭に述べたように、上に挙げたいずれの例も今回のイラクの事態とは状況が違いすぎる。だが比較することで、現在私たちが手にしている「有利な」諸条件を確認することができる。重要なことには、人質にされた人びとの「性格」が違う。そして、インターネット時代において人びとの交流を可能にするネットワークのあり方と、マスメディア外での情報伝達の効率性が決定的に違う。
インターネット上の情報を活用し、特定のメーリング・リストやホームページで提案されているイラク人質事件に関わる具体的な行動をひとつでも選択している人にとっては、いままで自分たちが積み上げてきたさまざまな活動が目に見える成果を挙げていることに気づいているだろう。
(私自身はまだ参加したことはなく、毎回のさまざまな報告を興味深く熟読しているだけだが)「世界社会フォーラム」を通して形成された世界的なネットワークが、草の根の視点からイラク人質事件の本質を世界へ、そしてどこよりもイラク社会へ伝えるうえで大きな役割を果たしている。
他にもさまざまなNGOが、それぞれが作り上げてきたネットワークを活用して、囚われの3人が行なってきた活動と真意、日本政府が強行した日本軍のイラク出兵を批判する立場を伝えている。
それが実りある成果を生み出している現実を知れば、外務省やアンマンに「対策本部」を設置して、「全力を挙げて情報収集と3人の解放に当たっている」という政府が、実は身振りは大仰だが、無為無策のままでいる実態もよくわかる。
否、無為無策ならまだしも、現在の情況下では「イラク全土を人質にとって占領している」米国を代表して来日した副大統領チェイニーと日米協調を謳い、人質解放についても米国の協力を要請しているのだから、事態をひたすら悪化させるしかない方策を採っていると言える。
日本政府の政策は、彼らなりに一貫している。404億円の経費を使ってイラクに出兵した日本軍は、東京ドーム12個分の巨大な陣地を築くことにまず「全力を挙げ」た。
「非戦闘地域」に完成した二重鉄条網の武装基地は、そこの駐留軍が米英軍の輸送業務に従事しているからには、レジスタンス勢力から見れば、「平穏だった」サマワ地域に突如として、標的とすべき「戦場」が出現したことを意味する。
周辺で抗議デモが行なわれ、砲弾発射が行なわれたのは「必然」である。日本政府が、イラク全土を戦場化することに大きな力を貸しながら「人道援助」だと言い募るのは、人質事件について逆効果の言動に専心しながら「解決に全力を挙げている」と言い募るのと瓜二つである。
インターネットを活用している人びとには見えやすいこの構造が、マスメディア、とりわけテレビでニュース報道に接している圧倒的多数の人びとの目には覆い隠されていること――私たちが、まだまだ「狭い」インターネット世界の成果を押し広げるべき場所はそこにある。
(2004年4月13日深夜記す)
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