ウォルター・サレス監督は、南米各地を放浪していた頃の医学生エルネスト・ゲバラを、彼が書き残した日記に基づいて『モーターサイクル・ダイアリーズ』で描いた。
ほぼ実像に近い形で若きゲバラを描いたこの映画がエンディングを迎えるのは1952年7月――ゲバラ24歳の時であった。
スティーヴン・ソダーバーグ監督は、キューバ革命戦争に軍医として加わった28歳のチェ・ゲバラが、その後の2年間にわたる闘争の過程を書き記した記録に基づいて『チェ28歳の革命』を制作した。
この映画のエンディングは1959年1月――キューバ革命勝利の時点であり、誕生月に即して言うとゲバラ30歳の時であった。
その後も波乱万丈の生涯を送ってゲバラがボリビアで死ぬのは1967年10月、すなわちゲバラ39歳の時であるから、前者から数えて15年後、後者から数えてほぼ9年後である。
ひとが送る人生の中での、15年とか9年の歳月というものは、振り返ってみれば束の間のことであった、と思われる場合も多い。
死後40年以上も経った現在なお人びとの関心を掻き立ててやまない、革命家としてのチェ・ゲバラの生涯が、わずかなこの短い歳月の中に凝縮されていることを思うと、あらためて粛然たる気持ちにさせられる。
彼は極端に限られたこの時間幅の中で、第3世界解放闘争や現代社会主義が抱える根本問題に関わっての探求と重要な問題提起を、現在にも残る形で行なったのである。
ここで私が取り上げるのは、ソダーバーグ監督の第2作『チェ39歳別れの手紙』が描くボリビアでの日々である。
ウルグアイ人で、米州機構の特使になりすましたチェ・ゲバラが偽造パスポートを手にボリビアに入国したのは1966年11月3日であり、ボリビア東部のチューロ渓谷でゲリラ戦のさなかに捕らえられ銃殺されたのは翌1967年10月9日であったから、チェがボリビアで送った歳月はわずか11ヵ月間でしかない。
これまた、ひとをして、名状しがたい深い思いに沈ませるような、きわめて短い日々である。
ソダーバーグの映画は、チェ・ゲバラが書き残した『ボリビア日記』にあくまでも忠実に事実の再現を試みており、ここでは主要には他の資料に基づいてボリビア時代のチェを描いてみよう。
私とて、公刊されている資料(書物・パンフレット・ビデオ・DVD)のすべてに目を通しているとは、当然にも言えない。
ゲバラ死後30年を迎えた1997年以降、ゲバラの生涯を明かす資料は飛躍的に増えた。
この年、67年当時ボリビア軍部の手でひそかに埋葬されたままであったゲバラたちゲリラ兵士の遺骨のありかを探りそれを発掘する作業が、キューバ、アルゼンチン、ボリビア3ヵ国の協働の事業として遂行されて、とりわけキューバとボリビアの2国間にあった「わだかまり」が融けたことが大きかった。
以後、ボリビアでは、『ボリビアのチェ』と題した資料集が全5巻で刊行されるなど、可能な限りの資料と証言に拠って、当時の事実を正確に再現するための作業が継続されている。
2006年には、先住民族出身の左派大統領、エボ・モラレスが誕生し、彼はチェ・ゲバラをボリビア解放闘争の途上で倒れた英雄の一人として数え上げる言動を繰り返し行なっている。
こうして、「敵性外国人=チェ・ゲバラ」という、かつてのタブー(禁忌)がボリビアでは消えつつあることが、「ボリビア時代のチェ」の実像を明かすのに大いに役立っていると言える。
チェ自身の『ボリビア日記』を読み、それを忠実に映像化したソダーバーグの映画を観る誰もが思うことは、「英雄的ゲリラ」としてひたすら偶像化されてきたゲバラ像との対照的なあり方だろう。
共闘する対象と考えていたボリビア共産党指導部との関係は、外国人=ゲバラがゲリラ隊の隊長になることへの反発もあって、うまくいかない。
もちろん、ソ連に近いボリビア共産党が、ソ連の示唆でゲバラを警戒しているという事情もある。
ボリビア支配層内部に潜入してスパイ工作という重要な任務に従事していた一隊員は、不用意にもゲリラ根拠地に来てしまい、乗り捨てた車においてきた重要書類を官憲に押収されてしまう。
隊員の内輪もめや脱走も絶えない。農民はゲリラ隊に加わるどころか、無関心で、敵意すら見せる。ゲバラ自身も喘息の発作に苦しみ、他の隊員の病気や飢えも深刻だ。
かっとなったゲバラが、隊員を手荒く扱う様子も赤裸々に明かされる。ボリビアに先立って、やはり解放闘争に加担するために滞在していたアフリカのコンゴにおけると同じように、ここでも、ゲバラは傷つき、悩み、苦しみ、絶望している。
日記に記された彼の言葉は、自分を極力奮い立たせようとはしているが、それは現実があまりに過酷だからということが、客観的には透けて見える。
にもかかわらず、そこにはまた、人間として思想と志操の高みに行こうとする精神もみなぎっているから、現実と理想の狭間で引き裂かれた人間の葛藤の物語としてこれを理解するなら、私たちのゲバラ像は豊かさを増すのだと言える。
一方、ゲバラの記録を客観的に見つめる方法もある。ボリビアでゲバラと共に戦ったキューバ人とボリビア人のゲリラ兵数人も、日記や回想記を遺しているからである。
日記の場合には、勇気、克己心、冷静さ、深みある分析などのあらゆる意味において、ゲバラを超えるものを遺したひとはいない。
だが、生き残って回想記を書いたキューバ兵、ベニグノは、ゲバラが暗喩的にしか語らなかったボリビア農民との関係を、はるかに直截に語っている。
「われわれは、ボリビアの民衆を、帝国主義から、悲惨な状況から解放することを目指してそこへ行ったのではなかったか。
しかし、農民はわれわれから逃げるばかりであった。
それどころか、しばしば、われわれのことを官憲に密告するのであった。いったい、どういうことなのか? 実際のところ、われわれは目隠しをしてそこへ行ったも同然だった。
事前の政治工作もしなかった。政治に関心のある農民との、事前の接触すらしていなかった」。
コンゴ遠征の時にもゲバラに同行しているベニグノは、勝利したキューバの経験ばかりではなく、失敗したコンゴとボリビアでの遠征をゲバラのそばにいて経験している点で、得がたい証言を遺しているのだと考えることができる。
ゲリラ根拠地で読書するゲバラを写した写真は、キューバ解放闘争以降どこでも見られる。ボリビアで遺したノートにも、読書予定リストが5頁にわたってびっしりと書き込まれている。
マルクス、エンゲルス、モルガン、レーニン、スターリン、トロツキー、毛沢東、ジラス、ルカーチなどの政治・革命理論書が含まれているのは当然として、アリストテレス、クローチェ、ディドロ、ヘーゲル、マキャベリ、ブルーノらの主著、チャーチル、ドゴールらの政治家の回想録、スタンダール、ドストエフスキー、ロルカ、グリーン、フォークナー、コルタサルなどの文学書も含まれていることが注目される。
もちろん、ボリビアに関しては歴史、社会分析、先住民文化など多様なタイトルの書物が挙げられている。
私は、ラテンアメリカ地域では決して軽視することのできない先住民族問題への関心が、ゲバラにはまだまだ希薄だったと考えている。
アメリカ大陸内の住民は言語、習俗、宗教、同一の支配者などの共通性があるから「国境なきアメリカ人」という類型があり、それは闘争に有利な条件を作り出すという展望をゲバラは持っていたが、それは多様な違いをもつ各地の先住民族の存在を無視する議論に傾いていたとも言える。
だが少なくとも読書プランを見る限りは、この問題を追求するうえでの必須の書物が幾冊も入っていることがうかがわれる。
稀有な読書家であったゲバラが、これらの書物を咀嚼した後に何を展望していたかを想像することは、ゲバラの時代には実現されなかった「可能性」を追求することにも繋がる。
『ボリビア日記』を書物か映画で追体験する私たちは、必然的な敗北の道を突き進むかのようなゲバラにしか出会うことができないが、この書物リストを眺めていると、別な出口に向かうゲバラにも出会える感じがする。
書物との出会いの大事さは、タイトル・リストからわかるのではなく、読み方如何によるのだ、というのが真実だとしても。
いまや伝説的なボリビア・ゲリラの日々は日一日と遠ざかっていくのに、チェ・ゲバラの「記憶」は、その時代を知らぬ若い人びとの脳裏にも鮮やかに蘇えっている。
あの時代、チェ・ゲバラを憎み、ゲリラ隊に敵対して闘ったボリビア軍人の回想記の叙述にも、どこか相手に対する畏敬の念が見え隠れしているように思える。
おそらく、思想の違いを超えて、失敗した彼の企図の是非を超えて、人間としての彼の「偉大さ」がそうさせるのだろう。
当時の「ボリビア」は、南北格差と国内格差の観点から見て、世界にある不正義と不平等を象徴しているかのような存在だった。
その変革のために戦った「チェ・ゲバラ」に、世界の民衆が共鳴したのである。「ボリビアのチェ・ゲバラ」が、世代を継いで記憶され、想起されているのには、十分な根拠があると言うべきだろう。
注記――この文章を書くうえで、次の書物を参考にし、その一部を引用した。
Carlos Soria Galvarro T., “El Che en Bolivia : documentos y testimonios”, 5 tomos, La Razon, La Paz, 2005. および Daniel Alarcon Ramirez, “Memorias de un saoldado cubano”, Tusquets Editores, Barcelona, 1996.
|