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権力にすり寄る心、そこから縁遠く生きる心、そのいずれもが取り込まれて
――皇后と、山内昌之、永瀬清子の場合 |
Anti20 vol.2(2009年6月30日発行)掲載 |
太田昌国 |
1
今はなき(先ごろ、廃刊になった)『『諸君!』二〇〇八年七月号は「平成天皇二十年の光と影」と題する特集を組んでいる。
なかに「われらの天皇家、かくあれかし」と言う記事があって、五六人もの人物が「熱誠の提言」を寄せている。
一瞥目を背けたくなるような言の葉が綴られているが、イスラム史家・山内昌之はそこに「傷ついた心を癒す祈りの力」という、これまた引用も憚られるような文章を書いている。
山内は冒頭に言う――いまの天皇と皇后は、皇室とは「祈り」であると考えておられるようだ。
これは、宮中祭祀が祈りに通じるといった一般的な問題からではない。
悲惨な戦争体験と犠牲者への痛みをもちながら、現代社会において恵まれない立場に追いやられがちな障害者や孤独な老人など弱者への自然な共感が、平和への願いをこめた「祈り」とういことばで表されるのだろう――(三つ目の文章は文法的に成立していないが、原文ママ、である)。
後段の文章の趣旨をまとめると――(現天皇・皇后は)公の義務を私の願望よりも自然に優先される作法を身につけた方だ。
それは善き日本人として際立った特質だ。皇太子夫妻には、ぜひとも、天皇皇后のこの無私の精神を継承していただきたい――。
山内のごく初期の仕事のひとつは『スルタンガリエフの夢』という(東大出版会、一九八六年、現在は、岩波現代文庫所収)。
マルクス主義のロシア的変型たるボリシェヴィズムに、イスラム民族共産主義の立場から独特の抵抗を試み、モスクワ直属の「第三インターナショナル」(=コミンテルン)に対して「植民地インターナショナル」を形成しようなどという重要な問題提起を行ない、ついにはスターリンによって歴史の闇の中へと消されたタタール人、スルタンガリエフについての研究を、日本では未紹介の外国語文献に依拠したところが多かったとはいえ、日本語環境の中では初めてなし得た貴重な仕事である。
私は「転向」そのものを「悪」と考える立場には立たない。
「思想の科学」グループが「転向」の共同研究を行なった時の鶴見俊輔の表現を借りるなら――「転向をきっかけとして、重大な問題が提出され、新しい思想の分野がひらけることも多くあると考える。
もともと、転向問題に直面しない思想というものは、子供の思想、親がかりの学生の思想なのであって、いわばタタミの上でする水泳にすぎない」(『共同研究 転向』全三巻、平凡社、一九五九〜六二年)という考え方を基本的に肯定する。
しかし、「重大な問題」とは何か、「新しい思想の分野」とは何か、をめぐる論議・論争は、当然にも、保障されなければならない。「親がかりの学生」が「若気の至りの過ち」に気づいたら、今度は「国家お抱え」や「政府丸抱え」、果ては「宮内庁御用達」のエセ・インテリになっていた、などということが起こるなら、その惨めな悲喜劇を批判し、揶揄し、笑いのめす言論はあってしかるべきだろう。
山内の天皇・皇后論は、鶴見が規定した範疇に入れうる「転向」ではない、と私は考えた。
スルタンガリエフについての著書を著わして数年後、湾岸戦争からソ連崩壊にかけての時期を境に、山内が書く世界時局論は急速に現存秩序護持派的なものになり、日本論もまた近代以降の日本「国家」の歩みを肯定的に捉えるものとなった。
一九九七年、ペルー大使公邸人質事件の際にフジモリが発動した軍事作戦を評して、山内は「フジモリ大統領の最終的選択にまちがいはない。
最小の犠牲に留まった結果論からだけでなく、その判断能力においてフジモリ大統領は〈将に将たる器〉にはちがいない」とさえ語った。
坂道を転げ落ちるような山内のその後の道程を観てきた私は、彼が何を言おうともはや驚くことはない、と思っていた。
山内自身が、スルタンガリエフ以後の「亜流」たちについて書いている言葉、すなわち「ある潮流は、共産主義や社会主義と訣別して革命前のブルジョワ・ナショナリズムに逆戻りするものさえあった」を、そっくりそのまま彼に向けてやらなければ、と。
だが、まだ先があった、のだ。日本独特の天皇制という支配システムへの、無条件の拝跪、である。
山内は、数年前にも、皇后が出版した短歌集について、驚くべき言葉遣いの書評を書いたことがあった。
その切抜きもデータも今回は見つけることができなかったので、具体的にそれを引用することは不可能だが、冒頭に引いた『諸君!』掲載の文章とも共通して、そこには、歴史家としての「見識」も分析方法もまったく見られなかった。
皇后がつくる短歌には、確かに「文藝」独自の領域で論じてよい場合もあるだろうが、論者がその作品を天皇・皇后がこの社会で果たしている役割と結びつけて論じる限りにおいて、「歴史」「社会システム」の問題が避けがたく浮上する。
「転向」後の山内にしても、世界情勢やイスラム圏を分析する際には、彼なりの歴史的分析視角を手放すことはないだろう。
皇室論になると、それをすら完全に放棄して恥じないのは、なぜなのか。
相手が歴史的展望や論理と倫理を欠いた議論を展開している場合、それはあまりに無防備で、相手としてたたかいやすいと思いがちだが、現実にはそうではない。
元首相・小泉の時代を思い浮かべるとよい。歴史も論理も媒介しない民族的な情緒や情念は、その単純明快さにおいて、人びとの心情を「組織」しやすいからである。
2
山内が書評した皇后の歌集は、確か、『瀬音』というのだが、竹本忠雄著『皇后宮美智子さま 祈りの御歌』(扶桑社、二〇〇八年)は、皇后の「御歌」をフランス語に翻訳して出版した著者が、その経緯と反響をまとめたものである。
竹本は一九三二年生まれで、アンドレ・マルローの作品の紹介を主として行なってきた人物だ。
その大仰な言葉遣いに辟易しながらも二百数十頁の本を読み通して、思うところがいくつかあった。
永瀬清子という詩人がいる(一九〇六〜一九九五)。彼女の世界をそれほど深く知っているわけではない。ふたつか、みっつのことで、忘れがたい印象を私に遺している人だ。
ひとつには、かつて吉本隆明が主宰していた雑誌『試行』に「短章抄」という連載を寄せていた。いわば、アフォリズム(箴言、格言)的な表現形式である。「自立主義」が鼻につくな、と思っていた誌面で異彩を放つ、平明で静謐な世界が気に入っていた。ふたつには、『あけがたにくる人よ』と題した詩集の表題作に深い感銘を受けていた(思潮社、一九八七年)。
「あけがたにくる人よ/ててっぽっぽうの声のする方から/私の所へしずかにしずかにくる人よ/
一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく/私はいま老いてしまって/ほかの年よりと同じに/若かった日のことを千万遍恋うている」
「その時私は家出しようとして/小さなバスケット一つをさげて/足は宙にふるえていた/どこへいくとも自分でわからず/恋している自分の心だけがたよりで/若さ、それは苦しさだった」
「その時あなたが来てくれればよかったのに/あなたは来てくれなかった/どんなに待っているか/道ベリの柳の木に云えばよかったのか/吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか」
「あなたの耳はあまりに遠く/茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように/通りすぎていってしまった」
「もう過ぎてしまった/いま来てもつぐなえぬ/一生は過ぎてしまったのに/あけがたにくる人よ/ててっぽっぽうの声のする方から/私の方へしずかにしずかにくる人よ/足音もなく何しにくる人よ/涙流させにだけ来る人よ」
私の心の中にいつまでも居残っている詩のひとつだ。永瀬が八〇歳を迎えたころの作品だ。言葉の択び方も、リズムも、詩に込められた含意も、すぐれている。
ところで、皇后もこの詩が気に入ったらしい。自ら英訳して、ペンクラブが日本文学紹介のために発行している英文の小冊子に掲載、さらに、さる機会には日英両語でこの詩を朗読した。
その事実を友人からの報せで聞いた八〇歳を越える高齢の永瀬は励まされ、後に出す詩集の表題にこれを当てた。
それには「縄文のもみじ」と題する作品も収録されているのだが、詞書きされている「ある人へ」とは、皇后への感謝の意をこめた表現であった、と。
「私が何十年も詩を書いているのは/ほんとはあなたに出あうためだった/おお白樺のようにすなおな人/あなたは私の詩をきいて/一度でそのフレーズを覚えて下さった/やさしい人 あなたは遠い遠い人なのに/一心に走り寄って下さった」
永瀬は、私が知るところでは、「転向」後権力に擦り寄り続けている山内と違って、権力からもっとも遠く、その長い人生を生き抜いた人である。
岡山の片田舎で農業に従事しながら子を育てたという意味ではごくふつうの女性であり、詩作に励み平和運動や社会運動に関わったという意味では考え深く批評精神に富んだ人であった。
詩をつくる永瀬と、歌を詠む皇后との、文学的・詩的・感性的な魂の交流に過ぎないのなら、「縄文のもみじ」の表現はあり得ないだろう。
何が、永瀬の中で起きたのか? その秘密を私は知りたい。それは、「われわれの中に」巣食う天皇制的なるものの解明に役立つだろう。
皇后は、タリバーンによるアフガニスタンの仏像破壊を知って、詠った。
知らずして われも撃ちしや 春?くる バーミアンの野に み仏在さず
「われも撃ちしや」と詠む自己凝視は、かなりのものだ、詠み人の「存在形態」を知らなければ。われわれを躓かせるための石は、あちこちにばら撒かれているのだよ。
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