(声高々に朗詠する)
みそとせの歴史流れたり摩文仁の坂平らけき世に思ふ命たふとし
緑なす都市をぞ願ひ人々とくすの若木を共に植ゑけり
我が生まれし日を祝ひたる集ひにとらはれし人未だ帰らず
このような機会には、痛烈な天皇制批判の表現を読んでのち、その意味を考えるのが順当かとも思うのですが、多くの方がそうされるだろうと考え、敢えて現天皇が詠んだ歌を3首だけ朗々と読み上げました。
率直に言って、うまい歌とは言えません。私は、自分で短歌をつくる趣味を持たない人間ですが、文学的な表現をそれなりに読み込んできた人間として、言ってもよいでしょう。
また、私は死刑制度廃止運動に参加していますが、死刑囚で俳句や短歌をよむ人は多いです。
差し入れのために、関連する月刊誌を買い求めて何年も経つと、自分でもそれなりに目を通していますから、読み取る眼力がついてきます。そのような場所から、言うのです。
天皇主義者というべき国文学者、故池田弥三郎は言っています。原文どおりの敬語付きで読み上げます。
「天皇陛下のお歌は、陛下が、お歌会始めの行事を主催され、御自身お歌をお作りになるということに意義があるのであって、そのお歌そのものが、今日の短歌の世界において、文学的水準の高いものであるかどうかということは、持ち出すべき問題ではない」。
池田は、現天皇よりははるかに歌がうまいと思われる先代の天皇の歌について言っているのです。推して知るべし、です。
つまり、はっきり言って天皇の歌は下手だが、天皇が「民草」と共に、自然や生活や災害の悲劇を歌に詠んで、国のことを褒めて、一年の安泰と豊作を願う農耕社会に根ざした伝統的儀式を共にしている、と人びとに感じさせることがことが大事だ、というわけです。
いま私が読み上げた歌も、この解釈の範囲内にあります。
一首目の歌を繰り返してみましょう。
これは、1976年の歌です。前年の1975年7月17日、つまり敗戦後30年目に皇太子としての彼は、初の沖縄訪問を行ないました。
沖縄海洋博に出席するために、です。摩文仁ヶ丘の碑群を訪れた時のことを歌った歌です。
牛島軍司令官と長参謀長を祀る「黎明乃塔」を頂点とした、「靖国化」しているピラミッド型の霊園。
反対する人びとが「皇太子沖縄上陸決死阻止」「日本軍の残虐行為を許さないぞ」「大和人は沖縄から出て行け」とペンキで書いていた。
また、ひめゆりの塔に慰霊のために訪れたときには、壕の中に潜んでいた人から火炎瓶を投げつけられました。
これらの事態に直面しながら、のちに思い起こして、平静な表情で、平和の尊さに言い及ぶ歌を詠むのです。
二首目は例年の植樹祭の様子を、三首目はペルー大使公邸占拠・人質事件を詠んだものです。
天皇誕生日祝賀パーティの場で起こった事件でしたから、こういう歌になるのですね。素朴で、類型的で、凡庸さが、はっきりと滲み出ています。
これは、大事なことです。歌会始への応募作品の数は、最近は2万首前後と言われています。やはり、大衆に根ざした表現形式なのです。
そこで、大衆と共に在ること――そのことが大事なのでしょう。
技量的に、突出していなくてもよい、あるいは、突出していないほうが好ましい。自然災害の被災者を詠んだ歌も多い。
人為としての戦争の犠牲者も、自然災害の犠牲者も、同じ目線で悼むのです。障がい者の作業場を訪れた時の歌の多いですね。
こうして、平和を希求し、家族の平安を希い、弱きものへのまなざしにあふれた「お歌」は、しかるべき一定の役割を果たしている。
だからこそ、歌会始の選者になり、召人となって久しい岡井隆のような歌人の「裏切り」を、私達は忘れてはならないのです。
岡井には、殺意をすら感じさせる反天皇の歌がありました。
天皇の居ぬ日本を唾ためて想う、朝刊読みちらしつつ
皇(すめら)また皇(すめらぎ)という暗黒が復(ま)た杉の間に低くわらへる
歌の力を大事にし、歌の力を怖れ、私たちの歌をつくりましょう。
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