イタリアのラクイラで開かれたG8首脳会議をめぐる報道のあり方が、従来のG8報道に比べると、随分と変化した。朝日新聞は事前に「空洞化限界G8」と題する記事を掲げ、昨年の「洞爺湖宣言」がどこまで実現できたかを検証した(2009年7月3日)。
世界経済の動向に関しては、宣言は楽観的な見通しを述べたが、その二ヵ月後には証券大手リーマン・ブラザーズが経営破綻し、現在あるような世界的な経済危機に直面している。
宣言が謳った「2050年までに世界全体の温室効果ガスの排出量を50%削減する」目標は、温暖化を招いた先進諸国の責任を問う新興国の攻勢で、翌日の主要排出国会議でも否定されたが、その後の一年の経緯の中でも、先進国と新興国の溝は深まるばかりだった。
北朝鮮問題に関しては、宣言は「同国の核計画の申告書提出を歓迎」したのに、その後成果はまったく上がらず、北朝鮮は核実験を強行さえした。
実際にラクイラ会議が行なわれてみると、G8が世界の趨勢に影響を与える何事かを決定することは、もはやできないことがいっそう明らかになった。
G8会議は初日の半日しか開かれず、2日目からは、中国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカの新興5ヵ国に、議長国イタリアに特別招待されたエジプトを加えた「拡大首脳会議」が開かれ、温暖化問題に関してはこれにさらに韓国、オーストラリア、インドネシアを加えた17ヵ国の「主要経済国フォーラム(MEF)」での討議がなされた。最終日には、G8とアフリカ諸国首脳会議が行なわれた。
MEF会議に出席した17ヵ国は、世界の温室効果ガス排出量の75%を占めるほどだが、温暖化対策のために「産業革命以前の水準からの世界全体の平均気温の上昇がセ氏2度を超えないようにすべきとの広範な科学的見解を認識する」ことで合意した。
現代の政治文書の中に、資本主義的発展の決定的な契機となった「産業革命」という歴史用語が登場したことに、ある感慨を覚える。
それは、この「発展」が何をもたらしたか、という問いを必然的なものにするからだ。
これが非可逆的な流れになればよいと思う。2001年「9・11」の直前に南アフリカのダーバンで開かれた「植民地主義と奴隷制に反対する世界会議」が、植民地主義・奴隷制・奴隷貿易を「人道に対する罪」と名指しして、もはやこれより後退した議論は不可能になっていると同じように。
G8会議はもちろん、G17のような会議の持ち方を、もとより、全面的に肯定するわけにはいかない。
世界には200ヵ国に近い国々が存在しているのだから、17ヵ国の協議からも大半の国々は排除されていることになる。
この視点に立つと、ラクイラ会議の直前の6月末にニューヨ−クの国連本部で開かれた「世界金融・経済危機と開発に与える影響に関する会議」(略称、世界経済危機サミット)の重要性が浮かび上がってくる。
すべての国連加盟国が参加することから「G192」とも呼ばれるこの会議の開催を積極的に推進したのはデスコト国連議長だが、彼はニカラグア・サンディニスタ政権時代の外相であった。
デスコトが用意した討議のための素案は、世界中の国々が集まって国際金融・経済秩序を話し合うという意味においては、1944年に国連の母体となる連合国がブレトンウッズで開いた通貨金融会議に次いで、史上2回目の会議だと謳って、その重要性を強調した。
ブレトンウッズ会議で創設の決まった国際通貨基金(IMF)が、その後の現代史の展開過程の中で、先進諸国に有利な姿勢を貫くばかりであったことを知り尽くしているデスコト議長としては、もちろん、そこには、「途上国」の参画を強化することでIMFや世界銀行の改革を図るという意図を込めたのであろう。
その意味でも、デスコト草案が各国政府のみならず、世界の多様な団体(NGO,社会運動団体、労働組合)などにも提示され、意見を求めたというあり方は注目に値する。
政府なるものの権能を唯一絶対なものとはしない考え方は、現在と未来に向けた社会のあり方を検討する際に、避けて通ることはできないであろうからである。
それにしても、この会議の内容は、マスメディアでまったく報道されていない。
英語やスペイン語を中心に、インターネット上で読むことができる文書は多数あるが、そこには、ラクイラ会議で行なわれた8ヵ国、あるいは17ヵ国首脳の発言とは比べものにならないくらいの、歴史と文明に対する深い洞察力を備えた発言が散見される。
とりわけ、現在の危機をもたらした根源である新自由主義的秩序に自分たちの社会を荒廃させられたがゆえに、いち早くそれへの批判運動を始めているラテンアメリカ諸国首脳の発言が傾聴に値する。
経済危機と環境危機の拠ってきたるゆえんを抉り出し、資本主義の価値意識に明確に「ノン」を突きつけた先に、彼らが何を展望しているのか――そこには、もっと広い関心が寄せられるべきだと思う。
それらの発言のとなりに、ラクイラ会議に日本を代表して出席した政治家や、そのほか有象無象の(民主党を含めた)政治家たちの、日々の発言をおいてみる。
その志の低さ、否、無さに愕然とする。「政局」のみを語り、政治哲学や歴史観を語らぬ連中が、大手を振ってこの社会に跋扈している現実を、あらためて知る。
「選挙」ごときでは変えることのできないこの現実をどうするのか――問題は、結局、私たちの日常の価値意識に関わってくるのであろう。
「一日だけの主権者」でしかない以上の意味をもたないものとはいえ、今回の選挙は軽視しまい、と思いつつ、もっと永続的な課題を自分に課し続けようと思う。 |