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コロンブスの「大航海」と「地理上の発見」が、植民地主義による支配・被支配の時代を結果的に切り開いたという史実は、ようやく、広く認知されようとしている。
1992年――その出来事から5世紀を経た区切り目の年、コロンブスの「偉業」は世界各地で再審にかけられた。
その後のモノとヒトの交流を可能にしたという意味で「世界をひとつにした」と表現されてきた「発見」は、植民地支配を生み出すことで実は「世界を南北に分割した」実態が明らかにされた。それを行なった主体は、被植民地地域の民衆だった。
新世紀初頭の2001年9月、アパルトヘイト(人種隔離)体制を廃絶して間もない南アフリカのダーバンで「植民地主義と奴隷制に反対する世界会議」(註1)が開かれた。国連が主催したこの会議では、植民地主義、奴隷制、奴隷貿易が「人道に対する罪」であることが宣言された。ある歴史的出来事が、数世紀後の時代を生きる人びとの生死・経済・社会の諸条件を強く規定しているかどうかをめぐって、「南北」間の鋭い対立は続いているが、いったん始められたこの議論は、もはや止めることはできないだろう。
この会議の数日後、帝国の中枢=ニューヨークでの「9・11」事件は起こった。帝国は直ちに「真犯人」を名指しし、その根拠地と想定したアフガニスタンを攻撃し始めた。
同地は「無政府状態」で、混乱の極致にあると判断した帝国指導部内部では、「崩壊状態にある国は、いっそ植民地にしたほうがよい」という言葉が語られたという。
植民地主義の痕跡を、思想的にも実態的にも克服しようとする動きが世界に広まっている今なお、帝国内部では、植民地主義が継続していることを、この挿話は物語っていよう。
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画家・富山妙子は、欧米地域以外での唯一の植民地主義国となった「極東」の国に生まれた。そして、その国=日本がかつて有していた植民地で幼年・少女の一時期を過ごした。
敗戦後、身をもって体験した飢えの現実は、かつて植民地で、彼岸の出来事として目撃した中国人の飢えを強烈に思い起こさせた。以後、富山は、思考においても画業においても、「脱」植民地主義の“孤独な”作業を開始した。
日本は、敗戦と同時に植民地を「自動的に」失ったために、為政者のレベルでも、民衆のレベルでも、植民地主義から自らを解き放つための苦悩の過程を経ていない。
それが、いまなお、この国がアジア民衆との間に確固たる信頼感を築き得ていない現実に直結している。それを知る帝国内部の少数者の作業が、“孤独”にならざるを得ないゆえんである。
日本国家の、この卑小な現実に抗うために、だろうか、晩年を迎えた富山の想像力は、飛翔を続けて止むことを知らない。
旧満州と朝鮮を描くことにこだわってきた筆は、やがて、広大なユーラシアの天空と星座の視点から、旧植民地の凍土に眠る死者たちを悼む世界に移行する。
そして今回は、富山が「抱き」続けてきたアジアは、「大航海時代」の荒ぶる海に投げ込まれている。
その後に続く荒々しい事業で蓄積された富は、20世紀末から21世紀初頭にかけて、“グローバリズム”という名でその頂点に達していた。
だが、それもいま、壊れた文明の破片となって海底に堆積し、まるで「9・11」の高層ビルのように、炎をあげて燃えさかっている。
芸術家の時代認識は、現実の変化に先駆け、やがて呼応し、拮抗しながら、形成されていくのであろう。(編集者・民族問題研究家)
(註1)正確には「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」(通称「ダーバン会議」)だが、そこでの議論の内容を捉えて、この略称が使われている。 |