韓国映画『クロッシング』を観た(キム・テギュン監督、二〇〇八年、カラー、35ミリ、
一〇七分)。
いわゆる脱北者の物語だ。北朝鮮のとある炭鉱町に住む一一歳の男の子ジュニは、父母との三人暮らしだ。つましい生活だが、日々のどんなことにも楽しみは見出せる。
父は元サッカー選手で、よくサッカーボールで遊んでくれる。巧みにボールを捌く父の足は、ジュニの憧れだ。母が肺結核で倒れた。薬は簡単に手に入らない。父は薬を求めて、危険を冒して中国へ密入国する。
働いて少しの金は得られても、脱北者であることがわかれば強制送還だ。北の実情を話せば大金が入るという話を信じてついていくと、行く先は韓国だった。
手を尽くして、北朝鮮に残した家族の安否を知る。妻は死んでいた。父と息子は何とかして連絡をつけ、危険な中国ではなくモンゴルで再会する手はずを整えた。
だが、翌日には父と再会できるはずだったジュニは、人っ子ひとりにも会えない広大なモンゴルの砂漠で、満天の星降る夜に死んでいった……。
「クロッシング crossing 」とは「横断、交差(点)、踏切り、十字路、十字を切ること、妨害」の意味だ、と同映画のパンフレットにはある。
さまざまな含意が込められていて、観客は任意にどれかを選べばよい、ということか。
私は、山のようにある脱北者の証言をよく読んできているので(図入りの本が、けっこう多いこともあって)、北朝鮮社会について、ある程度のイメージを描くことができると思っていた。
当然にも、そんな程度のイメージは破砕された。北朝鮮に住んでいた人に言わせると、庶民の住まいと食事の内容、市場・闇市の様子などがとりわけよく「現実に近く」描かれているという。
国境警備隊員のふるまいも、捕まった人びとが入れられる「鍛錬隊」なる強制労働キャンプの様子も、経験者の証言に基づいてセット造りや演技指導がなされている以上、相当な「現実性」をもっているのだろう。
私は、一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて、韓国文化院にときどき通っては、まだ一般映画館では上映される機会のなかった韓国映画を観ていた。
日本文化の「浸透」を禁じていた軍事政権時代のナショナリズムに依拠して、当時の韓国映画における「日帝本国人」の描き方は徹底して一面的だった。
敵対している北朝鮮の描き方も、画一的だった。止むを得ないなと思いつつも、心打たれるところは少なかった。
多くの場合は権力者による圧力で、また場合によっては表現者の自己規制や怠惰で、どんな国でも、「表現」がそうなってしまう、あるいはそうしかできない時代状況というものは、あるだろう。
韓国映画が、総体として、特に「民主化」以降の過程で、そんな制約を乗り越えてきたことは、この間公開されてきたいくつもの秀作を通して知ることができる。
脱北者家族の軌跡を描いて、『クロッシング』は単純な「反北」映画に堕すことはなかった。むしろ、つましく暮らす北朝鮮庶民の姿を、淡々と、切なく描いて、深い印象を与えるものとなった。子役を含めた演技者の功績も大きいだろう。
感情過多の、安易な演技に流れていないことが、貴重に[思えた。それだけに、腹をすかせた労働者や子どもたちのそばを、赤旗を掲げながら「首領さま」に忠誠を誓うスローガンを唱和しながら行軍していく者たちの姿の意味が、かえって、浮かび上がってきたりもする。
キム・テギュン監督は一〇年前、道端に落ちているウドンを拾って汚いどぶ水ですすいで食べる北朝鮮の子の実写映像を観て衝撃をうけ、その時の自分の「恥ずかしさ」を原動力としてこの優れた映画を完成させた。
私がこの映画を観終わって数日後、北の社会の絶対的な権力者が、さまざまな支援を求めて中国へ向かった。人と時間と金をふんだんに使っての、相変わらずの秘密行動だった。
公開性のない、このような隠密行動が、国内・国際基準の双方でいまなお許されると考えているところが、この独裁者の度し難い点だ。映画『クロッシング』は、北朝鮮国内と(たとえば韓国のような)外国とのあいだでの携帯電話での交通が現実化している様子を、実話に基づいて伝えている。
権力者が企図する情報の封鎖、それでも流れ出る情報――北朝鮮の状況の帰趨は、ここに焦点が絞られてきたように思える。 (2010年5月7日執筆)
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