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カリブの海をたどっての思い――ハイチ大地震に慄く |
『支援連ニュース』第322号(2010年1月27日発行)掲載 |
太田昌国 |
1
ハイチが大地震に襲われた。キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国などから地震のニュースが届いたことなど、寡聞にして記憶にないから、あのカリブ海域は地震の空白域だとばかり思っていた。
だが、そこはカリブプレートと北米プレートの境界付近で、二〇世紀にもジャマイカやドミニカで大きな地震が起こったのだそうだ。
寿命のある人間の知識も知恵も有限だが、自然の歴史は悠久だ。今回と同じ震源地での地震記録は、一七五一年まで遡るという。二五〇年ぶりの大地震ということか。
日本の地震でも、たとえば江戸時代前期くらいにまで遡って、その地域の地震の歴史がふり返られることが、よくある。
一七五一年のハイチといえば、砂糖プランテーションで奴隷労働に従事させられていた黒人奴隷が、その処遇に耐えかねて森や山へ逃亡し(ハイチとは、先住民の母語アラワク語で「山の多い土地」を意味する)、マルーンと呼ばれる自由人の集団を形成する動きが活発化していたころだ。
C・L・R・ジェームズの重要な著書『ブラック・ジャコバン――トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』(大村書店、一九九一年)によれば、この年には少なくとも三〇〇〇人の逃亡奴隷が山中におり、柵や掘割をめぐらして防御を固めていたという。
彼ら/彼女たちもまた、そのとき、大地の震動に驚きつつ耐えていたのか。
逃亡奴隷たちの動きは、やがて、一七八九年のフランス革命にも刺激されて、一七九一年の奴隷反乱の発生につながり、さらには一八〇四年のハイチ独立へと展開していくことになる。世界史上初の黒人共和国であり、ラテンアメリカで最初の独立国でもある。
日本でも乙骨淑子が、子ども向けの物語『八月の太陽を』(理論社、一九六七年)で、このハイチ革命を取り上げていることが興味深い。
彼女は、明治時代の少年雑誌を読んでいて、一八九〇年発行の雑誌に「黒偉人」のタイトルで、ハイチ独立革命の牽引者、トゥサン=ルヴェルチュールの一生をえがいた文章があって、そこで感じた深い思いが、創作の動機だったと語っている。
あの時代の日本で、いったいどんな思いの人物が、トゥサンの生き方に引きつけられていたのだろうか?
それ以前の歴史をふり返っても、コロンブスの到来以降、スペインに植民地化され、先住民族が絶滅させられ、その代わりにアフリカから黒人奴隷が強制連行されてきて、やがてカリブ海を荒らしまわっていたフランス人海賊が定住し始めて、ついにはスペインからフランスに割譲されるという数奇な運命をたどったこの島国には、世界に向かって語るべきことがたくさんあるように思える。
どのメディアも「最貧国を直撃」と報道して、常日頃はハリケーン被害にもあっているこの国の自然災害の過酷さに触れている。
だが、今回の被災地の映像を見るにつけても、人間の基本的な生活を成り立たせるためのさまざまな整備を歴代の為政者が怠ってきていたことが、如実にわかる。
この国の現代史の中で、一九五七年から八五年までの二九年間を独裁的に支配したデュバリエ一族の治世と、その背後にいた米国の存在をこそ思い起こすべきだろう。
悪名高い秘密警察、トントン・マクートを有力な弾圧装置として行なわれた独裁支配は、奇怪なまでに恐ろしい無数の恐怖実話を生んだ。オバマ政権は空母を派遣し、軍人を一万人以上も送り込んだというが、緊急支援のあり方としてその意図は疑われてしかるべきである。
不当にもキューバに維持し続けているグアンタナモ米軍基地を「開放し」、行き場を失ったハイチの被災者を収容するともいう。
カリブの海を渡ろうとする経済難民を「救助し」グアンタナモ基地に一時収容するのは、米国の伝統的な手法であった。
難民がフロリダ半島に押し寄せるのを阻止するために、である。
ハイチに対する国際的な救援は、さまざまな角度から必要とされていようが、いかがわしい支援や救援があり得ることは、いつの自然被災とも変わらない。
2
実は数ヵ月前に、このハイチ沖合いを航行していた。ピースボートの水先案内人となって、アフリカはモロッコ沖のカナリア諸島からキューバのハバナまでの洋上九日間に同行したのである(大地震のニュースを聞いて、震源地そのものの海やそこに近い海を航行中の船は、いったいどんな影響を受けるものなのか、関心と少なからぬ恐怖をおぼえた)。
この航路は、一四九二年のコロンブス第一回航海の航路に、ほぼ重なっている。平面の地図を通してしか知ることのなかった〔イベリア半島の港>>カナリア諸島>>カリブ海の島々〕という航路は、こういうものだったのか、という感慨があった。
ときおり甲板に立ち尽くしていても、陸地や島影のひとつも見えず、船とすれ違うことも稀な海域だった。
アフリカの陸地を確認しながらその沖合いをギニア当たりまで航海していただけの当時のヨーロッパ世界の人間が、陸地の見えない大海原へと進み行くことの「冒険性」だけは、二万八千トンの大型船に乗りながらも、実感できた思いがした。
ハイチでは、先住民族のカリブ人は、やってきたヨーロッパ人に金鉱採掘に駆り立てられたり、抵抗力を持たない病原菌を持ち込まれたりして、ほどなく絶滅させられた。
キューバも含めて、カリブ海の島々はいずれも、「征服=コンキスタ」後一世紀のうちに同じ運命をたどることとなった。
だからこそ、ヨーロッパ人はその「代わり」の労働力として、沿岸航海を通してすでに知っていたアフリカ西岸地域から、黒人を根こそぎ、奴隷として連行したのである。
一歴史家の表現に倣って、私もこの地域を「死の島」と呼ぶことがあった。
ヘミングウェイが「海流のなかの島々」と呼んだこの海域は、アメリカとヨーロッパの出会い、その出会い方が一方的なものであったことから起こった「アメリカの死」と「ヨーロッパ近代の勃興から隆盛へ」という歴史が象徴的に刻まれたところであった(「アメリカ」は後世からの命名だが、この場合はもちろん、現在の「USA」ではなく、カリブ海域と大陸部全体を指して、使っている)。
航行中も、それを終えた後にも、さまざまな感慨が沸き起こってきて、整理がつかない。
否、あえて整理しようとは思わないほうがいいとも思う。
船はハバナで下り、ひとり数日間滞在した。革命後五〇年目の年である。革命の指導部の論文や演説はいままでもよく読んできた。
その意味では、革命の意義も、時に触れられる「弱点」もそれなりによく理解しているつもりだ。
問題は、その革命の過程を生きる/生きざるを得ない民衆自身の思いがどこにあるか、ということだろう。
それを知るには、滞在は短すぎた。ただし、貧富の差が目立ち始めていることが気になった。
そこには、「平等主義社会」「人間重視の社会」を維持する志向性と、部分的にせよ市場原理を導入することを余儀なくされている現実の狭間での苦闘がにじみ出ている。
ハイチとキューバは、カリブ海の至近のふたつの島だ。先に触れたように、ヨーロッパとの強制的な出会い以降、同じ運命をたどった。
この歴史過程を覆すための反植民地主義闘争においても、その道筋を「トゥサン・ルヴェルチュールからカストロまで」という形で意味づけるカリブの歴史家もいる。
現代史では、それが、前者は米国従属の独裁体制、後者は米国支配を断ち切っての自立体制――と大きく分かれた。
もはや紙幅はないが、ここからは、歴史と現代を考える上での、きわめて重要な諸問題を引き出すことができる。
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