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私たちにとっての東チモール問題 |
「支援連ニュース」1999年11月号掲載 |
太田昌国 |
東チモール独立運動の指導者 [一時期、東チモール独立革命戦線の最高指導者で、東チモール民族解放軍の最高司令官を務めた] で、チモール民族抵抗評議会(CNRT)の代表を務めるシャナナ・グスマンの言動(ことばとふるまい)からはいつも、彼が深い政治哲学の持ち主であることを感じさせるものがある。
それは彼の個人的性格に帰すべき問題ではなく、東チモール独立運動が総体として持っている質だと捉えるのが、社会運動を対象として考える場合には適切なのだろう。そのことを前提としたうえで、少なくはあれ紹介されたグスマンの言動に触れてみたい。
去る10月30日、東チモールに侵入していたインドネシア国軍最後の部隊八百人がディリ港を出港し、インドネシアに撤退した。1975年12月の侵略以降の四半世紀のインドネシア軍駐留に終止符が打たれたのである。グスマンはそこへ見送りに行き、インドネシア国軍将校と別れの握手をしたという。
二四年間に及ぶ占領統治のなかで、20万人もの東チモール民衆を殺害したことに責任を有する軍隊の撤退を見送り、将校と握手する。グスマンの内心のざわめきもゆらぎも、さぞかし深いものであったにちがいない。
グスマンたち指導部は、独立の是非を問う住民投票が行なわれた前後からインドネシア国軍を背後に持ついわゆる「併合派民兵」による暴力行為が激しくなったときにも、これに対して決して武力で抵抗しないよう独立派に呼びかけてきた。
現地からの報道をみるかぎり、この「指示」はほぼ守られていたように思える。
それぞれの現場では、おそらく、悔しく、いたたまれず、これほどまでの暴行と惨状を前になぜ抵抗をすら控えなければならないのかと問う声も挙がったにちがいないとも思える。実際に、(とりわけ)グスマンが示してきた方針ーー「併合派」との武力衝突回避、インドネシア政権への融和的態度、日本占領時の被害に対する賠償請求権の放棄ーーなどに対しては、その「軟弱ぶり」を批判する声が運動内部にはあったと伝えられたこともある。
グスマンの一貫した発言を見るかぎり、これらの方針は、第三世界解放闘争の正負の過程に学ぶところからきている。以下のまとめ方は、必ずしもグスマン自身の言葉遣いではないが、彼が意図していると思われるところを、私の観点でまとめてみる(これは主として、彼がまだインドネシアの獄中にいた1998年末か99年冒頭に発した「新年のメッセージ」に基づいている。これは、青山森人著『東チモール:抵抗するは勝利なり』、社会評論社刊、で読むことができる)。
「従来の第三世界解放闘争は、その大義に対する自己陶酔のあまり、武装闘争至上主義に陥りがちであった。武装抵抗が或る時期やむにやまれず選択された手段であったにしても、正当で持続的な解決に至る最高の道は「対話」にある。
それは、我/彼の双方に無用な犠牲者を生み出さないためでもある。また独立の英雄たちは今まで、前体制の抑圧機関に属して人びとを逮捕し、投獄し、拷問した者に同じ仕打ちを行なって、それで平和が訪れたと言い張る場合が多かった。
敵対者をすべて刑務所に送り込んで、自分は闘争の英雄として権力の座に就く。
それは、闘争の過程で民衆がはらった犠牲に対する冒涜であり裏切りではないだろうか。これでは流血と暴力を終らせることはできず、われわれの願いとは実は復讐であり過去の敵対者を処罰することだということになる。
それでは、〈独立〉や〈解放〉が、新たな紛争の種を播いてしまうことを意味する」というように。
二一世紀にはいり、やがて独立するであろう「チモール・ロロサエ国」が、国軍を持たない、非武装社会をめざすというのもグスマンがよく語ることだが、それは上の問題意識から必然的に生まれた道なのだろう。
グスマンは自らの立場をわきまえ、第三世界の解放運動のあり方に即して問題を提起しているようにみえるが、このふりかえり方は、日本と世界の他の地域での社会運動のあり方や思考方法にとっても無縁ではありえない。
またグスマンは自戒を込めるためにであろう、第三世界の経験を批判的に取り上げる場合がめだつが、私たちは上のような真意を有する東チモール独立運動に先立つ、先駆的な第三世界の経験のいくつかを挙げることができる。
1979年ニカラグア革命の勝利に際して、サンディニスタ政権は、自分たち(とその仲間や民衆)を投獄し、拷問し、殺害した旧独裁政府軍の兵士を前に、最高刑期を30年とし、死刑を廃止し、柵も壁も塀もない開放刑務所すらを設けるという選択を行なった。
これは、その後の九〇年総選挙に敗北して以降のサンディニスタが四分五裂し、思想的混迷と社会的腐敗の極地にある指導者もいるという現状を知っていてなお擁護されるべき「過去の遺産」だと言える。
一九九四年一月、世界を蔽い尽くすグローバリゼーションに抗して武装蜂起したメキシコ・サパティスタは、自分たちの主張に社会の耳目を引くためにはあえて武装蜂起という衝撃的な手段に訴えたが、その直後から政治闘争を重視し、世界じゅうの解放運動が思いもつかなかったような方法で政府を「対話」の場に引きずりだすという道を選択した。
政府の約束不履行によって、サパティスタはここ三年間この対話の場を拒否しているが、この運動もまた、グスマンの先の言葉が意図することろと同一の次元に立っていると推測することができる。
「戦争と革命の世紀」と呼ばれる場合が多い二〇世紀をふりかえる時、サンディニスタ→サパティスタ→チモール・ロロサエ国建設へと向かう東チモール独立運動がもつこのような志向性は、ロシア革命や中国革命の指導部にはほとんど見られず、キューバ革命ですら意識しなかったものであったことがわかる。
時代の確実な変動を、そしてその中で変わらずにはおかない人間の意識の着実な変化を、私たちはこのような現実にこそ感じとってよいのだと思う。
ところで、グスマンたちは、住民投票前後の時期に「併合派」の暴力行為が激化する情況を見ながら、国連が何らかの軍事部隊を派遣することを、確かに要請した。
それは、目の前で起こっている暴力を一刻でも早く止めるための「緊急避難」的な目的をもつものであったと、客観的に捉えることができる。
ところが、二四年前のインドネシア軍の東チモール侵略という事実それ自体にも、その後の過程で二〇万人もの民衆が殺害されたという植民地統治の現実にも、心どころか眉ひとつ動かそうとしなかった「国際社会」は、突然のように目醒め、国連軍ないし多国籍軍の派遣と、それに続けて独立にまで至る期間の国連暫定統治機構の存在こそが、東チモール問題解決のために唯一絶対で、不可欠の選択肢であるかのように描きだそうとした。
「国際社会」とは、具体的には、米国、日本、オーストラリアなど東チモール問題と直接的かつ間接的に関わりの深い諸大国と、それら大国の意向を忠実に反映せずには存在しえない機構に成り果てている国連である。
これを後押しするのが、暫定統治機構に「ゼロからの国造り」を委ねようとキャンペーンを張るマスメディアである(10月26日付け朝日新聞、同三一日付け産経新聞などの見出し)。
暫定統治機構の副代表となるJICA(国際協力事業団)の高橋昭も「現地の人による組織が何もない、いわば『フロム・ザ・ゼロ』の国造りを手伝う」ことの光栄を語っている(11月14日付け読売新聞)。
独立運動を担った「組織」=民族抵抗評議会は、インドネシア軍とその陰に隠れて押し潰そうとしてきた日米豪ら諸大国の策動にも拘らず、上に見たような意識性をもって確固として存在している。
東チモールの地が焦土となっているという意味でなら許されるかもしれない「ゼロからの」という表現は、それをもたらした因果の関係を明らかにしないままに、情緒的に使われてはならない。
11月13日ジャカルタ発の時事通信は、東チモール独立運動指導者が、始動した国連による暫定統治に批判を強めていることを報じている。グスマンは「人道援助が住民の希望に沿っていないこと」を、レアンドロ・イサックはディリ郊外の自宅が多国籍軍によって三度も家宅捜索をうけており「同軍の情報機関に追跡されていること」を、マリオ・カラスラカンは「国連による統治は独裁的で、新植民地主義であり、暫定統治期間を短縮すべきであること」を主張した、というように。
東チモール独立をめざす民衆と、過去の責任を棚上げにしたまま胸に一物を秘めてこの地域に関わろうとする日米豪(そしてそれを体現している国連)との間に、交わることのない分岐線を引くこと。
私たちの議論の出発点はそこにおかれるべきである。
【1999年11月17日記】
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