現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20~21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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◆私達にとっての東チモール問題

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◆書評:伊高浩昭著「キューバ変貌」

◆「ふるさとへ」

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◆「ほんとうは恐いガイドラインの話」

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「ほんとうは恐いガイドラインの話」
「派兵チェック」第79号(1999年5月15日発行)掲載。
太田昌国 


 メルヘンとは、いつも、罪のない絵空事、現実には叶わぬ夢物語として、幼年・子ども時代の私たちにとって魅力の源泉であり続けた。それゆえに、(当然にも、人に依るが)しばしば根強い反感の対象ともなった。

最近、主としてグリム童話を対象として、道徳を説教したり小市民的な幸福感にひたらせると解釈されがちなあの一連のお話は、「ほんとうは恐い」ものに満ちていたのだとする初版原典訳や解説本が多くの読者を得ており、書店にはその種の本が数多く並んでいる。

メルヘンには、確かに魔女や悪漢や盗賊やいじめを楽しむ大人たちが登場する(だからこそ子ども心にはハッピー・エンドが劇的に印象づけられる)わけだから、物語は本来的に、ためにする甘言と裏切りと嫉みと悪だくみと憎しみ、いじめと暴力沙汰と人殺しなどの暗い側面を伴っているのだが、子ども向けに翻案されたダイジェスト版で通過儀礼的にそこを通り過ぎる場合が多かった私たちは、しばしばメルヘンの初源の姿を知らないまま大人になってしまう。


 だから、グリム童話の初版にさかのぼっての読み直しは確かにおもしろいが、ここはそのための場ではない。実は私たちはこのかん「ほんとうは恐いガイドライン」という<お話>を世の中の人びとに繰り返し訴えて続けてきたわけだが、その訴えは、現在の時点では必ずしも功を奏さなかったことの問題点を考えてみたい。グリム童話の一件はその枕である。


 非核市民宣言運動・ヨコスカの新倉裕史さんは、反対運動に取り組む人びとのなかにあっても新ガイドラインの本文が実はあまりよく読まれていない事実に触れて、誰かの話をおうむがえしに言っているだけでは「本当の怖さはあまり伝わらない」と言う(あごら新宿編『「周辺事態法」は戦争への道U』所収の「日米安保はすでに変質している:新ガイドラインと自治体」、あごらMINI編集部、1999年4月)。私たちが昨年8月「提言:新ガイドラインを問う」を発表した時にも、ガイドライン本文を読もうと思っても読み切れないから、こういうふうに全体的に批判した文章が出ると便利だという声がちらほら聞こえてきた。

あの低劣な文章は読みたくない、読んでも頭に通らないという気持ちはわからぬではない。

だが、新倉さんと共に、だからといって読まぬのは間違っていると私も思う。ガイドラインや周辺事態法案の「ほんとうの恐さ」は、焦点をぼかした、あの下劣な文章を読めば読むほど、よりいっそう身に沁みてくる。初版(英文)と再版(日文)の差を対比的に読めばなおさらだが、後者のみを読んでもその表現の異様さ、ごまかしは際立つ。

それだけに余計に、正確な数値としては表現しようもないが、反対運動の担い手内部にガイドラインや周辺事態法案の文章それ自体をきちんとは読んでいない人が一定の割合を占めて存在していたとすれば、それはやはり良くないことであった。運動が広がる可能性を殺いだかもしれないという意味において。問題は、こうして、まず私たちの内部で内省的に提起される必要があるのだろう。


 もちろん同時に、政府・与党・官僚たちが、新ガイドラインや周辺事態法案から「ほんとうは恐い話」を抜き取ることで、本旨とは似ても似つかぬ姿で見せかけた態度を徹底的に批判する必要がある。

彼らは、グリムの弟ヴィルヘルムよろしく、ガイドラインの初版(英語)を粉飾し、改変した。ヴィルヘルムは初版版『グリム兄弟の家庭と子どものメルヘン集』にあらずもがなの道徳を織り込み、あって構わない性的な表現を削除した。「物語の内容も、表現と語り口も子ども向きではない」とする、当時の社会の一般的な風潮とそれに基づいた圧力に妥協したのである。日本政府はガイドラインの訳文において、意図的な言葉の使い分けを行ない、原文には確固としてある<軍事色>を抜き取った表現にした。

「戦後平和主義の微温的な雰囲気の下で育った日本人の大人向きではない」米国式の(この20世紀を戦争に次ぐ戦争で生き抜いてきたあの国にあってはごく当たり前に用いられる)剥出しの軍事用語を忌避したのであろう。

法案が発動されて自衛隊が「後方支援」に出動しても、それは「ほとんど軍事ではない」と、無責任きわまりない防衛官僚・山口昇が抗弁したのは、その文脈においてであったと言える(本誌78号の太田の文章参照)。 

戦争そのものから<軍事色>を取り除こうとする政府・与党の現実認識は、さすがリアリズムを心得ている。戦争から限りなく遠い半世紀以上を生きてきたこの社会の構成者たる「国民」は、そう簡単には戦争に耐えられないことを知っているから、そうしているのだ。

だが、辺見庸が言うように「民衆というのはときに哀しい。情緒に巻き込まれ、自ら危機を選択したりする」(『世界』6月号)。「テポドン騒ぎ」と「不審船事件」を経た後の「世論」が、沖縄を例外として、ガイドライン法案賛成に大きく傾斜したらしいことを最近の調査は示している。


 興味深いことに、これにはマスメディアとそこで活動する一群の言論人が関わっている。彼らによれば、国家・国民たるもの「ほんとうは恐い」戦争にも必要とあれば立ち向かわなければならぬ。京大で禄を食む中西輝政は、現実に「不審船事件」が起こり「すでにその対処の方式が定められている」時には「国民が一致して政府を支持することは民主主義の鉄則とさえ言える」とまで言う(3月28日付毎日新聞)。

税金で生活保障をうけている大学教師が、こんな言辞を弄していることを私たちは決して忘れないだろう。この連載でも何度か取り上げた田中明彦や山内昌之なども含めて、噴飯物の「理論水準」で民主主義や戦争について声高に語る連中がいること、情緒に流されるばかりの社会全般がそれに同調しはじめていること。

時代の「ほんとうの恐さ」はそこにこそある。メルヘンは想像力の中で暴力をふるい人殺しをする物語としてどんなふうにも楽しむことができるが、中西・田中・山内らが煽る勇猛な物語は他者と自己の「死」を現実にもたらすのである。 


                        (1999年5月18日執筆)

 
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