春採湖を見下ろす高台に、生まれてから十八年間を過ごした家はあった。そばの月見坂を下ると、千代の浦の海岸に続く道に出る。
束の間の夏には、よくその浜辺へ行って波と戯れ、砂遊びをした。浜辺には、太く長い昆布が干してあって、心急く私たちが踏みつけて先へ進むと、おばさんの「コラッ! 踏むな」という怒鳴り声が響いた。
渇いた喉に、ラムネか、アイスキャンデーか、外栓の水道水で冷やしたスイカがおいしかった。
冬になると、春採湖でスケート遊びをした。湖全体の結氷を待ちかねるように春採側に渡るとき、ミシッと音をたてる薄氷の所や、氷の下の水の動きが見える箇所にスリルを感じた。
月見坂をスキーやソリで滑り降りた。大人になってその坂を見下ろすと、この急で長く狭い坂を滑り降りたことが信じられないほどで、足がすくんだ。
昔の人びとの生活を知ること、いわゆる考古学に関心を抱いていた。当時鶴ケ岳公園にあった博物館によく足を運び、付近の野山に出かけ、ヤジリ、化石、土器の破片を掘り出しては楽しんでいた。
こうしてさまざまな思い出が連鎖的に浮かんでくる郷里を離れて、三十五年以上が過ぎた。いまも付き合いが続く数少ない友人を除けば縁者もいない郷里への足は遠のいて、久しい。だが、七、八年前思いがけない出会いがあった。
民族問題に関わるなかで、柏木小学校時代のアイヌ女性の同級生と三十年ぶりに東京で出会った。関東圏に住むアイヌの人びとは、和人のなかで叫びだしたくなるほど孤独だと言い、同胞(ウタリ)が気兼ねなく集まる場がほしいと望んでいた。
アイヌ・ウタリと私たち和人の共同作業が始まった。その希望は、五年前の一九九四年五月、東京・早稲田のアイヌ料理店レラ・チセ(風の家)の開店となって実現した。
アイヌ・ウタリがそこで働く。アイヌも和人も、外国のさまざまな人も来る。キトピロやホッケやシシャモが北の大地と海から届く。店で飲んだり、店のやりくりを皆で相談するたびに、めったに帰ることもなくなった郷里・釧路が近づく思いがする。
それは、考古学に関心はあったが、それが、近代以降の和人によるアイヌの植民地支配の関係にまで及ぶことのなかった少年の日々の記憶に繋がり、郷里への懐かしい思いは、一種複雑になる。
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