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武力「決着」後のペルーを見る五つの視点 |
(「人民新聞」1997年9月25日号) |
太田昌国 |
ペルー日本大使公邸占拠事件が政府側の武力行使によって「決着」をみてから、およそ半年が経とうとしている。事態が続いていた時期の、表面的でセンセーショナルなマスメディア報道のあり方は、もちろん大きな問題だが、いざ「終わった」となると、これほどまでに継続報道がなされないというのも、相変わらずのこととはいえ、異常だ。
私自身接することができる報道量もずいぶんと減ったが、事件中の報道をふりかえりながら、またその後主としてペルーから聞こえてくるニュースを媒介にしながら、事件を風化させないためにいまの時点で考えられることを書きとめておきたい。
一、武力行使は、軍(エルモサ三軍司令官)と情報局(モンテシーノス顧問)に支えられるフジモリ政権という三極構造をいっそう強化した。
大使公邸占拠・人質事件それ自体が、「テロリストを殲滅した」と語っていた軍および情報局にとっては、この上ない屈辱であった。彼らからすれば、自らの責任によって起きた事態を「逆転解決」するには、目覚ましい軍事作戦の道しかなかった。
彼らにとって幸いなことに、この作戦は「結果的に」大成功に終わった。自信を得たフジモリ政権は、さらに攻勢に出て、政権の暗部を次々と報道してきたテレビ局社主の国籍を末梢するなど、一段と独裁傾向を強めている。
忘れてはならないことは、この三極構造は、ペルーに新自由主義経済政策を強制する国際金融資本・多国籍資本の支持を、事件発生以前から享受しており、事件の過程でも事件の「決着」後もそれが続いていることだ。
二、豪奢な日本大使公邸のある高級街区から三〇分も車を走らせると、ビジャ・エルサルバドルという名を持つスラム街に着く。住民たちは、第一世代が数十年前に無一物でたどりついた時以来の住民自治を基盤に、独力で、あるいは政府・地方自治体へ要求を突きつけて、水・電気・交通・学校・病院などの便宜を獲得してきた。
最近フジモリ政権は、その新自由主義政策の一環として電話公社をスペイン資本に売った。私的資本は、もちろん、利益が多大に上がる地域にしか電話敷設を行なわない。ビジャ・エルサルバドル地区はとり残されるばかりである。電気会社についても同じことが起こっている。今回の事件のひとつの背景としての新自由主義政策が、こうしてさらに社会的矛盾を積み重ねている以上、武力による「決着」は、課題の根本的な解決を先送りしただけのものであることが歴然とする。
三、ペルーの少年・青年層に、暴力の「気分」が蔓延しているという。それは、貧しい地区でのギャング同士の暴力沙汰、路上強盗、サッカー試合中の、相手チーム・フアンへの暴行など、さまざまな形をとる。ビジャ・エルサルバドルの或る若い地域活動家は、このような現在の青年層は、以下の三種類の「親」に育てられたのだ、と言う。
(1)前大統領アラン・ガルシアの権力をほしいままにした腐敗。(2)戦略なきゲリラ、センデロ・ルミノソと政府軍の暴力的抗争。(3)フジモリの新自由主義経済政策モデルが作り出した、冷酷な個人主義。
弱肉強食の経済モデルが、現在の青年層を蝕む暴力的気分の理由に挙げられていることに注目したい(資料は、北米の研究誌「NACLA]九七年七〜八月号による)。
四、人質安否報道に純化していた日本におけるマスメディアの姿勢は、武力突入による「解決」を全面賛美するという形で、彼らなりの態度を一貫させた。それは、確実に、ひとつの社会的雰囲気を形成するために力を発揮した。
去る七月、カンボジア情勢の悪化を口実に、政府が「邦人救出のために」自衛隊機をタイに派遣したことは、ペルー事件後はじめての、彼らの具体的な成果の現われであった。
事件後、危機管理コンサルティング会社や日本在外企業協会などがこぞって「提言」や「報告書」をまとめているが、そのどれを読んでも、上にも触れた事態の根源にある理由には目もくれず、オフィスや自宅をどう守る、外出する時はどうするというように、効き目のない「特効薬」を塗ることばかりを助言している。
「日本の威勢を見せつける」ことが、テロリストの攻撃を抑止する効果があるとする「誇大広告」もある。かくなるうえは、病巣の真の原因を問わず必然的に吹き出してくる結果を糊塗するだけの弥縫策が、新自由主義の死期を早めてくれることを期待するばかりだ。
五、最後に、MRTA(トゥパク・アマル革命運動)のあり方にも触れておきたい。大使公邸占拠事件は、遠くにいる私たちから見ていると、ペルーの社会状況のバランスを変えるにまでは至っていなかった。今回の作戦にせよ、MRTAという組織自体にせよ、それが民衆的な強力な支持を受けているという印象は、持つことができなかった。
しかもMRTAのメンバーは、指導部を含めて大半が獄中に入れられていた。こうして、フジモリに圧力をかけうる力は、政治的にも社会運動的にも軍事的にも、きわめて限定されていたように思われる。指導部セルパ氏たちには、とりわけ後半の段階で、このことの自覚が薄かったように思う。
彼らの「決起」には理由があったことを認めたうえで、また外部の観察者の立場からはどうでも言えるさ、との批判を覚悟したうえで、そのことには触れておきたい。痛ましいあれほどの犠牲者をみたからには。
(一九九七年一〇月三日記)
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