エルネスト・チェ・ゲバラが南米ボリビアの山中で殺されたのは、1967年10月9日のことだった。
ちょうど死後40年目である。反帝国主義・民族解放の理想の下に、彼とその部隊はゲリラ闘争を戦っていた。政府軍との攻防で負傷して捕虜となり、翌日、裁判もないままに銃殺された。
ゲバラは、人間が人間の敵である資本主義社会の原理とは正反対の、友愛に満ちた水平的な社会の実現を夢見た揺るぎない社会主義者であった。
合法的な手段による社会変革の道が閉ざされている独裁政権下の国々では、武装闘争こそが解放へと至る道であると確信 していた。
自らその立場を貫き、体力的にゲリラ戦士としての限界を感じ始めた39歳で死んだ。
コロンビアのノーベル文学賞作家ガルシア=マルケスはゲバラと同時代人で、生年も同じだ。
その代表作『百年の孤独』はゲバラが死んだ67年に公刊された。ゲバラの死を知ったマルケスは、明らかにゲバラへのオマージュとして、見事な短編「この世でいちばん美しい水死人」を書いた。その死は、立場を超えて、多くの人びとに悼まれた。
だが彼の死後40年の間に、世界の情勢はすっかり変わった。彼が信じ、そのために生きた社会主義の理想は、現実には敗北した。
彼は、ソ連型社会主義に対する痛烈な批判者であったが、そのソ連邦は崩壊して今や存在せず、社会主義そのものも危機に瀕している。
ゲリラ兵士という、かつてなら未来への夢や理想主義にも通じる響きを持っていた呼称は消え去った。
武装する者の多くは、その思想と行動形態に理想主義のかけらも見出されないことから、「テロリスト」と冷たく名づけられる時代がきた。
かつてゲバラが体現していた価値は、40年後の今すっかり地に堕ちたかのように見える。
だが、ゲバラは世界中で、人びとの注目を浴び続けている。著作集は繰り返し出版され、新たな読者を得ている。
フォトジェニックな(写真向きの)容姿をした彼を捉えた写真集ばかりか、カメラ好きだった彼が撮った写真も注目されている。
大部な評伝が複数の著者によって書かれ、先般評判になった『モーターサイクル・ダイアリーズ』以後も、その生涯を映画で描く企画も絶えることがない。
権力の座にしがみつくことなく身奇麗に生きた人間への共感があろう。その生涯を彩る革命的ロマンティシズムへの憧憬もあろう。
現実の世界が、興ざめの様相を呈すれば呈するほどに、それを超越して生きたかに見える人への関心が高まることはあり得よう。
だが、ゲバラを理想主義の高みに持ち上げて捉える時期は、とうに過ぎている。どの時期を見ても、彼は自らを囲む現実と相渉り、喜び、悩み、苦しみ、傷ついている。
それを感受している人びとこそが、彼とその時代の経験を大事にしつつも、それを超える新たな 価値を創りだすための模索をしている。
彼にとって躓きの石のひとつは、その前衛主義的な志向であったといえようが、ラテンアメリカをはじめ世界各地には、垂直的な前衛主義を乗り越えようとする社会運動が多様に存在している。白人ゲバラは40年前、先住民族との出会いに失敗した。
今、メキシコのサパティスタのように、ボリビアで先住民大統領の誕生を実現した運動のように、ゲバラを社会革命の先駆者としてみなしながら、それとは別な道を探る先住民族の動きが活発化している。
日本の視座から見るなら、次の事実はもっと注目されてよい。キューバ革命勝利の年の1959年、ゲバラは経済代表団団長として来日した。
受け入れ側の日本外務省は、千鳥が淵墓苑への献花を予定に組み入れたが、「日本の兵士はアジアで多くの人びとを殺戮したから、献花はできない」と断り、広島こそが私の行きたい街だと主張して、それを実現した。
原爆資料館を見た彼は「米国にこんなことをされてなお、言いなりになるのか」という言葉を案内者に語った。
ゲバラの敗北から目を逸らさない現代の社会運動や、時代を超えて生き続けている挿話を通して、「ゲバラとその時代」は、なお豊かさを増していくだろう。
|