現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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キューバ、ボリビア、ベネズエラの「連帯」が意味すること        
『CUBA NET NEWS』No.34(2007年3月30日発行)掲載
太田昌国


 雑誌 “Foreign Policy” 日本語版の二〇〇七年一・二月号に「フィデル・カストロはキューバに寄与したか」という論争記事が出ている(あおば出版)。入手することが、それほど簡単とは思えないので、その紹介から始める。論者は、カストロ批判派としてカルロス・アルベルト・モンタネル、擁護派としてイグナシオ・ラモネ。

前者は、一九六一年、米国CIAに支援されたテロ組織がシガレット・ケースに爆発物を隠し持っていたという事件に参画して逮捕されたキューバ人だが、収容所から逃走、その後政治亡命を果たして、海外に住み、反カストロを軸にした言論活動を展開している。

後者は、スペイン生まれのジャーナリスト、現在はフランスで出ている国際情報分析紙「ル・モンド・ディプロマティーク」の編集長を務めている〈電子版で、日本語訳も読むことができる〉。

メキシコ・サパティスタ民族解放軍の副司令官マルコスとのインタビューをまとめた『マルコス――ここは世界の片隅なのか』(現代企画室)をはじめ、新自由主義批判の著書が多く、日本でその言論活動が紹介されることも多くなった。

昨年には、カストロとの間で数週間をかけて行なった集中的なインタビューに基づいて、”Fidel Castro,  Biografia a dos veces” ( Debate, Barcelona, 2006)という、六五〇頁にも及ぶ大著を刊行したばかりだ。

因みに、カストロとのインタビュー本はこれまでに四冊ほど出ているが、ラモネの本はもっとも包括的かつ最新のもので、『カストロが語るキューバ革命全史』と称してもよいものとなっている(日本語訳は、いずれ出版されよう)。


 何事に関しても言えることだろうが、何かを批判する、あるいは擁護するという立場を固定しての論議においては、往々にして批判派が強い。この論争において、総体として私自身が共感をおぼえるのはラモネのほうだが、最初に批判的な問題提起を行なうモンタネルに対して、ラモネは受身的に応答をする形になっており、「勢い」がちがう。ラモネにしても、キューバ革命の全過程あるいはカストロの施策のすべてを支持しているわけでもないだろうが、この種の論争にあっては、すべてを擁護する顔つきをせざるを得ない点が、難儀なところである。

一九八〇年代、ニカラグアのサンディニスタ革命が、米国が支援する反革命勢力「コントラ」とのたたかいを余儀なくされていたとき、「ニカラグアは生き延びなくてはならない」というスローガンが世界的にも叫ばれた。

それを援用するなら、米国の妨害と圧力に抗して「キューバは生き延びなくてはならない」。

だが、キューバ革命に孕まれる問題点・欠点・矛盾をめぐる提起と討論と批判は、志向を同じくする者たちのなかにあって、何の留保もなく、保証されなければならない――とするのは、私が手放したくはない立脚点である。

革命いまだ成らず、の状況下に生きる他地域の人びと(日本の私たちのことだ)に先駆けて、人類未踏の領域に踏み入れた人びとの経験は、そのプラスとマイナスが広く共有されてこそ、現在と未来に生かされると思うからである。


 その意味において、ふたりが展開している論点には、私自身がいま考えている問題と繋がるものがあるので、以下、そのいくつかの点に関して順次触れていくことにしよう。


                     二

 モンタネルは、まず、病床にあるカストロの、遠くはない死によって、五〇年近くに及んだ独裁体制は終焉する、共産主義終焉後の東欧諸国にましな世界が待っていたように、キューバも民主的・平和的な改革期を迎えるだろうと予言する。

ラモネは答える。ソ連製戦車に乗った外国軍から押し付けられた東欧諸国の改革・革命と違って、キューバにあっては、小作農、労働者のみならず都市部の小ブルジョア階級出身のインテリも含めた幅の広い大衆運動から、改革は生まれた、と。


 後者の論議は、四八年目に入っているキューバ革命の初期に関しては、十分な根拠に基づいて言えることだが、その後の全過程についても言えるか、という問いが必然的に起こるだろう。

その後のキューバには、党・軍・政府が三位一体化した権力構造が形成され、それはどう見ても、民衆の上に君臨しているからである。

国家にしても、党にしても、さらには革命とか人民とかゲリラという名がつこうと、いずれにせよ「軍隊」でしかないものにしても――本来ならば、死滅すべきこれらの存在が、なにゆえに、民衆の上に立つ絶対的な権力をふるって永続するのか。

「敵に包囲されているから、備えなければならない」というありきたりの答を超えて、この問いかけを放棄するわけにはいかない。


  ところで、ここでのラモネの論点でもうひとつ重要なものは、キューバ・モデルを孤立させようとした米国の目論見が失敗し、キューバは再びラテンアメリカの民衆が目指すモデルとして復活していると主張しているところだろう。

「征服」と植民地化以降の五百年を振り返ると、キューバには、スペイン、米国、ソ連というように、常に依存する大国が背後にあった。現在、キューバが緊密な貿易・外交関係をもつのは、ベネズエラとボリビアを中心にしたラテンアメリカ諸国である。

特定の大国への依存を強いられるわけではない、超大国が自由に操ることのできる駒としての役割を果すのではない、この自律的で水平的な関係が、いまだかつて革命キューバが経験し得なかった種類のものであろうことは、容易に想像がつく。


 それが、現在もっとも鮮明な形で表現されているものは、二〇〇六年四月、キューバ、ベネズエラ、ボリビアの三カ国間で締結された「米州ボリーバル代替構想」と「諸国民貿易協定」であろう。

これは、全文を熟読するに値すると思うので、希望される方は、翻訳が掲載されている『社会評論』二〇〇六年夏号(スペース伽耶発行、連絡先=電話03-5802-3805。または書店で、「星雲社発売」の雑誌といって特定すれば、入手できると思う。定価一五〇〇円+税)をご覧いただきたい。

重要な点にいくつか触れておこう。まず、この構想と協定が拠って立つ場所が、「相互扶助・互恵的補完関係・連帯・協働」と要約できるものであることが、決定的に大事な点だと思う。

ある条項を引用してみよう。「ベネズエラとキューバの政府は、数世紀にわたる植民地主義および新植民地主義の支配の下に天然資源が搾取され、収奪されたボリビアに対する特別のニーズを認める」。

また「キューバとベネズエラの両政府はボリビアと協力しながら、貧困と不平等に反対する闘争の深刻な障害となっているボリビアの対外債務の無条件帳消しという正当な要求を支援するのに必要な行動を促進する」(富山栄子訳)。経済的優位に立つ大国や多国籍企業の利益が実現するよう仕組まれている「自由貿易協定」との違いが歴然としていよう。


 「ボリビアとの関係でキューバが実行すべき行動」には、次のような事柄が含まれている。どの項目にせよすべて費用負担をするのはキューバ側であり、ボリビア側は以下の業務に必要な施設を提供すればよい。

(1)失明や視力低下に苦しむボリビア人患者の治療、手術を行なう。
(2)最新の技術機材と眼科専門家を提供する。
(3)総合医学および他の医学分野での専門家養成のために五〇〇〇人分の奨学金を提供する。
(4)スペイン語、ケチュア語、アイマラ語、グアラニ語での識字教育プログラムに必要な経験、教材、技術支援を提供する。  


 ベネズエラもまた、ボリビアとの関係において実施すべき行動が、主としてエネルギー・鉱業部門を中心にして定められている。

関係が相互的なものでなければならない以上、ボリビアもキューバおよびベネズエラとの関係において、鉱産物、農産物、農工業品、畜産物、工業製品などに関して、両国の要求に応じて輸出に貢献することが謳われている。

また、ボリビアは「先住民研究における専門的知識に関して、理論においても研究方法論においても、両国に貢献する」という条項があることも、ボリビアの人口構成上の特徴を生かす試みであり、注目に値する。


 三国間のこの合意・協定がなされるつい半年前には、以下のことがあったことを想起しよう。

二〇〇五年一一月、アルゼンチンのマール・デル・プラタで開催された米州首脳会議の際に、米国大統領ブッシュは、キューバを除くラテンアメリカおよびカリブ海諸国をすべて包摂した米州自由貿易圏(FTAA)の形成に向けた交渉の再開を主張した。

ラテンアメリカ全域から、米国主導の新自由主義経済政策に反対する人びとが集まり、大規模な抗議行動が行なわれた。

そこには、「神の手」マラドーナも、大統領選挙を一ヵ月後に控えていたボリビアのエボ・モラーレスも参加していた。米州会議の席においても、米国の言いなりにはならないとする各国政府からの強硬な反対意見が出て、ブッシュの目論見は挫折した。


 その後ボリビアにおけるエボ・モラーレス政権の成立を経て、右の構想と協定が成立したのである。

このような文脈においてみると、その意義がいっそう明確になる。次のようにも言える。

キューバは、革命初期の段階で米国政府から受けた徹底的な孤立化策動の中で、武装闘争を主軸とした大陸規模の革命戦略に賭けた。チェ・ゲバラが選択した道がその象徴だった。

だがそれは、一九六七年、ゲバラたちの死によって敗北した。その直後から、キューバがソ連圏に包摂される時期が始まったが、四半世紀足らずの期間のその試行錯誤も、一九八九年から九一年にかけての東欧・ソ連の社会主義圏の全面的な体制崩壊によって挫折した。

その後の苦難の時期を経て、近隣諸国との間での代替構想と貿易協定が結ばれている。この観点から見ても、時代状況の大きな変化と、その中で世界を覆い尽くす流れとは別な価値観に基づいた代替構想が持ちうる深い意義を感じ取ることができるだろう。


                    三

 キューバがボリビアに対して行なっている行動は、カルロス・アルベルト・モンタネルから見れば、「キューバ政府は足下の人権を守ることができないのに、ラテンアメリカ諸国との連帯を尊重することなど、どうしてできるのか。

半世紀にわたる機能不全で残虐な独裁政権を、白内障手術を施した事実によって判断する」ような馬鹿げた方法だ、と断罪の対象となる。

ラモネが肯定的に見る昨今のキューバの経済成長率にしても、モンタネルから見れば「ベネズエラからの年間二〇億ドルの支援によって水増しされたもの」と解釈される。

また、カストロ政権が「アメリカの推進する米州自由貿易地区には激しく反対しながら、アメリカとの自由貿易が可能になるような禁輸措置の解除を求めていること」は、大いなる矛盾だとの指摘もなされる。


  総じて、「部分」を言うならば間違いではない指摘も、時にモンタネルはしているように思える。

しかし、キューバ革命以前および以後における米国との関係のあり方を捨象して、キューバを論じることはできないだろう。

米国政府の政策を不問に付し、カストロ批判に純化させて、問題が解かれるわけでもないだろう。問題は、どこに価値をおいた社会観・人生観をひとは持っているのか、という問題に帰着していくのだと思える。

その意味で、モンタネルには、カストロ憎さのあまりに歴史的・論理的思考が欠けている。

私は、ただ、二〇世紀的な革命思想、左翼思想は確かに「敗北」したと考えているから、その「限界」を超えていない現実を「二〇世紀的」キューバ革命の中に見い出す限りにおいて、モンタネルのような立場からなされるカストロ批判もキューバ革命批判も、無視したり軽視したりはすべきでないと考えるのである。

そのような批判からも汲み取りうるものがあって、それが、キューバ革命が二一世紀の過程をなおも「生き延びる」ことに寄与するなら、それでよいのだ。


  最後に触れておきたいのは、キューバとの協働事業に加わっている新生ボリビアのことだ。先住民族が総人口の六〇%強を占めるボリビアでは、この人びとの権利をいかに回復するかという課題が重要なものとして取り組まれている。

キューバはスペインによる「征服」の過程で先住民族が絶滅させられたから、二〇世紀キューバ革命は、先住民族とコロン(植民者)の問題に、自らは直面することがなかった。

革命後のソ連と中国は、前帝国の版図をそのまま引き継いだから、周縁部には膨大な異民族領域、先住民族領域を抱えた。

モスクワと北京の指導部は、これらの地域の人びととの関係がいかに公正に築かれているかという宣伝に努めたが、ソ連の崩壊過程で、それとは真っ向から異なる現実が誰の目にも明らかになった。中国もまた、チベットで、新疆ウイグルで、モンゴルで、容易ならぬ問題を抱え込んでいることは周知のことだ。

その意味において、新生ボリビアは、史上初めて、この問題に取り組んでいるのだと言える。エボ・モラーレス大統領は、アパルトヘイト廃絶後の南アフリカのあり方にひとつのモデルを見い出しているようだが、いずれにせよ、ボリビアは独自の道を切り開いていかなければならないだろう。


  そのエボ・モラーレス大統領は、去る三月上旬、日本国外務省の招きで来日した。日本国政府は、資金協力を「餌」に、国連安保理理事国選挙での投票を依頼するという、相も変らぬ低次元の「外交」を行なった。注目すべきは、エボ・モラーレスが、制定される新憲法で「戦争放棄」を盛り込みたいと明らかにしたことだろう。

即座に、あるいは段階的に軍隊廃絶をも展望したビジョンではないらしい。軍隊を保持しつつも「戦争を放棄」するのは、「唯一のよかった戦争である独立戦争でも、混血の人たちや先住民の人命が喪われた」からだという。

これは、カストロには語り得なかったことばである。置かれている状況の違いは、当然にも、あるだろう。

同時に、戦争と平和の問題をめぐる世界状況の変化を読み取ったエボ・モラーレスが、独自の世界観と歴史観に基づいて発した「新しいことば」かもしれない。

底辺の民衆が死ぬという現実を見据えて、戦争放棄が発想されているという、まっとうな姿勢に注目したい。


  このことばは、憲法九条の規定を変えて、国軍保持を明文化し戦争も辞さない国家をつくりたいと熱望している愚かな日本国首相の前でも語られた。エボは、そうとうな皮肉屋なのだろうか? もっとも、何事かを「皮肉だ」と感じるのにも、相応の感性が必要なのだが。


 以上、キューバ、ボリビア、ベネズエラをはじめとして、ラテンアメリカ全域が、なぜ、いま注目すべき対象であるかということに関して、私が昨今考えている理由である。

 
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