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「拉致問題」専売政権の弱み |
小冊子「安倍政権の『戦う国づくり』を問う!」
(派兵チェック編集委員会編、2007年4月29日発行)掲載 |
太田昌国 |
私の「美」意識からいって、ここにタイトルを書き写すことすら憚られる安倍晋三の著書がある。
文春新書から、二〇〇六年七月に発行された。因みに、安倍は、この本のタイトルとして付した言葉がいかにも気に入っているようで、国会での演説や答弁の中でも連発している。
ここでは、この本およびその周辺から読み取ることのできる問題をいくつか指摘することで、安倍政権の性格をスケッチすることにしよう。
(一)未完の「親殺し」
にんげんの子どもは、成長の過程で、いつか「親を殺す」。愛のゆえにであろうと、憎しみの果てにであろうと、愛憎半ばしてであろうと、ひとは、子ども期から青年期に至る過程で、一度は親を殺さずにはいられない。それが、精神的成長の証し、というものである。
ひとが長じて、自らの人生をふりかえるとき、その時点での親子関係がどのようなものであれ、かつてそんな時期があったことを思い起こす。
優れた作家や劇作家が、このことをテーマにした作品を残しているのも周知のことである。だが、稀有な例外があることを、安部の本は明らかにする。安倍は五〇歳を超えたいまもなお「親殺し」をしていないようなのだ。
ましてや、「祖父殺し」においておや。まあ、『太陽の季節』一族を見てもそうだし、日本の保守党政治家一族では「親殺し」が起こらないから、親子ともども、互いを「余人をもって代えがたい」と思い込んでの、愚劣な世襲劇が罷り通るのでもあろう。
書名と同様に、ここに書き写すこともばかばかしいが、叙述上止むを得ない限りで引用してみる。
「祖父は、幼いころからわたしの目には、国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。それどころか、世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。間違っているのは、安保反対を叫ぶかれらのほうではないか。長じるにしたがって、わたしは、そう思うようになった」。
自分の爺さんはいい人だった。あんないい人を、悪く言うほうが間違っていたのだ――仮に一〇歳前後の幼子からしてみれば、祖父についてのこういう物言いはあり得るかもしれない。
しかし、上の表現は、齢五〇を超えた政治家が書きうる、論理、思想、、哲学、歴史認識に裏打ちされた文章では、ない。
驚くことは、もっとある。大学を卒業し、大手の鉄鋼メーカーに勤務していた安倍は、中曽根内閣で外相を任命された父親に、突然「オレの秘書官になれ」といわれる。
「いつからですか」「あしたからだ」。当時二八歳であった安倍は考える。「急な話だったが、もともと考えてはいたことだし、これも運命だと思って決断した」。
考えてはいた、だって? 運命だって? 確かに、その数頁前には書いてあった。「父、そして祖父も政治家だったので、わたしも子供のころは素朴に父のようになりたいと思っていた」。
「公」の職務に、何のためらいもなく持ち込まれる、子供じみた「わたし」一族の運命論! 現首相の思考の水準を物語るこれらのエピソードは、もの悲しくも、私たちの中に記憶されるべきである。
(二)「拉致」の専売
しかし、政治の世界には、魔物、むずかしい字を使うなら魑魅魍魎が住まう。主体性のかけらもなく、政権党の有力政治家である父親の秘書として政治の世界に足を踏み入れた安倍は、否応なく、荒っぽい修行の中で試行錯誤を重ねる。その狭い枠内では、それなりに鍛えられる。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)特務機関によって拉致された一日本人――このケースを正確に言うなら、ヨーロッパで工作活動を行なっていた北朝鮮工作員および「よど号」関係者から勧誘を受け、その限りでは自らの意志もあってロンドンから北朝鮮に赴いたと思われるA、ということになろうが――の家族から、娘が北朝鮮にいるらしいから助け出してほしいという陳情を受けるのは、安倍が秘書時代の一九八八年のことである。
それから、父親の死をうけて一九九三年に衆議院議員に初当選し、議員初期の活動を経て、被害者家族会と拉致議連が結成される一九九七年までのおよそ一〇年間、安倍は確かに、自らが属する自民党の中にあっても奇異に見られるほど「拉致問題」の解明に取り組んだことは、彼が位置する政治的立場はどうあれ、認めなければならない。
安倍は、自著においてこのあたりの時期の経緯にも触れており、孤立無援にも耐えて自分だけはいち早く拉致問題に取り組んだとの自負はうかがうことはできるが、叙述そのものは平板で、見るべきものは少ない。
ところが、元共同通信記者で、安倍の父親が現役であった時代から自民党を担当していた野上忠興が著した『ドキュメント安倍晋三――隠れた素顔を追う』(講談社、二〇〇六年)を読むと、印象は一新される。野上は、安倍はもちろん周辺の政治家や関係者たちへの聞き取りをよくやっており、その証言の信憑性はかなり高いと考えてよいと思われる。
野上の立場は安倍に寄り添いすぎていて、私はきわめて批判的に読みはした。だが、秘書時代の一九八八年に拉致事件のことを初めて耳にした安倍が、二〇〇二年の日朝首脳会談前後に至るまでの一〇数年間に、ただひとつ、この問題を通して、自民党およびその主導下にある政府の中枢に上り詰めていく過程には、安倍の本質を見極めうる要素が、想像以上に含まれていることが、本書を通じて理解できた。
そのときどきのメディアでも、同種の分析はなされていた場合もあると記憶するが、こうしてひとつの物語として読むと、統一的なイメージが浮かび上がるという意味において、である。
安倍が拉致問題への取り組みを通して、そのような場へ浮上できるためには、野上も言うように、「運」に恵まれていた面があった。
それは、自民党的な年功序列秩序を壊して、森政権(二〇〇〇年七月)および小泉政権(二〇〇一年四月)において、相対的に若い安倍が連続して官房副長官に任命されたことである。
これが、二〇〇二年九月の小泉訪朝の際に、安倍がこれに随行するという機会がつくられることに繋がる。野上と安倍の書物に即して、この前後の時期で、重要な事柄を箇条書きで整理してみる。
(1)小泉訪朝計画は、当時の官房長官・福田康夫と外務省アジア大洋州局長・田中均という、いうところの対北朝鮮「融和派」によって推進された。拉致問題をめぐって何かと口出しをする「うるさい」安倍は、徹底的に蚊帳の外におかれ、彼は日程発表直前までそのシナリオを知る由もなかった。
(2)「拉致」の二文字を欠いた日朝ピョンヤン宣言の内容を安倍がはじめて目にしたのは、ピョンヤンへ向かう特別機の中であった。これに先立って、スポークスパースンとして小泉訪朝に同行することになった安倍は、宣言内容を事前に知ろうとして、何度も外務省の田中に連絡しアポイントを取ったが、直前になってその都度キャンセルされたからである。
(3)田中はピョンヤンにおいても、安倍を徹底的に無視した。他方、得られた情報は、東京に待機している福田には逐一電話で報告させていた。
(4)午前の会議の前に「拉致被害者五人生存、八人死亡」の情報を得ていた日本側に、金正日の謝罪の言葉はいっさいなかった。
昼食のための待合室で、北朝鮮当局が盗聴器を仕掛けていることを意識しながら、安倍は小泉に迫った。「(午後の会議で)謝罪の言葉がなければ、宣言調印はせずに、席を立って帰るべきだ」。「そうだな」と小泉は答えた。
(午後の会議の冒頭、金正日は謝罪した。これは、安倍をして、「わたしは日朝交渉で金正日委員長にじかに接し、その交渉のしかたを観察したが、一部の評論家がいうような愚かな人間でもなければ、狂人でもない。合理的な判断のできる人物である」と書かせることに繋がっていよう)。
これらの情報は、メディアにおいても事後的に、大なり小なり報道された。「融和派」のお膳立てに安倍がギリギリの地点で抵抗したという「物語」は漏れ伝わり、被害者家族会とその周辺での安倍に対する信頼感は、より強固なものになった。
拉致被害者の命運を知って、一途に激昂した日本社会の「世論」にあっても、安倍人気は一気に高まった。その後の局面における安倍の出処進退には、ここで一般的に獲得しえた「肯定的な評価」を背景にした「強さ」が見られることになる。
これを機に「融和派」への反攻に出る安倍の姿を、野上の本は詳細に描いている。「融和派」と安倍が攻守ところを変えた分節点は、二〇〇二年一〇月一五日、二四年ぶりに帰国できた拉致被害者五人の「処遇」をめぐって起こった。
田中=福田ラインは、「一〇日間程度の一時帰国というのが北朝鮮との約束だ」と言って、五人をいったん北朝鮮に戻すことが今後の交渉進展のためには不可欠であると主張した。
安倍は「あんたは北朝鮮外務省の人間か!」とまで田中をなじった。安倍の動きを知った福田も、安倍を官房長官室に呼び「君は、何だ、余計なことをするんじゃない!」と叱責している。
この時期を回顧する安倍の直接的な言葉が野上の書にあるわけではないが、関係者が語り伝えている当時の安倍の「余裕ある」態度を見れば、「世論」が自分に味方していることに、安倍はこの上ない自信を得てふるまっていることがわかる。
その後現在にまで至る経緯は、誰もが知っているとおりである。
私は、党派に属することを自覚的に拒んできた人間なのに、ロシアや日本の共産党党内闘争史や新左翼の抗争史を読むことは、けっこう好きだった。
それは、「運動」の渦中で生きる人間(集団)の、ある意味での「崇高さ」も「愚劣さ」も、文学作品以上に伝えてくれる場合があり、きわめて人間論的な要素があったからだと思われる。
「崇高さ」には欠ける保守政党や政府内部での抗争史の類は、いままであまり読んできたわけではない。
だが、この間、安倍の浮上を可能にした諸要因を考えるためにいくつもの書や資料に当たったが、拉致問題をめぐって権力者内部で繰り広げられてきた抗争に勝利して現在の安倍があることだけは、軽視すべきではないだろう、とあらためて感じた。
政権掌握直後はともかく、二〇〇七年が明けて以降の安部が、国会運営や答弁で見せ始めている「強引さ」は、この党内・政府内闘争のさなかで得た「自信」に裏打ちされているようだから。
(三)安倍の弱点としての「融通無碍さ」と「牢固さ」
安倍の本を読んでいて奇異に思うのは、この男が、きわめて恣意的に、自分に都合のよい例だけを挙げては、それを融通無碍に自らの立論に利用していく手法について、である。
この本がベストセラーになり始めてまもなく、書店に平積みされたこの本の隣りに遠藤周作の『沈黙』文庫本が並び、安部の写真付きの帯がまかれているのが目についた。
「安倍首相も感動の書」といった類の惹句がある。はて面妖な、と思った。安倍の本を読んで、トリックがわかった。
安倍は、広くはナショナリズム、狭くは国家への帰属意識の重要性を説いている箇所で、高校生のときに『沈黙』を読み、この場合は宗教だが、ひとは何かに帰属してこそ、身の処し方を得るとの確信を得たと語っている。
『沈黙』のテーマが、宗教への帰属意識の大切さであるのかという問題もあるが、安部が解釈した宗教上の帰属意識と、安倍の本音である国家への帰属意識を、「大切さ」という共通点で括って、こともなげに密通させる手法には、冥界の遠藤も「こりゃあかんわ(狐狸庵閑話)」と魂消ていることだろう。
スポーツ選手の活躍や、人びとに広く観られた映画を題材にしながら、自分の考えを披瀝する上で有効な側面だけをこのように取り出している例は、安倍にあっては枚挙にいとまがない。
国会論議における安倍の「強い」ことばは、物事の一面をしか見ない、あるいは見ることのできない人間が持つ限界をも、同時に明らかにしている。
どう贔屓目に見ても本来それ自体は誇ることでもないにもかかわらず、「日本人であることを誇りに思い」という抽象的なことを、本の末尾に書かざるを得なかった安倍は、いくつものアキレス腱を持っている。
拉致問題をめぐって彼が主導した対北朝鮮強硬路線は、ここまでは、国内世論との関係では安倍にとって大きな意味をもちえた。
だが、「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」との牢固たる態度が、問題解決のためのすべての出口を塞いでいることは、もはや多くの人びとにも明らかになっている。
安倍は、著書の中で、「ほんらい別個に考えるべき、かつての日本の朝鮮半島支配の歴史をもちだして、[北朝鮮に対する]正面からの批判を避けようとする」勢力がいることを批判している。
安倍は、ついうっかりとこの箇所を書いてしまった。北朝鮮側は、ほんらい別個に考える「べき」植民地支配の清算問題を、当然にも持ち出すだろう。
為政者としての安倍は、このほんらい別個に考える「べき」問題については、いっさい言葉を発せず、方針も示さないままでいる。
このふたつの問題は、「別個に」ではあっても「同時に」考える「べき」問題だというのは、外交の相互性からいって、当然のことである。
この相互性を欠いた小泉・安倍の方針が、拉致問題の解決そのものをも、彼方に遠ざけてきたのだ。複眼思考のない安倍は、自らのこの絶対的な矛盾に気づくことはない。
否、北朝鮮側にこの矛盾を突かれると、「拉致問題は現在進行形の人権侵害、従軍慰安婦の問題はそれが続いているというわけではないでしょう」と逃げて済ませたつもりになってきた安倍は、この間の米国議会、メディア、時には米国政府内「知日派」からなされる「安倍晋三のダブル・トーク(ごまかし)」批判には神経質になっている。
米国からの批判は、拉致問題には熱心な安倍が従軍慰安婦問題には目をつぶっていることへの、その限りではしごくまっとうな批判である。
当事者からの批判には耳を傾けずに、「米国筋」から言われて初めて事態を取り繕うとするところが、歴代自民党政権の姑息さの表われだったが、安倍もまたその路線を忠実に歩んでいる。
稚児のごとき「祖父=いい人」論に固執し、戦争責任問題を含めた歴史問題に真っ向から向き合おうとしない安倍政権の、外交問題におけるアキレス腱である。
安倍政権の強さと弱さを十分に弁えた上で、私たちの反攻は始まる。
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