現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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「低開発」 subdesarrollo という言葉がもつ意味  
映画『低開発の記憶』パンフレット(2007年5月26日、アクション発行)掲載
太田昌国


 1968年に製作された映画『低開発の記憶』を、私は1974年にメキシコで観た。そのころ私はメキシコに住んでおり、それまでの日本ではまったく観る機会のなかったキューバ映画をできる限り観るようにしていた。

革命勝利直後に創られたドキュメンタリー作品の力強い表現力と迫力には、正直いって、驚いた。『レボルシオン 革命の物語』(アレア監督、1960年)、『若い反逆者』(エスピノーサ監督、1961年)、『侵略者に死を』(アルバレス+アレア監督、1961年)、『ヒロン』(エレーラ監督、1971年)などである。

いずれも、革命前の反独裁闘争と革命後に起こった米国の軍事侵略に対するたたかいを描いた作品である。キューバ映画といえば、主としてそれらのドキュメンタリー的な作品を見続けていた私は、革命後10年目にして『低開発の記憶』のようなフィクション作品が創られていたことに、新鮮な印象を受けた。

しかも、この映画に登場するのは、「革命的な」人間ではない。妻に愛想をつかされて米国に逃げられ、比較的裕福な多くの友人たちも去って、革命のキューバにひとり残された中年男セルヒオの、冴えない物語である。

若いころの私は、ひたすら「革命的な」ものをキューバに求めていたが、その当時は、革命という出来事を含めて物事がもっと多面的に見えてきた時期だったので、自分でも意外に思えるほど、すんなりと心に入ってきた作品であった。


 製作からほぼ40年、革命勝利からもまもなく50年を迎える現在の時点で、この作品の意味を捉え返してみる。セルヒオは、あてどもなくハバナの街を歩いていて若い女エレーナと知り合い、関係をもつ。

欧米文化を自らの価値基準とするセルヒオは、離れていった妻にもかつてそうしたように、エレーナを「磨き上げ、都会的な女」に仕立て上げようとして、美術館、ヘミングウェイの家、レストランなどへ連れていき、「訓練」する。だが、エレーナははなからそれらに関心を示さない。

低開発の証拠だ、この国の人間はいつでもこうなのだ、とセルヒオはうんざりして、エレーナを避けるようになる。

映画のタイトルともなっている「低開発」subdesarrolloなる用語が頻繁に用いられる。これは、一見、相手の女性を自分の気に入るように仕立てようとする男の、真に身勝手なあり方を象徴する言葉に終始しているように見える。その側面は、もちろん、ある。


 だが、それだけには終わらない。1960年代において、subdesarrollo は特別な意味合いをもつ言葉であった。

ラテンアメリカが低開発に留まっているという現実は、数世紀にわたって世界資本主義の発展過程と強制的に関わり合いをもたされることによって生み出された従属的な結果にほかならないとする経済理論が、当時多くの人びとの心を捉えていた。


  革命キューバはこの悲劇的な現実を変革するための最前線にいたのだ。このような時代的背景の中にこの作品を据えると、subdesarrollo という用語が頻出する映画は、自己本位な男の妄想物語に終わることのない広がりを得ることになる。

もちろん、映画にも登場する文学シンポジウムの場面では、「低開発」という言葉を持ち出せば何にでも説明がつくと考える傾向を戒める司会者の発言も挿入されていて、これもまた、当時存在した論争に言及した重要な証言だと言える。


 私もその渦中にいたからよく分かるが、革命には人をして熱狂させる祝祭的な力がある。キューバ革命は、ソ連に魅力が失せた時代にあって、北の大国=米国と対峙しているという一事だけでも、世界中の多くの人びとの心を捉えた。

この同じ時期に、他ならぬキューバにあって、距離感をもって「革命」を見つめる男を主人公とする原作が書かれ、それをトマス・グティエレス・アレアが映画化し得たという事実に、キューバ革命の奥深さを感じる。

熱狂も悪くはないが、熱狂によって一面化されると多様性が見失われる。それは、「革命」を貧しくするだけだからだ。


◆映画『低開発の記憶』公式サイトhttp://www.action-inc.co.jp/memorias/

 
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