四〇年前のことを振り返ることから、この文章を書き始めてみる。一九六八年、二四歳で大学を出た私は、教師の推薦で某出版社への就職が決まっていた。
月収三万三千円、特別手当は年に六ヵ月分――というのが、給与上の取り決めだった。
当時の大学新卒の水準で言うなら、比較的よい条件であった。この一件は、しかし、つまらぬ理由で内定取り消しになった。
取り消しの不当性をめぐって争うことに意味を見出しえなかった私は、別な出版社の就職試験を一社だけ受けたが、だめだった。
他に探そうと思えば、何にせよ就職口はあった時代だったろうが、元来求職活動に熱心になれなかった私は、「おりる」ことにした。
学生時代からの継続としての家庭教師、出版社が外注する校正の仕事、翻訳などを最小限やりながら、生活上の糧を得ることにした。
自由な時間は、専門的な研究者であれば「地域研究」とか「新たな世界史像の創出」とでも言うであろう分野での模索と研究に使うことにした。だから、仕事のない日は、弁当持ちで国会図書館に篭った。
技能的にツブシが利く人間ではないから、畏れ多くて山谷には行けなかったが、高田馬場駅前の寄せ場で「立ちんぼ」をして、単純肉体労働で稼ぐということもやった。
一緒にそこへ行った仲間たちとは、週に数日間の精神労働と数日間の肉体労働で、一個の人間の中での、精神労働と肉体労働の統一をはかる――などと言い合っていた。
いきがり、ではあっただろう。それが、研究一筋の道を保証されている専門的研究者に対する自分たちの優位性である、とする若気の至り的な自負もあっただろう。だが、それは、他者に対するルサンチマンとも憎悪とも軽侮とも劣等感とも無縁な、きわめて主体的な選択であった、とは言える。
当時、丸山眞男が、政治的ラディカリズムの傾向を批判するに当たって、次のような発言をしたことがあった。
その傾向の持ち主には「自分の精神に傷を負った心理的ラディカルが多い」と言ったうえで、丸山は続ける。「俺は一流大学を出て本来は大学教授(?)とか、もっと『プレスティジ』のある地位につく能力をもちながら、『しがない』『評論家』や『編集者』になっているという、自信と自己軽蔑のいりまじった心理に発している」(丸山+梅本克巳+佐藤昇『現代日本の革新思想』、河出書房新社、一九六六年)。
吉本隆明あたりへの当て擦りとしか思えないこの一節は、その人間観察の愚劣さと思い上がりが混在した心性において、私を心底驚かせた。
この手の「大学人」には、その後も事欠くことはない。やがて起こる全共闘運動を担った学生たちの、革新派を含めた知識人に対する激しい批判に、私が一も二もなく共感をおぼえた核心には、「戦後派進歩的知識人」の象徴というべき丸山のこの発言があった。
当時の私の平均収入額は覚えていない。もちろん、某出版社でなら保証されていたはずの年収六〇万円を、はるかに、はるかに下回る額であったには違いない。
当時は健在であった田舎の両親は、私を前に「嘆く」ことはなかった。不安げな顔も見せなかった。それは、ありがたかった。
私は私で、自分が惨めとは思わなかった。むしろ、自由であることを謳歌していた、というほうが正確だろう。食うためにせよ、秘かにであるにせよ、ものを書くという選択肢は、当時の私にはなかった。経済的な不如意さは、大きな問題ではなく、家賃、飲食費、本代がギリギリまかなえるなら、それでよかった。
東京での移動には交通費の負担が大きいので、出来る限り歩くことに加えて、「キセル」や、改札口で人陰に隠れての(私が当時呼んでいた名で言えば)「すり抜け」などで、とことん節約した。こんな不安定的な就業状態は、自らの選択に基づいて、長く続くことになる。
その途中で、結婚した。一時期を、私は「扶養される」家族となり、「主夫」となって過ごしもした。
いま思えば、「時代」が、私の初発のそんな気分を規定したのだろう、と思う。私より少し年少の、各地の学生たちが大学をバリケード封鎖して、社会・政治運動の前線に立っていた。
青年労働者、各世代の市民たち――も、さまざまな「運動」の現場にいた。日本だけではない、世界中の民衆が沸き立っていた。新しい時代が来る、新しい思潮と運動に触れている――そのことの実感が、私には刺激的で、大事だった。
私という個人が抱える問題・問題意識と、社会の問題とを繋ぐ「言葉と思想と運動」が存在していた時代、と言えるだろう。
その「言葉や思想や運動」なるもののうちどの程度のものが、四〇年後のいまも生き永らえているかは、十分な検討に値する課題だ。
私がそれらに煽動され、翻弄されただけの部分も、若いだけにあったには違いないが、もちろん、自分で考え、悩み、模索していたことがらはずいぶんとあった。
事実、四〇年後の私が必須の課題として取り組んでいることの多くは、この時代に模索していたことに源泉を持つことを、私ははっきりと自覚している。
このように、当時、経済的には(小田実的な表現を使うなら)「チョボチョボ」で、精神的には高揚していた私を規定していた「時代の感性」とは、明らかに「左翼性」であったと思う。
そして、四〇年後の現在の問題は、その「左翼的なるもの」が、世界的にみても日本一国でみても、ひたすら影響力を減少させ、いまや衰亡の危機にすらある、ということだと思える。
元来アナキズム思想にちかしいものを感じ、ロシア共産党を主導し世界中の左翼政党政治を牛耳ったボリシェヴィズムに対する幻想からは自由であった私には、若いころから正統的な左翼への違和感と批判点はずいぶんとあった。
だがその後、たとえば、フェミニズムによる左翼批判からは、男である自分が気づきもしなかった重要な論点を学んだ。先住民族・少数民族による左翼批判からも、自らが左翼であると自覚していながら多数派民族に属することで見えなかったものを教えられた。いずれも、これからも続くだろう。
そしていま、「フリーター」の若年層から左翼への批判と絶望が語られる時代がきた。
世界的な規模での左翼の衰亡と、新自由主義経済体制の世界制覇との関係で客観的に分析されるべき側面をもつ論点なのだが、右肩上がりの経済成長の過程で得た「既得権を防衛する左翼」という一点に絞りこんでの、ルサンチマンに満ちた批判である。
小林よしのりが、左翼および進歩的知識人に対する罵倒を始めたとき、私は小林の歴史解釈に対する根底的な批判をもちつつも、そこに無視できない論点があることを感じた。
若者が小林の漫画を熱心に眺める根拠も、左翼の不甲斐なさとの対比で理解できた。「フリーター」からの左翼批判にも、同じものを感じる。
私が彼(女)らの論点にどんな批判をもとうと、その主張には、左翼の敗北と退潮によってもたらされた、ひとつの必然的な状況が反映している。そのように捉えることが、この問題を考えるに当たっての、私の出発点である。
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