死刑囚・永山則夫が、収容されていた東京拘置所で絞首刑に処せられたのは一九九七年八月一日のことだった。彼は私より五歳年下で、生い立ちもたどった人生もずいぶんと違っているが、同時代人という意識が私から消えることはなかった。
獄中で著わした『無知の涙』(河出文庫)をはじめとする著作にも、罪と罰の根底を見つめる視線の強さにおいて、人の心をとらえて離さぬ力を感じていた。
生前には直接知り合うことのなかった私が、彼の遺言――「自分の本を印税を日本と世界の貧しい子どもたちへ、特にペルーの貧しい子どもたちのために使ってほしい」――を生かす活動に参加できているのも、何かの縁なのだろう。
その意思は、故人が、ペルー日本大使公邸人質事件のさなかになされたマスコミ報道のひとつを読んだことが機縁となって、遺された。
幼いころから働かざるを得ない現代ペルーの子どもたちが相互扶助・連帯の精神で協働している様子を知った永山は、それを欠くことで犯罪への道をたどった自分と比べて、希望の証しだと感じたのだろう。
このふたつの出来事は、私の中で、ひとつの焦点を結んでいる。一九九七年四月二三日、公邸人質事件は、フジモリ大統領の武力行使命令によって、一七人の死者を出して「決着」をみた。
日本では、フジモリを「母国では絶えて久しいサムライ的な決断力を示した」として、賞賛する言論がマスメディア上に溢れた。
平和的解決の可能性を信じていた私は、それを見て、「国家テロ」がこのように無批判に受け入れられる時代がきたのだ、と感じた。
その三ヵ月あまり後の八月一日、そのペルー報道から何かを感受し前記の遺志を明らかにして、永山則夫は処刑された。
死刑を、そのあらゆる様態から見て「国家暴力」だと捉える私からすれば、一九九七年のこれらふたつの出来事は、「国家テロ」がむき出しとなって露出してきた表われとして、同時に、それへの批判精神が乏しい時代状況の象徴として、ひとつの焦点を結ぶのである。
それから十年が経つ。統計的というよりは、感覚的にみて、次のように思える。この十年間、私たちはひたすら「死」に慣れる馴致訓練を受けているのではないか。
人間が生命体として不可避的に迎える自然死のことをいっているのではない。自分を超えた地点で発動される何らかの力によってもたらされる「社会的な死」――したがって、多くの場合「理不尽な死」――のことをいっているのである。
借金苦を抱えた中年男性が多いと言われる自殺者が、年間三万人を超える事態は、もう八年も続いている。家族・縁者・関係者を含めると、少なくとも毎年数百万人の人びとが悲しみや怒りに耐えていることになる。恐るべき数字である。
人を殺める犯罪も絶えることはない。確かにむごい犯罪は目立つが、私が異様に思うのは、犯罪者を過剰に凶悪な人物に仕立て上げ、裁判以前に審判を終えるかのような雰囲気が、メディアとそれに煽られた世論に見られることである。
犯罪の背景にも犯罪者が更生する可能性にも思いを及ぼすことがないままに、「凶悪犯罪者には即刻死刑!」を求め、刑事弁護を職務として行なう弁護士にも非難の声が上がることが常態化した社会は、恐ろしい。
第三者の報復感情に依拠したその声は、「国家が代行する殺人=死刑」だけは、これを容易に承認し、待ち望むのである。
戦場=アフガニスタンやイラクでは、たくさんの「死」が生まれている。
とりわけ、イラクにおいては、日本の航空自衛隊はこの一年で、軍事作戦に従事する米兵を一万人空輸している。
「人道復興支援」の名目で行なわれている米兵輸送業務が、イラク人の「死」と無関係だとは、当然にも、思えない。
だが、任務内容は聞かないという「戦場の常識」に基づいて、政府も自衛隊も任務の説明を拒否する。伝えられることのない、たくさんの「他国の死」に、日本の国軍=自衛隊はすでに加担しているだろう。
顕在化している「自国の死」と、死者が日本人ではないために見えざる「他国の死」に囲まれて、現在の私たちの日常はある。
介在しているのは、いつも、国家である。個人には許されない殺人行為を、戦争や死刑や、時には経済政策の名の下に行なう「権限」を与えられている国家である。
「国家による死への馴致訓練」が強化された十年間だった、と私が言うのは、それを指している。
国家に独占的に委ねられている「暴力」の行使権限を批判し、同時に、それに対峙する「民衆の対抗暴力」についても内在的な批判的検討を加えること――私が新著『暴力批判論』(太田出版、二〇〇七年)で目指したのは、そのことであり、導きの糸の一書は、常に変わることなく、ハンナ・アーレントの『暴力について』(みすず書房、初版・一九七一年、新版・二〇〇〇年)である。「たしかにマルクスは歴史における暴力の役割に気がついていたが、しかしこの役割はかれにとっては第二義的なものであった。
古い社会の終焉をもたらすのは暴力ではなくて、その社会に内在するもろもろの矛盾なのだ。
新しい社会が姿をあらわすに先立って暴動が起こるとしても、暴動が新しい社会の登場の原因ではない」と原則的にアーレントは語る 。
一九六〇年代に青春期を迎えた私たちの世代は、ファノン、ゲバラ、毛沢東らの理論と実践から、被抑圧者が行使する暴力を基本的に肯定する方法を学んだ。
彼らの議論がすべて間違いだったわけではないが、こと暴力論をめぐっては、暴力が生まれる根拠そのものを批判し尽すために、アーレントが立つ場所へこそ、私たちは何度でも立ち戻っていかなければならないと思える。
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