現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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サッダーム・フセインの処刑という迷宮          
『インパクション』第156号(2007年2月、インパクト出版会)掲載
太田昌国



                    一


 サッダーム・フセインが死刑に処せられたころ、私はとある遠い国の地方都市を旅していた。一二月二七日に報じられた死刑確定のニュースは新聞で読んでいたが、その後訪れた地方都市では新聞を買いそこなうこともあり、死刑執行から二日後の二〇〇七年一月一日になってようやく事実を知った。

新聞には、絞首刑の執行直前、黒い布を首の周りにまかれるときのフセインの顔写真が出ていたが、その表情の穏やかさを見て、意外に感じた。

とりわけ目線に関して。刑吏が浴びせたという罵りの言葉も、それに応じたフセインの言葉も、後になって知ったが、それとの対比でいえば、フセインの表情の静けさが印象に残り、それは一ヵ月後のいまも脳裏から消えることはない。あえて言えば、ある種の人間味を感じる表情であった。

人間味といっても多義的だが、言葉が通じそうだという思いがした、といってもいい。彼に対してこんな思いを抱いたのは、二度目のことだった。

テレビ・ニュースは、帰国後も観る機会はなかったから、私が新聞記事と写真だけで得ている情報に基づいた印象には、とても限りがあるかもしれない。

事実、処刑に立ち会ったイラク政府担当官は「彼はすっかり弱っていた。おびえが顔に出ていた。奇妙なまでに従順だった」と語ったという(『毎日新聞』カイロ発高橋宗男記者、二〇〇六年一二月三一日付け)。これは、向こう側から見た解釈のひとつなのだろう。


  格別の親愛の情をフセインに対して持っているわけではない。同情心もない。私が、フセインのことを身近に感じた――といっては語弊があるが、彼についての私なりの評価を行なわなければならないと考えた――のは、一九九〇年八月のことであった。

イラク軍のクウェート侵攻からペルシャ湾岸戦争へと展開する状況を見据えながら、である。中東地域への軍事展開を図る米国の意図はもちろん批判しつつも、そのきっかけをなしたイラク軍のクウェート侵攻は、米国・ソ連の覇権主義を真似た小覇権主義でしかなく、それをひとしく批判しなければならないと考えたのだ。

当時、フセインが掲げる「パレスチナ解放」のスローガンと「反米・反イスラエル」のポーズに幻惑されて、クウェート侵攻を命じた彼に歓呼の声をおくる一部の寄る辺なきパレスチナ民衆がいた。

世界と日本の民衆運動内部にも、米国批判のみを行ない、沈黙のうちにフセインを免罪する論理がはびこっていた。これではだめだ、フセインがこれまで採用してきた内政と外交の方針を徹底的に批判することからすべてを始めなければならない――私はそう考えていた。

その批判を行なう根拠になり得る情報の質量は、当時からすでに備わっていたと言える。


 他方で、私はこの人物の「役者ぶり」には、感心するところがないではなかった。クウェート侵攻に関わって各国がイラクへの経済制裁を行なうや、フセインはテレビ・メディアをいっそう積極的に使い始めた。「栄光あるイラクの女性たちに告ぐ」と題して耐乏生活を勧める。

「奇跡の人」フセインを宣伝するコマーシャル・ソングを繰り返し流す。人質に取っている外国人のもとを訪ね、「このような不愉快な状況が、時として世界のよい関係を生むためのものとなるのです」と語りかける様子を世界に放映する。

イラク国民に訴える米国大統領ブッシュの演説すら国営テレビで放映し、それに自ら批判的な注釈を加える――緩急自在にこのようなパフォーマンスを行ないうる人物を、単なる「独裁者」と決めつけて交渉の道を塞ぐのは決定的な過ちだと考えたのだ。

フセインの肖像画と写真という「映像」が至るところに四六時中溢れていて、人びとに対するシンボル操作の作用を、つまり、「国民統合」の役割を果しているという分析は従来から常になされてきたが、ここでは明らかに「言葉」という武器も付け加わっていた。

したがって、米国政府の強硬な軍事路線もまた、私から見て決して許されるものではなかった。私はこのとき、「独裁者」サッダーム・フセインが、「言葉」を通しての対話が可能な人間だと、はじめて思ったのだった。


                    二


 独裁者=サッダーム・フセインの犯罪は、処刑直後の各紙が行なったように、いくつも数え上げることができる。


 サッダーム・フセインがイラク大統領の座に上り詰めたのは一九七九年のことだった。私にとっては、イラン・イスラーム革命およびニカラグア・サンディニスタ革命が起こったと同じ年の出来事であったから、記憶に残っている。

ましてや、翌年の一九八〇年には、フセインの主導性の下でイラン・イラク戦争が始まり、それが八八年まで続くことになるから、一九七〇年代後半から八〇年代後半にかけてのおよそ一〇年間に、フセイン体制の本質を理解しうる情報と知識は、専門家ではない私たちのなかにも蓄積されたといってよいだろう。

もっとも注目すべきことは、支配政党=バアス党治安部門を掌握した後に副大統領を一〇年ちかく歴任している間に、反体制派を徹底的に弾圧したこと、とりわけイスラーム諸勢力をその主要な標的としたこと――であった。

対イラン戦争を開始したのも、イラン・イスラーム革命の輸出を警戒したためであったことを思い起こすなら、一九九〇年イラク軍のクウェート侵攻以降のサッダーム・フセインがイスラームへの傾倒ぶりを強調するに至ったのは、抗米姿勢を示すための身振りにすぎなかったと言える。


 湾岸戦争以降、フセイン体制の実態を知る手段は多様化する。それらに網羅的に接しているわけではない私が、かなり本質的なものを掴みえたな、と思ったのは、以下の三冊の書物からである。


 中川喜与志『クルド人とクルディスタン――拒絶される民族』(南方新社、二〇〇一年)からは、クルド民族に対するフセインの歴史的犯罪をつぶさに知った。

最悪のものは、一九八八年三月、北イラクで起こったハラブジャ事件だろう。

イラン・イラク戦争の末期、フセイン政府軍は、この町に住むクルド人住民がイラン軍を支援したことへの報復に化学兵器を用いて攻撃し、およそ五千人の死者と一万人の負傷者を出した。クルド人たちが「クルディスタンの広島、長崎」と呼んでいるというこの事件がもつ意味を著者は詳しく検討する。

フセインらから見て異教徒であり背信者であると規定したクルド人に対する「平定」作戦の全貌が浮かび上がる。それは、たとえば、一九八三年に行なわれたフセイン自身の演説の、次のような箇所とも好対照をなす。

「よく〔私の〕写真のキャプションに『サッダーム・フセイン、民族解放の英雄』と書かれることがあるが、私はこれに不満である。

というのも、こうした状況下で〔アラブ・〕ナショナリストという言葉を使うことは、非アラブのイラク人が疎外されたと感じかねないからである。????イラクのクルド人は『民族解放の英雄』という言葉を見て、この『民族〔ネイション〕』とはイラク・ナショナリズムではなくアラブ・ナショナリズムだと思ってしまうだろう」。


 罪をかかえるのは、フセインに留まるわけではない。フセインに化学兵器を提供し、それを用いての度重なるクルド人「平定」作戦を黙認する欧米諸国とアラブ諸国の加担の規模も、底知れぬものがある。


 この問題は、二冊目の著書、アラン・フリードマン『だれがサダムを育てたか――アメリカ兵器密売の10年』(浅井信雄監修、笹野洋子訳、NHK出版、一九九四年)で余すところなく描かれている。

詳細は同書に譲るが、「独裁者」サッダーム・フセイン体制が確立するに当たって、米国をはじめとする欧米諸国の責任が大きいことは、湾岸戦争およびイラク戦争の過程で、誰もが断片的には見聞きしているところだ。

カーター政権時代は大統領府研修生として、その後はジャーナリストとして働くなかで、水面下の秘密工作を含めて米国政府の外交政策の本質を弁えている著者が、膨大な事実を積み重ねて書き上げた本書は、イラクの内的論理だけで「独裁者」が成り立ったわけではないことを証明している。大国が駆使する国際政治上の権謀術数の倫理が問われているのである。


 フセイン政権によるイラク支配の問題を客観的に描いて、冷静な思考へと誘うのが、酒井啓子『フセイン・イラク政権の構造』(岩波書店、二〇〇三年)であった。

クルド人の感情に対する一定の「配慮」を示した、先に引いたフセイン演説は同書から引用したものだが、「独裁者」フセイン個人の責任に帰せられることの多いイラク分析の通常の枠を超えて、政治的エリート集団全体、支配政党としてのバアス党、アラブ・ナショナリズムなどを背景に描かれると、従来とは異なるイラク・イメージとフセイン・イメージが浮上してくる。

著者によれば、国外に亡命しているイラク人のなかには、フセインを非難するに際して「彼は路上の子どもだから」というレトリックを使う場合があるという。

出身地ティクリートの貧しさ、取り立てての身分も財産も家柄も教育もない出自――それを嘲るエリートたちの言い方だというのだが、フセインの「成り上がり」振りに胸のすく思いをしたイラク人たちがいたという記述からは、あの鉄壁の支配構造の秘密を見る思いがするのである。


 同書にはまた、次のような叙述も見られた。「フセインは『公正な専制君主』としてのイメージを民衆心理の中に植え付けるために、時に『小作人のように』南部農村を訪れ、信仰深いシーア派イスラーム教徒のように聖地で祈り、クルド人村落の家を訪れて台所の様子を見るといった行動をと」ったというのである。

それは「イラクの国家としての存在の短さ、その深刻な後進性、またイラクが多くの宗教と宗派を有すること」から「イラクはそのシンボルをソ連以上に必要として」おり、「それゆえにこれらすべてがそれぞれの要素をサッダーム・フセインの中に見出す必要」性に見合った、さりげない行為なのだろう。


 これらは、イラクの社会学者が同国の現実に即して分析したことだが、こういう箇所を読み進めるとき、私はすぐれた作家が想像力をもって描き出したひとつの独裁者像を思い起こさずにはいられなかった。

コロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスは『族長の秋』という作品において、カリブ海沿岸の架空の小国に君臨する大統領像を造形した(日本語訳は、鼓直訳、集英社、一九八三年)。

ある娼婦の「父無し子」として生まれ、若くして軍隊に入り、権謀術数を重ねることで上り詰め、大統領にまでなった人物は、港の要塞の濠に生きたまま囚人を投げ込んで鰐の餌食にしたり、たったひとり信頼していた部下を疑心暗鬼にかられてオーブンで丸焼きにしたり、彼の逆鱗に触れる仕打ちをした教会への見せしめに教会財産を没収して、司祭と尼僧を丸裸で追放するような、まぎれもない暴君である。

他方で、彼は、毎朝牛小屋での乳搾りに立ち合っては、市中の兵士に送られるミルクの量を手ずから計り、コーヒーを啜りながら使用人たちと話しこむのが日課であったり、支配者に成り上がった時分には、どんな辺鄙な村の住民でも一人ひとりを苗字と名前で呼びかけることができるような人物でもあった。下層の民草が口にするしかつめな世辞を大いに喜びながら、その下心も読んだうえで、である。


 独裁者という存在は、強権支配の反対の極では、このような「人間味」を有しているからこそ、強権支配にさらされる側によっても支えられる側面があることを、イラクの現実と作家の想像力は、奇しくも、ひとしく語っている。

私がここから導き出す教訓は、「独裁者」だからといって、金正日の場合も含めて、単色に塗り込める安易な解釈で済ませることはしまい、ということである。


                    三


 フセインが処刑される直前に、もうひとりの独裁者の死に関するニュースが流れた。南米チリの元大統領、アウグスト・ピノチェトである。

先に触れた『だれがサダムを育てたか』には「チリ・コネクション」と題する章があって、軍政下チリの港町イキケで、フセインが発注した殺戮兵器=集束爆弾が製造されていて、それが対イラン戦争で恐るべき威力を発揮していた事実を明かしていて興味深い。

ここでもまた、大国が背後に控える国際政治のからくりが仕組まれていたことは、もちろんである。


 さて、私がここで触れたいのは、独裁者=アウグスト・ピノチェトに関わっての、ひとつの表現について、である。

すでに大統領からも陸軍総司令官の地位からも引退していたピノチェトは、一九九八年、新自由主義政策を共に世界にはびこらせた盟友、マーガレット・サッチャーが待ち受けるイギリスを、病気治療のために訪れた。

ところが、スペイン人の一弁護士が、チリ軍政下で行なわれた複数のスペイン人の死亡と失踪の責任を問うて、スコットランドヤードに請求したピノチェトの拘引状が、こともあろうに執行され、彼はロンドンで逮捕された。

イギリス上院はその逮捕が有効であるとの決定を下し、ピノチェトはロンドンの裁判所に出廷する破目に陥ったのである。

数年後、イギリスを追放されチリに帰国したピノチェトは、元大統領としての免責特権を剥奪されたうえで起訴された。ところが、高齢になっていたピノチェトの健康上の理由から裁判が中断されたままの状態で、彼は二〇〇六年一二月、九一歳で死を迎えたのだった。 


 私が敬愛するチリの作家・評論家に、アリエル・ドルフマンという人物がいる。翻訳されている作品も多いが、最近の日本では『死と乙女』『谷間の女たち』などの戯曲が上演される機会が多くなっている。

ピノチェト政権下で亡命せざるを得なかったドルフマンは、ピノチェトの逮捕に万感の思いを込めて、その後の裁判の模様を傍聴し、これをサスペンス・ドキュメント風の作品として二〇〇二年にまとめた。“Exorcising Terror”と題して、である。

『恐怖を悪魔祓いする』とでも言おうか。日本語訳は、『ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判――もうひとつの9・11を凝視する』(宮下嶺夫訳、現代企画室、二〇〇六年)として刊行された。


 ピノチェト軍政下の「恐怖」が生々しく蘇えるような筆致で、ドルフマンはピノチェト裁判の進行と過去の事実を交差させながら、「独裁」に関わっての事実を掘り起こしてゆく。そのなかに、私が心からの共感を覚える表現がある。


  「これは知ってほしいのだが、将軍よ、わたしは死刑を信じない。私が信じるのは人間の贖いだ。あなたの贖いですら信じるのだ、アウグスト・ピノチェト将軍よ。

だからこそ、わたしはこの二十五年間、このことが起こる〔ピノチェトの逮捕と裁判のこと〕のをかくも欲してきたのだ。

あなたの死の前に少なくとも一度、あなたのその目が、女たちの黒い澄んだ目を見つめてほしかった。彼女たちの息子や夫や父や兄弟をあなたが拉致し行方不明にした。

その女たちの一人、二人、そして全員の目と、あなたの目を合わせてほしかった。〔中略〕悔い改める機会なのだ。あなたのむごたらしい犯罪のすべてをかえりみて、許しを乞う機会なのだ」。


  ドルフマンもまた、幾人かの友人や知人を、軍政の所業によって喪った。それでも、ピノチェトが悔い改めるなら「個人的には、わたしに関する限りは、それで十分だ。それで十分な罰なのだ」。

ドルフマンは、ピノチェトが「この機会を生かして真に自由な人間となる可能性」が少ないことを知ったうえで、こう言っている。だから、付け加えるのだ。「そんな見込みはありそうもない。とはいえ、まだ遅すぎはしないのだ、将軍」と。 


                    四


  与えられた機会を生かすこともなく、ピノチェトは死んだ。死後三週間を経て、一二月二三日に公表されたピノチェトの遺言書を読むと、おそらくロンドンでの逮捕とその後付された裁判のことを指しているのであろう、「考えもしなかった砂漠と孤独が、私の行く先だ」との述懐はあるが、自らが指揮した一九七三年の軍事クーデタとその後の政策に関しては、これを正当化する言葉に終始している以上(“El Mercurio”, Santiago de Chile, 24 de diciembre de 2006)、「悔い改める」機会を彼は最後まで手にしなかったのだろう。


  私が、フセインの最後の表情に「人間味」を感じているとしても、事情は彼においても同じだったであろう。

クルド人虐殺も、次々と行なった政敵の粛清も、イスラーム主義の恣意的な排斥と尊重も、対イラン戦争も、縁故主義による権力構造固めも、クウェートへの軍事侵攻も――およそ、「独裁」にまつわるいっさいの事業をかえりみることもなく、すなわち、おびただしい犠牲者の目とも、その遺族・友人の目とも、自らの目を合わせる機会も得ないままに、フセインは最期の時を迎えたのだろう。


  だが、ふたりの独裁者の死の背後にある事情は、大きく異なっている。チリでは、現段階ではまだ不十分ではあっても、軍事独裁政権時代の真実を明らかにし、一方が謝罪し、他方が赦し、両者の和解へと至る長い歩みが、少なくとも端緒には就いている。

それは、同じラテンアメリカ地域で見るなら、グアテマラで、ペルーで、ボリビアで、アルゼンチンで、ウルグアイで進行している「真実・和解」の動きと連なっている。

範例はほかにもある。やはり長い間軍事政権下にあった隣国・韓国を見ればよい。

遠い国、つい二〇年足らず前までは厳格な人種隔離体制(アパルトヘイト)が人びとを押さえつけていた南アフリカ共和国を見ればよい。

方法は、それぞれ異なるが、これらの国々では、過去の恐ろしい真実を明らかにすることなく和解は不可能なことを知っている人びとが、そのための粘り強い努力を続けている。

その過程は、多くの場合、「真実・和解」と名づけられていることが重要だと思える。

一方は恐ろしさに耐え、他方は自己省察と贖いの道をたどって「真実」に到達するなら、「和解」が可能であるという確信を、もっとも困難な経験を耐え忍んだ人びとが表していることになるからである。

[ここでは、当然にも、次の事実を付け加えておくべきだろう。韓国の場合にあっては、その努力は、一九六〇年代初頭以降の軍事政権期や、ベトナム戦争への加担問題に限って行なわれているのではない。

「日帝強占期あるいはその直前に行われた抗日独立運動、日帝強占期以降」も含まれている――という事実に関して、である。北朝鮮と日本の「真実・和解」の基礎条件も、このような時間的射程の中にしか存しない。

日本政府、拉致被害者家族会、救う会などがこの問題を捉えている時間的射程の、自己本位的な狭さが指摘されなければならないだろう]。


  他方、イラクでは、いまだに「真実・和解」へ向かう道が切り開かれてはいない。その責任の大きな部分を、二〇数年間にわたってイラクの絶対的な指導者として君臨してきたサッダーム・フセインは背負っている。

その罪は大きい。そのことは、誰もが知っている。しかし、誰もが知っているわけではない責任者も、言葉を換えるなら、少数だが知る者もいるだけにそれを隠そうとする力によって、世界の大半の目からは潜行しているにすぎない責任者も、確かにいる。

過去のこと、すなわちイラン・イラク戦争終了時までの時期に関してなら、自国の利害を賭けて独裁者=サッダーム・フセインを育てた大国が存在したことは、先に触れたアラン・フリードマンの著書が完膚なきまでに暴露している。

それは、もちろん、米国だ。だが、削除部分もある日本語版でも四六判・五百頁を超えるこの大部の本を、いったい幾千人の米国人が読んだというのだろう? 

手っ取り早くアクセスできるテレビ報道の水準とそれを受け取る視聴者の読み解きの力が変わらない限り、問題の本質に行き着かないままに「世論」が形成されてしまうという現実は、世界中で続くのだ。


  したがって、イラクに関わる「米国問題」は、変わることなく、私たちの前にある。湾岸戦争以降の時期、とりわけ二〇〇三年に開始された米軍主体のイラク攻撃以降、この地が悲劇的な殺戮の地と化していることの責任に関わる問題である。

もちろん、いまや世界中の多くの人びとが気づいているように、その責任もまた米国のほかにはあり得ない。

フセインの独裁に代えて「自由と民主主義をもたらす」と豪語したブッシュの軍事作戦が、どれほどのイラク人の死傷をもたらしたか、そして状況を「真実・和解」よりはるか以前の「憎悪・敵対」の段階に留め置いているかが、一目瞭然に分かるからである。


  死刑執行前のフセインが、米軍占領下で設置されたイラク高等法廷(旧特別法廷)での有罪が確定していたのは、ただ一件、ドジャイル事件であったことを想起しよう。ドジャイル事件とは、一九八二年六月、バクダード北方のドジャイルでシーア派住民一四八人が殺害された事件である。

どのマスメディア報道を見ても、米国が関与していない唯一の事件だと解説されている事件である。審理中であった事件は、一九八八年のアンファール作戦一件だったが、これは同年二月から九月にかけて実行されたクルド人「平定」作戦の総称だ。

アンファールとは、イスラーム経典「クルアーン」(コーラン)のメディナの啓示の中にあって「戦利品」を意味する言葉であるという。

多数の人びとが殺害されたと言われるこの事件総体の審理が続いたならば(前述のハラジブジャ事件は、この中の一件を構成することになるだろう)、誰にとって不利益な事実が明らかになっただろうか? それは、あまりにも自明なことのように思える。


  各メディアは、フセインの処刑直後、その段階では未起訴ではあったが、時期を見て起訴される可能性があった事件を一〇件前後挙げている。ごくわずかな例外を除けば、その大半は、フセインと米国との結びつきが強固になって以降起きた事件ばかりである。

フセインの身柄は、死刑執行に際しては確かにイラク政府側に引き渡されて、処刑もマリキ政権の主体的な選択によるものであるとの取り繕いがなされたが、米国の利害に即して、「早期執行で口封じ」(「毎日新聞」二〇〇六年一二月三一日付け朝刊)をしたとの分析に、疑いをはさみこむことは難しい。

  「独裁者」による抑圧・弾圧の被害を直接的に蒙った者からすれば、ドルフマンが言うように、当事者に自己省察と贖いの時があってほしいというのが、当然の感情のように思える。

一時期、感情と情念の強さのあまりに、被害者が別な解決方法を望むこともあるかもしれないが、それは小説的なフィクションの主題にはなり得ても、現実の問題解決に資する方法だと確信するには、当時者本人の気持ちの中にあっても難しいことのように思える。


  検証・審理されるべき一〇件以上の案件の起訴もされていない段階で、ただ一件の事案の有罪確定をもってフセインの死刑を執行したこと――それによって、あまりにも多くの物事が迷宮に入れられてしまい、当人の口を通して事態が明かされることは永年に不可能になった。

黙秘権はあるが、あまリに一方的な論証の仕方があれば、当人の反証はあり得ただろう。

それが、次々と法廷で明かされることを嫌った「存在」が、確かにあったのだろう。見る者が見れば、それはあまりにも見え見えなのだが、当の「存在」は、自らの力を傲慢にも過信して、あえてそれをやるのである。


迷宮とは「中に入ると出口が分からなくなるように造った、複雑な建物を指す」(『新明解国語辞典』、三省堂)。そこに紛れ込んだものたちを炙り出す方法を、私たちはさまざまに身につけてきているはずだ。

 
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