現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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◆「希望は戦争」という言葉について2007/4/24

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「死刑を待望する」合唱隊の行方
『派兵チェック』第182号(2007年12月15日発行)掲載
太田昌国


 人権問題を扱う国連総会第3委員会は、去る11月15日、死刑制度を維持している加盟国に死刑執行の一時停止(モラトリアム)を求める決議案を採択した。賛成99、反対52、棄権33であったという。

反対したのは、日本、米国、中国、シンガポール、イラク、イランなどである。

死刑制度廃止を加盟条件に挙げている欧州連合(EU)がイニシアティブをとっての決議であった。

法的拘束力は持たないが、この決議が存置国に求めているのは、「死刑制度廃止を前提として死刑執行を一時停止する」「適用罪を減らし執行を制限する」「事務総長に執行状況や死刑囚の人権保護手続きの報告を行なう」などである。

事実上、死刑を廃止している国は133ヵ国、「先進国」で死刑制度を維持しているのは日本と米国だけであるという現実を背景に、この決議はなされている。

従来この制度を存置していた過去をもつ国々も、国家権力の発動によってひとに死を強いることは非人道的であり、犯罪の抑止効果もないとの判断に基づいて、それぞれ廃止への道を歩んできた。


 だがこの国では、それから3週間が経った12月7日、東京と大阪の拘置所で3人の死刑が執行された。就任以来、死刑制度に関しても出入国管理システムに関しても奇妙かつ拙劣な言動を繰り返している法相・鳩山邦夫の決断によるものである。

死刑に関する鳩山の本音は、法相の「恣意」で死刑執行を行なったり、行なわなかったりする2例が生まれることは好ましくない、できることなら自らの署名による死刑執行は避けたいというところにあるのではないか、と私は考えていた。

そこで、「死刑執行の自動化」という逃げ道をつくろうとしたのではないか、と推察していた。

だがそれは、信念なき願望に過ぎなかったから、法務官僚の強力な圧力の前に屈するほかはなかったのであろう。「心の痛みを感じ」つつも「法に基づいて粛々と実行しなければいけないということで、逃げることのできない責務と思って執行させていただいた」と、鳩山は衆院法務委員会で答弁している。


 「させていただく」というのは、誰が、どんな場合に使おうと、私が不快に思う表現のひとつだ。とりわけ、権力(実権)を持つ政治家が使うと、へりくだったように見せかけるその心根が透けて見えて、卑劣さが感じられる。最後には、「日本の世論は多数が死刑を支持している」という弁解を拠りどころにするのであろう。


 世論は死刑を支持しているという、よく見聞きするありふれた言動に関わって、興味深い資料を最近詳しく検討する機会があった。

1999年、山口県光市で起こった母子殺害事件に関しては、現在、広島高裁で差し戻し控訴審が審理中である。これについては、公判開廷のたびに、テレビのほぼすべてのワイドショウと一部週刊誌が大々的に取り上げているようだ。

この種のテレビ番組を見る余裕は私には日ごろほとんどないが、その内容のひどさに耐えかねた人びとの努力によって、とりわけ悪質な18番組の内容が一枚のDVDにまとめられた。

それらが、いかに事実関係の間違いや歪曲にあふれているかにとどまらず、著しく客観性を欠き、虚偽を含む不公正な報道であるかということを、放送倫理・番組向上機構(BPO)に申し立てを行なうための添付資料である。

私も、17人の申し立て人のひとりとなったから、一件資料を詳しく検討する機会を得たのである。


 テレビ番組で実際になされているキャスターやコメンテーターなる者たちの言動は、私の想像をはるかに超える、驚くべき水準にあることが、今さらながら分かった。

ここに書き写すことはあまりに空しいが、ひとつだけ挙げよう。昨今のベストセラーを見ても分かるが、およそ「品格」とか「人格」とかに無縁な連中が、それが必要だと他人に説教しがちだ。

森本敏という国益論者が、光市事件の弁護団が弁論している事実を一顧だにせず、「人間として最低レベルの人格しか持ってない」人がずうっと弁護士活動ができる制度がおかしい、と言う。

裁判について語っているのに、事実に即した発言はひとつもない。ともかく、調査なく、論理なく、洞察力なく、想像力なく――ないないづくしの「発言」だけが、そこにはある。

きわめつきは、読売テレビが関西圏のみで放映している「たかじんのそこまで言って委員会」だが、「たかじん」なる芸能人にしても、弁護士の橋下にしても、東京のTVチャンネルにも出ている宮崎哲弥や勝谷誠彦にしても、私はこいつらと同じ時代の同じ空間で、同じ空気を吸っていたくない、と思わせるものだった。

ここ20年近く、「諸君!」「正論」「SAPIO」などの雑誌を読みふけり、反面教師として学ぶところもあるごく一部の言論を除いて、右翼言論の非論理と歴史への無知に驚き、加えてそれに易々と煽動される昨今の「世論」なるものに対して、不信の目を向けるしかなかった私だが、テレビ界に横行しているものは、その程度ですらないようだ。

それでいて、世論煽動の役目は十分に果たすことができるのである。

橋下という弁護士が、光市事件弁護団への懲戒請求を弁護士会に出そうとテレビで呼びかけると、全国各地から懲戒請求が殺到したという事実に、それは反映している。


 私たちは、「犯罪者」が書いた小説や詩歌や手記からさえも、何事か大切なものを読み取ってきたのではなかったか。

痛切な内省や、ときに哀しい居直りに満ちた文言からですら、生きるうえでの何かを得てきたのではなかったか。

そのような心の一片たりともなく、ひとの「死」を国家権力に託して招こうとする「死刑待望」の大合唱は、どこへ行くのか。

米日軍事同盟の強化の下で着々と戦争に向けた準備が進められていくこの社会の趨勢が、無念にも進むならば、それは、戦争における他国の兵士や、抵抗する民衆の死を待望する声に、必ずや繋がっていくだろう。


きょうも、テレビ番組表は、「愚者の天国」のようなプログラムにあふれている。

 
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