現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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知里幸惠との、遅すぎた出会いをめぐって
西成彦・崎山政毅編『異郷の死――知里幸恵、そのまわり』
(人文書院、2007年8月発行)所収
太田昌国


                   一

捨てるに捨てられず、何度かの引越しも経験してきた、ほぼ四〇年前のスクラップ帖や未整理の切り抜きを入れた紙袋が七、八点ある。

一九六〇年代半ばから七〇年代初頭にかけてのものである。切り抜きの多くは『北海道新聞』と『釧路新聞』であり、稀に全国紙が混じっている。


私が生まれ育った北海道・釧路の高校を卒業し、そこを離れたのは一九六二年のことであった。

したがって、切り抜きになっているふたつの地方紙は、当時は私の生まれ故郷に健在であった両親が、私の関心のありかを聞いて、該当する紙面をときどきまとめて送ってくれたもので、私が一〇代後半から二〇代後半にかけての一〇年間ほどのものである。

内容はいずれも、北海道に縁のある文化・文学に関するもの、とりわけアイヌの文化と歴史に関わるものだ。

私は、釧路での小学校、中学校生活を、「考古学愛好少年」として過ごした。海を臨む山野、湖に面した小山、貝塚、アイヌのチャシ(砦)――それらの場所を、飽きもせずに歩き回っては矢尻や化石を掘り出し、博物館では展示物に見入っていた。


 その関心を持続する上でのスクラップ帖なのだが、それをいま見ると、何とも苦い思いがこみ上げてくる。

釧路で過ごした時期の私にとって、アイヌ史と和人史は、何らの明確な境界線もなく、のっぺらぼうに繋がっていた。

「侵略」や「植民地支配」という用語とも、「先住民族」とか「コロン(植民者)」という位置づけとも無縁な地点での好奇心を、考古学的なるものに抱いていたようなのだ。

もちろん、若さゆえに、むしろ幼さゆえに、そのような表現(言い当て)とはそもそも縁のない時期のことであった、との慰め的な物言いは不可能ではないだろう。だが、それにしても――との思いは消えない。


 これらの切り抜きの中に、知里幸惠に関するものは数点ある。『アイヌ神謡集』が札幌の弘南堂書店から小冊子で復刻出版されたことを伝える一九七〇年の記事。

金田一京助家から発見された幸惠の原稿ノートに即して言えば、歌いだしの部分は「あたりに降る降る銀の水、あたりに降る降る金の水」となっており、これは、流布している表現とは異なるのだが、この異同はいったいどこから生じたのかを考察した一九七三年の連載記事――などである(連載記事を書いたのはアイヌ史研究者、藤本英夫である。彼は同時期に、幸惠の評伝『銀のしずく降る降る』を著わし(新潮社、一九七三年)、そこでもこの問題を論じている)。

もちろん、そこでは、幸惠の実弟、知里真志保がその部分の翻訳は「…降れ降れ…」でなければいけないと強硬に主張したという、有名な逸話にも触れられている。

だが、私は、この段階では『アイヌ神謡集』に出会ってはいない。地域限定の出版物ゆえ入手が困難ではあったろうが、それにしても――との思いが生まれるひとつの理由である。


 私の子ども時代に、アイヌの人びととの出会いの機会は何度かあった。小学校低学年のときから、町の小高い地点にある松浦武四郎の銅像は見慣れており、「江戸幕末期の大旅行家としてのその偉業」は学校の授業でも聞かされて育った。

後年になって、松浦が、実は、自らが見聞した和人によるアイヌへの虐待を厳しく批判する日誌を大量に残していた人だと知って、子どものときに抱いていた、単なる旅行者としてのイメージとの、あまりに大きな落差に驚いた。

低学年のとき、釧路市にあった学芸大学から教生先生として私のクラスの担当となり、私が子ども心に慕った男性は、金成(ルビ:かんなり)という苗字だった。風貌からはわからなかったが、金成姓は、幸惠の伯母、ユーカラ伝承者として高名な金成マツにどこかで繋がっていたのだろうか。

長じてから抱いた疑問は、まだ抱え込んだままだ。小学校六年のとき、新しい小学校の設立で学区の変更があり、そこの五〇人学級には(容貌からみて)数人のアイヌの子どもが在籍していた。

大人になってからあらためて知り合ってみると、自意識の問題としてアイヌであると自らを考えていた人はもっと多かったことを知った。

差別の問題は、私が記憶している限り顕在化していなかったが、こればかりは、もう一方の当事者に聞かなければ、本当のところはわからない。


 父は、私が物心ついたころから、地方議会の議員をしていた。北海道が革新王国と言われていた時代である。

自宅には取材で新聞記者の出入りが多かった。なかに、高橋真という名の、見るからにアイヌの記者がいた。私を可愛がってくれた。

この人物が、日本の敗戦直後から四八年まで、アイヌ民族独立自治を掲げて『アイヌ新聞』を創刊したが、やがて「アイヌの覚醒は未だし」と絶望感を吐露して、他の仕事に転身した人物であったことは、新谷行の『アイヌ民族抵抗史』(三一書房、一九七二年)ではじめて知った。

子どもの私は、高橋真が傷ついた心を秘めながら『北海タイムス』の新聞記者をしていた時期に、遊び相手をしてもらっていたのだと思う。


 このように、「気づき」はいつも遅れてやってくる。今回も、『アイヌ神謡集』以外にも知里幸惠に関わる文献を読み返しながら、幸惠と私の父母との同時代性をはじめて思った。

幸惠は一九〇三年、登別に生まれた。私の父は一九〇四年、宮城県に生まれた。母は一九〇八年、北海道の初山別町に生まれた。農家の十一人兄弟姉妹の四男であった父は、宮城県の旧制中学を卒業後、代用教員として、単身釧路に赴任した。幸惠が金田一京助に呼び寄せられた東京で心臓麻痺で亡くなったのは一九二二年だったが、父の釧路赴任はそれと同じ年のことだった。

母の、富山県出身の父親は、教育の運営状況を監督管理する官職である視学として、蝦夷地ならぬ北海道に赴任していた。

新教育制度の下で、アイヌの「同化」のためにも重要な役割を担ったのでもあろうか。

先住民族と植民者の末裔との、「無関係の関係性」を明らかにすること、それが、今を生きる私たちの課題であるとする思いは、こんな年表風のものを綴りながら、生まれてくる。

金田一京助が『アイヌ神謡集』初版(郷土研究社、一九二三年)に寄せた跋文「知里幸惠さんのこと」には、次の一節がある。

「(幸惠の)お父さんの知里高吉さんは発明な進歩的な人だったので、早く時勢を洞察し、率先して旧習を改め、鋭意新文明の吸収に力められましたから、幸惠さんは幼い時から、そう云う空気の中に育ちました」。


 幸惠と父母たちの同時代性を思って以降、金田一の、この「率先して旧習を改め、鋭意新文明の吸収に力められました」などの、何気なくなしたであろう表現が、いつも思い起こされる。一九六〇年、フランツ・ファノンがアルジェリアの現実に即して分析した考察に拠れば、被植民者(原住民)と植民者(コロン)の間には非和解的な関係がある。

それを自覚的に乗り越えてはじめて成立しうる新しい関係のあり方がある。それは、近代日本が近隣の諸民族・地域ともってきた関係を顧みるとき、私から見て納得のいく分析である。

近代国家=日本は、「明治維新」の翌年、一八六九年に、蝦夷地改め北海道としての囲い込みを行なったが、これこそが日本初の植民地の「獲得」であったと、私は今でこそ考えている。

そのときから八〇〜九〇年後には、先住民族と植民者の末裔との関係を、ここまで見えなくさせていた日本的植民地支配の「徹底性」とは何なのか。それを考えることもまた、私たちにとっての現在と未来の課題であると思える。


                    二

知里幸惠編『アイヌ神謡集』は、一九七八年八月、岩波文庫に収められた。そのときはじめて、私はこの作品に出会った。赤帯が付いていた。岩波文庫の赤帯とは、それが「外国文学」の範疇に属するものであることを意味している。

すでに「一」で述べたような捉え方に行き着いていた私に、そのこと自体が鮮烈な印象を与えた。知里幸惠が、音をローマ字で書き記し、それに流麗な日本語訳を添えて『アイヌ神謡集』に収めた十三篇の詩篇が、いつの時代からの語り伝えなのかは、わかっていないようだ。

冒頭の「銀のしずく」と「金のしずく」は、幸惠によるローマ字表記では 「Shirokanipe」「konkanipe」となっており、「銀」という訳語は「白金」(shirokane)、「金」という訳語は「黄金」(konkane)という日本語から採られていることは否定しがたいようであるから、和人との接触の過程がどこかの地点で介在し、口承文学に避けがたい変容が現われていることは確かではあるだろう。


 だが、そこに謡われている、人間(アイヌ)と動物・鳥・魚たちとの親和性から考えて、原形が創られたのが、幸惠が「序」で言うごとく、「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。

天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんと幸福な人たちであったでしょう」に該当する時代であったろうことに、疑いはないと思える。

つまり、蝦夷地に松前藩の支配が及ぶ以前、ましてやそこが明治国家の版図に組み込まれる以前に、アイヌの人びとの間で語り継がれていた物語が原形であることは、正当に推定できると言える。

その後の歴史の展開によって、蝦夷地が事後的に近代日本国家に包摂されることになったからといって、それ以前の時代から伝えられてきた口承文学が「日本文学」の範疇に入れられるべき謂れは、ない。

岩波文庫編集部の解釈では、アイヌ語は日本語との類縁性がないために、言語上の区別で「外国語の文学」に入れざるを得ないというものらしい。どの理由に依拠するにせよ、『アイヌ神謡集』が外国文学に分類されていることから、問題の本質に近づく道は用意されているのだと私には思える。


 何事かをなして夭折した人には、いつも、どこか及びがたいものを感じる。わずか一九歳で亡くなった知里幸惠の場合、私がすぐ理解できる範囲で言えば、神謡の日本語訳の見事さに心底驚く。

アイヌ語との対比は私には不可能だが、日本語の選び抜かれたことばの的確さ、リズム感は、人を酔わせる。この点については、流行の「声に出して読みたい日本語」の推奨者とは異なる立場ながら、できることなら声に出して『神謡集』を読むと(対象は、「口承の」物語なのだ)多くの人びとが理解できることだと思われるので、私が多くのことばをここで費やすことはしまい。


 先住民族が自称する民族名が、世界的に見ても、「にんげん」とか「その土地」を意味する場合が多いことは、彼(女)らの文化的基盤を物語る重要な要素だと思う。

『アイヌ神謡集』で謡われている物語は、「その土地」に住む「にんげん」が、同じく森、林、野原、海、河など「その土地」に住む生き物たちと、いかに交流し、追われ追いかけ、殺し、祀ったかを明かしていくのだが、語り部は、常に、「にんげん」から感情を移入させられた動物たちである。

この客観的な叙述が、実に巧みに、人間社会の実相を、人間と自然との関わり合いを含めて描き出しているところが、妙味だと思える。このような趣向もまた、世界の先住民族の神話的世界や文化人類学的研究が明かしているように、彼(女)らの社会にあっては、ごく自然な共通点である。

そこには、人間社会の初源的なあり方を指し示す指標のひとつがあると思われ、その点が私には興味深いところである。


 幸惠は、旭川近文や東京にいたとき、数多くの手紙を登別に住む両親宛に書き送っている。前掲、藤本英夫の『銀のしずく降る降る』では、それらの手紙のうち重要なものが引用されているが、手紙文もまた、きわめて流麗な文章であり、ユーカラを聞き取るうえで鍛えた文章力がそのまま生かされていることが窺える。

内容的に言うなら、年齢を思えば、相手に対する気配りが心憎い。印象的な手紙文はいくつもあるが、もっとも心に残るものを、藤本の本から以下に孫引きする

。一九二二年九月四日、両親宛に記したものである。それからわずか二週間後に幸惠は死ぬから、「絶筆とも思われる」と藤本は付記している。


  ――かはいそうに胃(傍点)吉さんが暑さに弱っている所へ毎日々々つめこまれるし、腸(傍点)吉さんも倉に一ぱい物がたまって毒瓦斯(ルビ:ガス)が発生するし、しんぞう(傍点)さんは両方からおされるので夜もひるもくるしがってもがいてゐたのが、やりきれなくて、死物狂ひにあばれ出したものとは見えます――


 自分が苦しむ病の様子を語っているのだが、「苦痛を自分とは別のところにおくことにより、これを読む両親の心をやわらげる効果をもつ」とは、藤本が記すとおりであろう。

この方法も、幸惠は『アイヌ神謡集』に盛り込まれた、客観化の表現から学び取ったのだと思える。

すなわち、ここに収められたユーカラには、人間の弓に射られて気を失った動物(鳥)が死の境界にいるときの様子を、死せるもの自らが客観化して語る表現が頻出する。

逆に言えば、語り部は、人間である自分が放った弓によって傷つき、場合によっては死んだはずの動物(鳥)が、あたかも生きているかのようにふるまう形で物語を展開することによって、「生」と「死」の世界の相互互換性、「生」と「死」の輪廻、自らの行為によって生き物を死に至らしめたことの償い――などの表現を込めたのだと思える。


 対訳文庫本でわずか二百頁にも満たない『アイヌ神謡集』は、こうして、さまざまな方向へ私たちの思考を誘ってくれる稀有な本である。

形式としては、アイヌ(知里幸惠)と和人研究者(金田一京助)の類稀な協働(コラボレーション)が可能にした仕事にも見える。

だが、幸惠の「序」と金田一の跋文を読み比べるだけでも、両者の位置の差異と、そのことについての金田一側の無自覚さは歴然としている。自らの経験に照らしても、この落差が孕む問題性を自覚する私は、この先に待ちうける課題に肉薄したいと思うばかりである。

 
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