フランス文学者が書いた一九六〇年代の回想録である。キーワードは「在日」、つまり在日朝鮮人と日本人の関係はどうであったかを再検討することを通して、当時を振り返ろうとする書である。数多い一九六〇年代論にはない重要な特徴が、そこにある。
プルーストの研究者がなぜ? 予想される疑問に、著者は冒頭で簡潔に答える。一見「私」の意識に閉じこもっているように思える作家=プルーストは、作品の創造を通して自己を乗り越え、他者に開かれてゆく過程を描いた、と。
それは「嫌悪すべき自我」という問題に悩んでいた若き日の著者にとって、ひとつの啓示であった。この方向性は、サルトルを読むことによって、さらに深められてゆく。
だが、他者という哲学的な問題が、著者にあっては、なぜ他民族へと向かったのか? それを解く秘密は、著者が一九五四年から数年間フランスに留学したことにある。
著者が乗ったマルセイユに向かう船には、サイゴン(現ホーチミン市)からフランスの黒人兵が乗り込んでくる。
ディエン・ビエン・フーで敗退したフランス軍の撤退風景である。フランスがアフリカに持つ海外領土から大勢の黒人兵士がヴェトナムに派遣されていたのだ。
さらには、著者がフランスに着いて一ヵ月後には、アルジェリアで、フランスからの独立を要求する武装蜂起が起こる。
この闘いに共感する人びととの交友や、サルトルらフランス知識人の動向を見ながら、著者はフランスと植民地の歴史的関係を見つめるようになり、それが「民族責任」という問題意識につながっていくのである。
一九五〇年代末に帰国した著者は、二人の在日朝鮮人が引き起こした「犯罪」を通して、留学中のフランスで自覚した「民族責任」の問題に向き合うことになる。
ひとつは、二人の女性を殺害したとされる「小松川事件」(一九五八年)の李珍宇、いまひとつは、暴力団員二人を殺害してのち警察官の民族差別発言を糾弾して人質をとって旅館に立て篭もった「寸又峡事件」(六八年)の金嬉老である。
二つの事件の間には、日韓条約の締結(六五年)という出来事も挟まれている。本書の過半は、これら三つの出来事をめぐって、当時の著者がいかに自問自答していたか、それを現在どう捉えているかという記述によって占められている。
人を殺めるという、とり返しのつかない行為を犯した者は、現代にあっては、裁判以前に、まずマスメディアでの徹底した糾弾に晒される。
冷静であるべき第三者としての立場を失い、ひたすら被害者に寄り添う、あるいはそれにのり移ったかのように「演技」する世論が、そこに登場する。私たちは、いま、そんな劇場型裁判社会に生きている。
「一億総被害者化」した現在の風景を見慣れた者には、著者が描き出す一九六〇年代の光景は、異様に思えるかもしれない。
こともあろうに、そこには、在日の「犯罪」を通して、日本社会の戦後責任を思う知識人がいる。
殺人を犯した犯罪者に向かって、「あなたの声は私たちのところに届きました。あなたの行動は民族の責任を衝きました」などと呼びかける一群の知識人がいる。
在日であるという、それだけの理由で、みんなが殺人を犯すとでも言うのか、とまぜっかえす言葉が、いまなら、あふれかえって、右のような立場に立つ者の発言はかき消されてしまうだろう。
個人が犯す犯罪の背景に、その人物が属する民族という契機を挟み込むことは、けっこう危うい。慎重な手続きが必要だ。
著者は、一九六〇年代の日々に、そんな危うい立場を身をもって生きたひとりであった。その意味で、李珍宇をめぐって、「否定の民族主義」とか「悪の選択」という捉え方で、「民族」というテーマを軸に行きつ戻りつする思考の回路が、きわめて示唆的だ。
悲しむべきことに犯されてしまった犯罪を前に、人はどんな条件を照合しながら考えるべきかということに関する具体的な範例になっているからである。
それは、金嬉老事件に関わっての著者の立場についても言えよう。「頼まれもしないのに
お節介にしゃしゃり出た」という苦い思いを抱えながらも、著者は逮捕後の裁判支援にまで関わる。
だが、金嬉老の犯罪に関して日本社会の責任を強調する立場に立つと、それは在日朝鮮人の主体喪失に手を貸す場合もあることに著者は気づく。
一筋縄ではいかない厄介な問題に突き当たりながら、試行錯誤を続ける著者たちの六〇年代体験を、とりわけ現代の若い人たちに知ってもらいたいと思う。
「日韓条約とヴェトナム戦争」に触れた章は短すぎて、若干物足りなさが残った。著者は、日韓条約締結の際に、政府はもとより革新側にも戦後責任の認識が決定的に不足していたと指摘したというが、これを「若輩者の生意気な意見で、顧みると冷や汗」などと今になって書いたのは、なぜだろう?
この問題は四〇年後の今もなお、私たちの前に立ちはだかっている。深めるべき論点が拡散してしまう書き方が惜しまれる。ヴェトナム行きを嫌って韓国軍を脱走し日本に亡命した金東希が、突然のように北朝鮮に送り出された挿話にも、痛ましい思いが残る。
平壌で「熱烈歓迎」を受けたはずの彼についてのニュースは、その後途絶えたことを私たちは知っているからである。
関係者に消息を問われた金日成も「そんな人はいない」と答えているという。拉致被害者の存否についての金正日の答え方にも似通っていて、暗然とする。
本書が描いた六〇年代の「光と闇」は、なお私たちを包み込んでいる。 |