いつもならその発言には笑えて、性格的にも愛すべきキャラクターにも思える映画監督・井筒和幸の物言いが、そのときは、掃いて捨てるほどいるつまらぬコメンテーター並みに堕した。
4月23日、徳光が司会する日本テレビ「ザ・サンデー」における発言である。番組予告欄で見て気になって、携帯ラジオの音声モードで声だけを聞いていた。1999年に山口県光市で起こった母子殺害事件の被告に関わる最高裁審理のことが取り上げられると知ったからである。
事件当時18歳の少年であった被告は、殺人罪に問われ、一、二審で無期懲役とされた。05年11月末、最高裁は口頭弁論の開始を決定した。
通常は書面審理で済まされる上告審において、弁論が開かれるということは、二審判決が破棄されることを意味している。
この場合は、いずれ死刑判決に繋がることになるだろう。その弁論日として指定されていた3月14日の公判を、2週間前に選任されたばかりの弁護士2人が欠席したことから、メディアにおける弁護士バッシングが始まった。そのバッシングは、延期された公判が4月18日に開かれた後まで続いたのである。
事件それ自体は、実にむごい内容で、関係書類を読むのも辛い。夫および父親としてひとり残された人が、「国が裁かないなら私力救済の仇討ちをする」と公言する心情も、半ばわからないではない。
私は、死刑制度は国家による殺人を合法化していると考えるので、その廃絶を願う者だが、被害者遺族が「極刑以外の刑罰では納得し得ない」と語るとき、それとどう対話できるかという課題が自分には課せられているとは自覚する。
同時に、いかに凶悪な事件であっても、被害者家族や野次馬社会が復讐感情に溺れないように、事件の真の姿を事実に即して明らかにするためになされるべき弁護人の職務というものは厳としてあることを理解する。
社会の一員ではあるが、事件そのものに対しては第三者である者たちには、センセーショナリズムに堕さない冷静さが必要であることも理解する。
つまり、被告人を憎む被害者の立場、凶悪な行為を犯した被告人の利益をすら守るべき弁護人の立場、事件の審理を見守る第三者である圧倒的多数の人びとの立場は、それぞれ異なるということだ。
だが、大方のメディアの報道姿勢は、その区別をつけない。被害者を絶対化する道しか、メディアは選ぼうとしない。
この事件の被害者遺族は、積極的にメディアに登場している。犯行の残虐さを語り、被告の反省のなさに怒り、たとえ犯行時に少年であったとしても死刑が適用されるべきケースであることを主張している。
彼が語る「事実」に接すれば、多くの人びとが涙し、被害者に同情し、加害者の行為のむごたらしさに言葉を失うことになることは、見えやすい道理だ。
あえて言うなら、事件報道が行き着きやすい、もっとも「安易な」パターンである。井筒は、徳光の誘導に乗って、被害者遺族の言葉を聞いてもうひとりのコメンテーターが流した涙の延長上で「弁護人、あんた、間違っとるよ」と言ってしまった。
被害者の感情に全面的に依拠するという、「安易な」テレビ業界の、「安易な」ワイドショーの規範の枠内に、井筒は自らおさまってしまったのである。常識的な規範にこだわることのない言動をみせる場合もある井筒とその映画のために、残念なことである。
私は観ていないが、テレビにはこの水準の言論が大手をふって罷り通ったという。それが、弁護士事務所への嫌がらせや脅迫の電話と化すという風景も、もはや聞き慣れてしまった、「知ったからにはすぐ実行」という単純なパターンの繰り返しで、物悲しいことだ。
活字の世界でも、刑事裁判がどういうものであるかを、論理的・分析的に振り返ろうともしない者たちが、大声を挙げている。佐々淳行「弁護士は『悪人の味方』か?」(『諸君!』5月号)や中嶋博行「“人権派”弁護士こそ『人権の敵』」(『諸君!』6月号)など、である。
例外的な報道が皆無なわけではない。魚住昭の「追跡ルポ――死刑判決をめぐる司法の闇と本村洋さんの無念」(「FRIDAY」5月5日号)と田原拓治「異端の肖像6――弁護士 安田好弘」(東京新聞5月8日)は、本来ならば、すべてのメディアが調査し取材して報道しなければならなかった弁護人側の考え方を簡潔にまとめている。
前者によれば、受任してわずかな期間の間に数千頁の事件記録をデジタルカメラに収録しプリントした弁護人は、被告が自ら犯した罪と真正面から向かい合うことができるようにそれを精読させている。
すると、被告は自白調書と食い違う「事実」を語り始めた。それに基づいて遺体写真や鑑定書を分析した結果、一、二審は事実をないがしろにした地点で成立していたことがわかると弁護人は主張している。
「事実と向かい合うことなくして贖罪も悔悟もあり得ないということ」を被告は理解しだした、という弁護人の言葉には説得力がある。メディアに登場する誰もが、弁護人の態度について「被害者感情を無視している」という物言いを気安く使った。
だが、弁護人が選択した「公判欠席」や「殺意の否認」弁論の背後に、どんな「事実」があるのかを調べることもなく、それを言うのは、ただの怠惰である。被害者遺族とて、被告が真の反省もないままに、ただただ絞首されることを望むわけではないだろう。
弁護人が言うように「死刑求刑の最大の根拠となっている犯行の残虐さ、執拗さは検察が捏造したもの」なのだとすれば、被害者遺族がどの「事実」に基づいて報復感情を語っているのかということすらが、問い直されざるを得ないのである。
弁護士のあり方にまつわる話のついでに、最近印象に残ったひとつのことに触れておきたい。弁護士・土井香苗は日本政府が難民受け入れ政策を採用するよう力を入れている「人権派」のひとりである。
現在ニューヨーク大学ロースクールの修士課程に留学中だというが、インターネット版「自由法曹団通信」1185号(2005年12月)に日記を寄せている。そこには、いかにもニューヨークらしく、人種のるつぼのように各国からの留学生が在籍しているが、日本人弁護士も多い。
「その多くが渉外事務所から派遣された会社法専攻の弁護士さんたちです。彼ら、彼女らばかりが世界ネットワークを築いていくのを横目で見ていて、これでいいのか?!と国際人権を専攻する超マイノリティーの私は悩む」と書かれてある。
グローバリゼーション(全球化)の時代、資本主義をもっとも「進化」させた米国式会社法を学び尽すことに、英明なる日本の会社は力を入れているのであろう。
「小泉改革」なるものの背後には米国の経済的な要求と強要が見え隠れすることに、少なからぬ人が気づいている。会社(ザ・コーポレーション)が世界を支配する仕組みは、米国式会社法に精通した弁護士の養成と世界的ネットワークづくりという形で、日常的に積み重ねられているのだ、とあらためて思ったことだ。
弁護士のあり方を通しても、世界と日本のさまざまな現実が浮かび上がってくるものである。
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