6月から7月にかけて、朝鮮半島との関わりにおいて大きく報道される出来事が相次いでいる。
それらをめぐって日本の政治家たちが行なっている言動と、マスメディアの報道姿勢からは、世界と歴史を全体的に見る観点をひたすらに喪失し、あくまでも「自分」を中心にしてしか物事を感じとることができない、いい年をした大人たちの姿が透けて見えてくる。レーニンがこの世にいたならば、「《右翼》小児病!」の一言を投げつけて済ませたでもあろう。順不同で、いくつかを挙げてみる。
北朝鮮が行なったミサイル発射実験をめぐって、日韓両政府高官の口から、きわめて対照的な言葉が吐かれた。
7月10日のことである。韓国大統領官邸広報主席室文書は言う。今回の事態は「政治的事件に過ぎず、安全保障の面で非常事態につながるものではない」から、「日本のように未明から大騒ぎする必要はない」。
たしかに5日未明、日本ではサッカー中継中のテレビ画面に「北朝鮮、ミサイル連続発射」のテロップが流れ、早朝のニュース番組はミサイル報道一色に染まった。
その画面に深刻そうな顔つきを(無理にでもして)登場した日本国側の政治家たちは、数日経って、次のような発言をするに至った。
防衛庁長官や外相は「国民を守るために必要ならば、独立国家として、一定の枠組みの中で最低限のものを持つ(「敵」の基地攻撃能力のこと)という考えは当然だ」という趣旨のことを語り、また官房長官の口からは「他に手段がないと認められる限りにおいて誘導弾等の基地をたたくことも法律上の問題としては自衛権の範囲内として可能。つねに検討研究を行なうことは必要」という言葉がとび出した。
韓国政府が上のように判断するのには、確たる理由があるようだ。
それは、韓国の過去の軍事政権が「北朝鮮の脅威を使って国民を脅し、野党と市民を弾圧した」ことの記憶を忘れ去ってはいないからである(東京新聞7月10日夕刊)。私はこの捉え方は、きわめて冷静・的確だと思う。
互いに、一見激しい言葉でやり取りをしているかに見える共和国と日米の三国は、実はその喧嘩を、自国の世論操作に巧みに利用している点では、共通の利害を持っている。北朝鮮指導部の軍事的冒険主義が、日米支配層の利益と鋭く対立しているようでいて、彼らは、その「脅威」を理由に、安んじて軍拡路線に励むことができる。
民衆の生活のことなど歯牙にもかけていない金正日は、こんな火遊びを通してわが身の保身を図ることができるなら、それに越したことはないのだ。三国支配層は、お互いがお互いを必要としている、奇妙なトライアングル共存形態を形作っているというのは、私の以前からの持論であった。
上に引いた額賀、麻生、安倍らの言動は、ブッシュ路線に忠実に、日本が先制攻撃をすら率先して担う道にまっすぐに繋がっている。
完全な秘密交渉として貫徹した「米軍再編最終報告」では、憲法9条改定を前提として自衛隊が米軍の指揮下に入り、世界中の紛争地域で戦闘に加わることで政府間合意は成立していると解釈できるが、民衆の意識をそれに慣らすための馴致訓練がこれらの発言を通して始まったのだ。
相手は好都合にも北朝鮮である。拉致、不審船、偽ドル、覚醒剤、独裁――真偽のほどはさておいても、日本民衆の脳髄に深く染み渡った「北朝鮮イメージ」を活用するに如くはない。
「北朝鮮!」といえば、この仮想敵に対抗するどんな施策も罷り通ってしまうのが、この間の日本社会であったのだから。これとたたかうことは容易なことではない。
繰り返し言ってきたように、それは、私たち総体の貧弱な「北朝鮮論」や、そもそも「論」が不在であるという弱点を衝かれることになるからである。
次に取り上げるのは、日本人拉致被害者の夫でもあった韓国人拉致被害者が、北朝鮮で行なった記者会見問題である。これは、政治家というよりもマスメディアの報道姿勢の問題となるだろう。
その人は、まず、南北離散家族の面会事業の機会を利用して、韓国から訪ねた母親と姉と会った。次いで、北朝鮮を訪れた日本人記者団と会見した。
その出会いと記者会見を報道する日本のメディア報道は異様だった。テレビ報道はほとんど見る時間がなかったが、新聞の見出しには次のような語句が踊った。
「日韓分断狙う」「作られた会見の悲しさ」「怒り、煮えたぎる」「金正日劇場」「矛盾だらけの会見」――この一連の動きの背後に、北朝鮮指導部の思惑があることは否定しがたいが、拉致問題をめぐっても韓国と日本の状況は違う。
「圧力より対話を」を選ぶことで、韓国が切り開きつつある道を、少なくとも尊重すべきだ。日本の物差しだけで、この複雑な問題を計測するのは無謀で愚かなことである。
しかも会見した韓国人男性は、今は北朝鮮に生きざるを得ないまぎれもない拉致被害者である。その人物の、制約多い発言の揚げ足を、メディアと被害者家族会があれこれと取ることで、彼(女)らは物事の軽重を測りそこなっている。
「アジア記者クラブ通信」168号によれば、訪韓した横田滋は「韓国には多くの年老いためぐみさんがいるが、会う気はないか」と韓国人記者に問われたという。
もちろん、日本軍「慰安婦」のことである。日本のメディアはこの問答をいっさい報道していない。
なぜか。北朝鮮の報道の不自由さや、韓国報道の軟弱さをいう前に、事態が明らかになって以降のこの4年間に自らこの問いを発するどころか、韓国でなされたこの問答の客観報道すらできない、日本社会における言論の不自由さを見つめることこそ、私たちの課題である。
私は、常々、拉致された娘を思う横田夫妻の発言の中で「慰安婦」という歴史的存在への言及がなされるなら、「拉致」と「植民地支配」という、本来的には切り離して考えられるべきこれらふたつの国家犯罪との対峙を通して、問題の解決が進むと考えている。
平壌宣言の精神に反して、「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」と主張した家族会・救う会の路線に政府が引きづられたことが、平壌会談以降4年間に及ぶ無策の日々を規定した。それは自らを正すことなく、相手の過ちをのみ追及する方法だったから、外交交渉としては成立しようもなかったのだ。
マスメディアに、問題をそのように捉える主体性と客観性があれば、今回の問題をめぐっても、韓国人拉致被害者をひたすらさらし者にするような報道姿勢に堕すことはなかっただろう。
知ってか知らずか、政治家もメディアも、「井の中の蛙」のような視点でしか問題を捉えていない。多数の民族と国家の関係性の中で成り立つ世界にあって、自己本位な日本社会のあり方が、やがてどんなしっぺ返しを食うものか、まだ誰も、知る者はいない。
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