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現代日本ナショナリズムの一面 |
『反天皇制運動DANCE!』(第VI期・反天皇制運動連絡会発行)30号(2006年6月6日発行)掲載 |
太田昌国 |
どうしようもない力で社会全体が押し流されてゆく時代というものはあるようだ。日本における現代ナショナリズムの台頭を見ながら、そう思う。
同時に、ある特定の問題をめぐってのナショナリズムの完璧なる「不在」を見ても、そう思う。短くはない「戦後の」時間幅を生きてきて、ここ数年、そう思い始めるようになった。
諦めて、言っているのではない(つもりだ)。絶望しているのでもない(つもりだ)。ナショナリズムの台頭については、バブル崩壊後の経済的な停滞による先行きに対する漠たる不安を人びとがもっていることを、理由として説明されることが多い。
それは理由をなさないというのではない。だが、私は「敵」がこのように露出しているのは、広い意味での「私たち」の失敗と過ちに付け入っているところが大きいと考えるから、思考は内向する。内向せざるを得ない。
それでも、まだ手遅れではないと、なるべく思いたい――と、口調は、なぜか、いしいひさいち風になるのである。
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一九七七年、一三歳のときに、北朝鮮特務機関員によって新潟市から拉致・連行されたことが判明している女性の母親が、去る四月末米国議会でこの事件の経過について証言した。
この事件に重大な関心を寄せている駐日米国大使や日本の内閣官房からの強力な働きかけがあったのであろう、米国大統領がこの母親と面会した。お忙しいのに、と恐縮する母親に対して、大統領は言ったという。「人間の尊厳と自由について話せないほど忙しくはない」。
この男の指令で、アフガニスタンとイラクで行なわれている一方的な殺戮行為を考えただけでも、「恥知らずめ!」という野次を当然にも投げつけることはできるが、台詞自体は、この男にしてはなかなか上等な出来栄えではある。
この母親は、二〇〇二年九月一七日夜、北朝鮮当局の発表で、娘が実は死亡していることを聞かされたのだった。
彼女は記者会見で、次のような趣旨のことを言った。「歴史の大きな流れの中で、娘はそれなりの役割を果して生きたことを信じてやりたい」。悲痛のどん底から出たであろう言葉として、凄みを感じた。
悲劇的にも、わが身に起きてしまった不幸な出来事について、人間の歴史には否応なく不幸が随伴することを見据えた視点で語りうる人なのだ、と思った。
それは、相手の罪をすぐにも許すという態度を意味しない。歴史的な展望の中で物事を捉えることのできる人、ということである。以後、日本のメディアにおける拉致報道は、基本的に彼女の言動を主軸において、展開されてきた。
彼女の言動は、この四年弱の間に大きく変貌した。それは、二〇〇二年九月段階では、戦後日本の歴代政権にしては、珍しくも自主外交を行ない、北朝鮮との国交正常化交渉に乗り出したものの、日本政府がその後はまったくの無策に終始していることへの苛立ちによるところが大きいだろう。日本政府の逡巡には、ふたつの理由があった。
「属国」意識で他国を見ている米国政府が、抜きん出た自主外交は許さないとばかりに、北朝鮮の核問題を持ち出して、日本政府の単独行を牽制した。
拉致の現実を知った日本の世論の激昂ぶりを恐れて、政府が国交正常化以前に拉致問題の解決を図るという方針に固執することで、交渉全体が行き詰まった――このふたつである。
絶望した彼女は、次第に、言葉の調子を変えた。北朝鮮への経済制裁を要求し、万景峰号の新潟入港に激しく抗議し、「国民みんなが」という言葉を多用するようになった。
行き着いた果てが、米国大統領が北朝鮮に対して掛けるかもしれない圧力に期待を持つことだった。
私には、その虚妄を嗤うことはできない。その道を選んだ彼女自身の責任の問題とは別に、情理を兼ね備えていた、と思える彼女を、そんな場所に追いやった責任が、「私たち」総体には、ある。
「拉致問題」を排外的ナショナリズムの温床としてしまった責任が、「私たち」には、ある。
その責任とは、いくぶん理念的なものである。拉致問題がなければ、多くの日本人は北朝鮮にほとんど関心を寄せなかっただろう。
拉致問題を通して、社会全体が異常なまでの関心をもった北朝鮮は、実は、植民地支配、侵略戦争、社会主義などの重要なテーマが浮かび上がるところでもあった。
それらのテーマは、拉致問題の現実が見えてきた二〇〇二年段階にあって、世界でも日本でも避けて通ることのできない、必須の課題であった――「アジアで唯一、他国を植民地支配した日本近代とは何であったか」「植民地支配・侵略戦争をいかに清算するか」「社会主義はなぜ敗北したのか、再生の道はあるのか」という形で。
私たちは、個々人・集団の非力を超えて、これらの歴史的に重要なテーマから離れることなく、拉致問題と向き合わなければならなかった。だが、そのような集団作業は、きわめて不十分にしか行なわれなかったと思える。
植民地支配と侵略戦争の責任を当然にも問い、どちらかというと社会主義への親近感をもっていると見なされている人びとが、この論争を回避したからである。
そこをめがけて悪煽動が集中すれば、結果は目にみえている。マスメディアの、歴史的な展望を欠いた一方的な報道の悪質さをいうのでは、責任転嫁である。 質を伴った、私たちの発言の総量が決定的に不足していたのだ。
この状況は、次の段階にすでに入っている。ナショナリズムの悪煽動の発信基地を自覚的に担っている文藝春秋の月刊誌『諸君!』は、このところ、「◯◯にああ言われたらこう言い返せ」式の特集をたて続けに企画している。
「永久保存版、歴史講座」なるサブタイトルが付されてある。二〇〇六年二月号では「『歴史の嘘』を見破る!――もし中国にああ言われたら、こう言い返せ」、同四月号では「もし韓国・北朝鮮にああ言われたら、こう言い返せ」、同六月号では「新史料発掘 あの戦争の仕掛け人は誰だったのか!?」、同七月号では「もし朝日新聞にああ言われたら、こう言い返せ」と続いている。最初の特集は、中嶋嶺雄編で文春新書にすでに収められた(同年五月)。
今回は、逐一の反論を行なう紙幅はない。六月号の討論などは、あの田原総一郎にでさえ「日本がコミンテルンや毛沢東たちにいいように操られて、無残な敗北に追い込まれたというのは、私たちの先人をあまりにも侮蔑した『新しい自虐史観』ではないだろうか」と揶揄されているのを見ても(『週刊朝日』六月九日号)、質の程度が知れる。
一九二八年の張作霖爆殺事件は、実はスターリンの指令に基づいてその部下が実行し、日本軍の仕業に見せかけたとか、盧溝橋事件が拡大して日中全面戦争へと展開したのもソ連スパイと毛沢東が仕組んだ罠に日本が引き込まれたためだとか、二・二六事件の背後にもコミンテルンの工作があったとかいう「新説」「珍説」が、臆面もなく披瀝されている。
だが、これらの発言は、ソ連・中国などにおける共産主義神話の解体のためにこの間費やされてきたさまざまな証言に依拠している場合もある。
私たちは、確かに、共産主義革命や第三世界革命ないし独立という事業が、かつてもっていたロマンティシズムや理想主義の響きをほとんど失った時代を生きている。
これらの革命の試みをよくは思わない立場に立つ人びとは、引用すべき否定的評価の言葉に事欠くことは、ない。
最近よく引用されるのは、ユン・チアンが著した『マオ 誰も知らなかった毛沢東』上・下(講談社)だが、従来積み重ねられてきた研究の成果を一顧だにせず、著者が思い描く「欲」の一線上でのみ毛沢東像を刻みこんだこの書は、もちろん、批判的に読まれるべきものだ。
だが、この種の書物を通しても人びとの心の中に形成されてゆく中国像・共産主義像を軽視すべきではない。
先に触れた新書に付された中嶋嶺雄の「開講の言葉」に私は異論を多々もつが、まっとうな中国ナショナリズム批判を展開している箇所までをも無視すべきではない。日本ナショナリズムに対する危機意識だけでは、この難局をたたかいきれないと思うからだ。
「敵」は、日本のナショナリズムが問題だというなら、中国、韓国、北朝鮮のナショナリズムはもっとおかしい、という論を張る。
歴史解釈に関しても、領土抗争に関しても、資源ナショナリズムに関しても、同様である。私たちは、「敵」が設定したそのたたかいの場を離れてしまうわけにはいかない。
ソ連社会主義崩壊や拉致問題噴出のときには、目前で起こっている重大な事態に対する自らの関わり方を自己検証するという作業が、決定的に不足していた。むしろ、それを避け、その場から逃走し、だんまりを決め込むという態度が目立った。
国境を超えて、理想主義が敗北する。その理想を掲げた者たちが、敗北の総括もないままに、黙る、逃げる。
その廃墟に、「ああ言われたら、こう言い返せ」と、醜悪にも居直ったナショナリズムの徒花が咲くことは、見やすい道理だ。それに、夢も希望も持たない人びとが、群れ従っていくことも。
現代的ナショナリズムの噴出の理由は、冒頭でも触れたように、もっと多面的だろうが、ここでは、私が大事だと思うひとつの側面にのみ触れた。
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米軍再編計画問題に関わってのナショナリズムの「不在」についても触れたかったが、紙数が尽きた。次回を待ちたい。 |
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