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〈民衆の大綱暴力〉像の変遷
――ボリビアの映画集団ウカマウの作品群を通して |
オルター・トレード・ジャパン+at編集室編『at』5号〈太田出版、2006年10月〉 |
太田昌国 |
状況の中にすっくと立って、或る時代の政治・社会の只中に生きる民衆の姿を描くということ――それに四〇年有余のあいだ賭けてきた映画集団がある。
私(たち)が自主上映・共同製作という形で、四半世紀に及ぶ協働作業をしてきている相手であるから、以下の叙述で身贔屓の感情がはたらくことのないよう、自戒する。
だが、ここで取り上げるテーマは、状況の中での表現、とりわけ「民衆と共にある映画」を目指してきた彼らの映画作品のなかでは、民衆側の対抗暴力という問題が、どのような文脈で描かれてきたかということがらに関わっている。
時間幅は、二〇世紀後半から二一世紀初頭にかけて、である。周知のように、このかん時代状況は、世界的に見て、激変に激変を重ねている。
それぞれの地域・国にあっても、尋常一様ではない社会的・政治的な変化と科学技術的な革新を経験している。二〇代の若さであった製作主体も、老いの境界にまで年齢を刻んだ。
かつて――二〇世紀初頭から中盤にかけてなら――現実の世界に力強く存在していたかに見えた「変革の思想と実践」が、あえなくも、無残な形で潰えていくのを目撃してしまった時代にあって、よくもわるくもそれに「同伴」してきた映像表現のあり方を通して、過去の「栄光の」時代をふりかえる作業には、必然的に苦さと痛みを伴う。 身贔屓が通用するような問題ではない。
一九六〇年代初頭から製作活動を開始したボリビアの映画集団ウカマウ〔ホルヘ・サンヒネス監督(一九三七〜)〕の一連の作品は、背後にある時代状況をよく反映していて、歴史的なふりかえりを行なうときに、参照するにふさわしい。
きわめてローカルな(一地域的な)問題が、グローバルな(世界規模の)視野を失わずに取り扱われているだけに、その表現には普遍性も顕著である。
その物語が、現実に起こった出来事から採られている場合が多いからといって、描かれていることは、もちろん、現実そのものではない。だが、表現者が、そしてその背景にある一般社会が、或る特定の時代を、どのように捉えていたかをそこから読み取ることはできる。
本稿のテーマは、先に触れたように、民衆側の対抗暴力の問題を考えることにあるから、まず関連する四つの作品をふりかえることから始めたい。『革命』、『コンドルの血』、『人民の勇気』、『第一の敵』の四作品である。
『革命』(一九六二年製作)は、ホルヘ・サンヒネスの最初の作品で、わずか一〇分間の短編である。ボリビア民衆の貧窮の実態がモンタージュを基本に描かれる。
抵抗する民衆の集会とデモ。それに対する容赦ない弾圧・銃殺。哀しみにあふれた視線で物問う子どもたちの面前に、機関銃が浮かび上がる。製作者はシノプシス〔物語の概要〕にこう書き記す。
「こうして、現在を変革し、裸足の子どもたちの未来を保証する手段としての武装闘争の不可避性が示される」と。
この作品が、キューバ革命(一九五九年)からわずか三年後に製作されていることに注目したい。
今から三年後の二〇〇九年には半世紀の歴史を刻み込むことになるキューバ革命の全過程を、いかに批判的に評価するかということは、おのずと別個な課題である。
ここでは、革命成就の時点およびその後米国からの自立と社会主義をめざして、キューバ革命初期の数年間の試行錯誤がもちえた巨大な意義について考察しておきたい。
「アメリカをアメリカ人の手に」と謳ったモンロー宣言(一八二三年)は、ヨーロッパ列強をアメリカ大陸から排除して、米国のみがこの大陸に君臨するという宣言であった。
以降一世紀以上にわたって、ラテンアメリカ諸地域は米国による政治的・経済的な支配下に従属させられた。
独自の、自律的な道を探ろうとする試みは、米国によってことごとく潰された。
したがって、キューバにおいては、武装ゲリラを主軸とした闘争によって米国に庇護された独裁体制を打倒し得たこと、さらには、その後の、米国による政治的・軍事的・経済的な敵対行為に耐えて自立の道を模索し続けていること自体が、他のラテンアメリカ諸国民衆にとっての励まし・範例となったのである。
キューバ革命の勝利は、武器を手にした武装闘争だけによってかち取られたものではないし、その道が「容易」だったわけでもない。
だが、勝利への可能性を映像的に端的に表わそうとする場合、『革命』のようなラストシーンが選ばれることには、観客としても何の不自然さも違和感もない時代状況があった、とふりかえることができる。
世の中では、つい十数年前に勝利したばかりの中国革命をはじめ、キューバ革命、アルジェリア革命などをめぐって、悲痛なエピソードもあるにせよ、同時にロマンあふれる物語にも満ちた現実を、人びとは見聞きしていたからである。
武器や戦争が本質的に好きではない者であっても、「解放闘争」や「革命闘争」という現実に孕まれるロマンティシズムを全面的に否定することなどは到底できないという心情を持ち得た時代とでも言おうか。
人びとが、そのように感じ得たということは、そこで言われている「解放」や「革命」に心を寄せることが可能だったからである。
『コンドルの血』(一九六九年製作)は、先進国(明らかに米国であろう)からアンデスの一寒村に、低開発国援助の名の下に派遣されてきた医療チームが、現地の女性に不妊化手術を行なっていたことをテーマとしている。
ここでも、援助プロジェクトの背景には、キューバ革命の影響を見ることができよう。
米国当局ですらが、キューバ革命勝利の要因として、この地域での適切な社会政策がないままに放置されてきた絶対的貧困を挙げずにはいられず、取繕うように「進歩のための同盟計画」なる低開発国援助計画がケネディ政権下で立案されたからである。
この計画の下でアンデスに派遣された医療チームのなかに、本人の同意を得ないまま、強制的な不妊化手術を施した者たちがいたということなのだ。
産児制限を行なおうとしない第三世界地域においては人口爆発が必至であり、したがって食糧危機も目前に迫っているという「危機」意識に駆られての行為であった。
この身勝手な理屈に基づいた「暴力」に対して、住民(もちろん、当該地域のアンデス先住民である)が示した対抗暴力は、仄めかし表現も含めてふたつの形で描かれる。
ひとつには、不妊化手術の事実を知った村人たちが、医療チームを襲う場面である。
シラを切る医療チームのメンバーに対して村人たちは「お前たちがやったことと同じことをしてやる」と言って、襲いかかる。男たちを去勢するというのである。
場面はこの台詞の後すぐにフェードアウト〔溶暗〕して消えるので、行く末は描かれていない。
ただ台詞としては「やられたら、やりかえせ」の行為が、暗示されているだけである。
いかなる行為にせよ、その主体である条件を常に奪われ続けてきた先住民が、自己の暴力を通じて自己回復を遂げることを示すこの描写は、フランツ・ファノンが『地に呪われたる者』(一九六一年。日本語訳は、鈴木道彦・浦野衣子訳、みすず書房、一九六九年)の「暴力」論で展開した分析・論理と見事なまでに呼応しており、その意味でも忘れがたい印象を残している。
つまり、そこでは、強制的な不妊化手術を受けざるを得ないほどに痛めつけられている先住民(ファノンの翻訳書では「原住民」の訳語が採用されている)が、自らがおかれている非人間的な状況を自覚して、自己のうちに内面化されてきた他者(=植民者)の暴力を反転させ、攻撃性(対抗暴力)へと向かう運動が――すなわち、非植民地化の運動が活写されたシーンだったのである。
いまひとつは、抵抗して重傷を負った村人の弟にあたる人物の描き方に表われる。村を離れ、都会に生きる弟は、インディオである出自を隠して、差別社会にひっそりと暮らそうとしていた。
蜂起し、兵士の発砲で大怪我をして都会の病院に運ばれてきた兄の治療のためにあれこれと動くうちに、弟は、最下層のインディオには冷淡な社会の現実に、身をもって直面することになる。
兄の死後、弟は民族衣装をまとって、いったんは捨てた先住民村へ帰るのだが、彼がアンデスの山なみに向かっていくラストシーンには、いくつもの機関銃が突き立つのである。
『コンドルの血』のこのエンディングは、『革命』と同じく、武装闘争によってこそこの現状は打開されるということを暗示しているのであるが、この表現を支える現実的な背景としては、『革命』に関して述べたと同じ状況があったと言えるだろう。
加えて、社会的に広く浸透したイメージの影響もあろう。当時のキューバに生まれていた、美的センスにあふれたポスター表現には、『コンドルの血』のエンディングと同じようなデザインのものが目立った。
各地のゲリラ根拠地では、ゲリラ兵士が森や山岳部で一斉に機関銃を掲げている写真が撮られ、それが外部社会へと流れ出て、宣伝活動の一環をなしていた。
世の中には、二年前の一九六七年一〇月、ゲリラ兵士として死んだチェ・ゲバラの顔写真もあふれていたのである。
『人民の勇気』(一九七一年製作)は、チェ・ゲバラが指揮したゲリラ部隊が敗北して四年後につくられている。
ゲバラはその『ボリビア日記』の中で、農民の支持が得られないことを繰り返し書き、嘆いている。
他方、鉱山労働者や都市部の学生などの間には、密かにボリビアに潜入したゲバラの指揮下でゲリラ闘争が始まっていることを知って、資金カンパや仲間の派遣によってこの闘争に連帯しようとした動きがあったことを、この映画は幾人もの経験者の証言を再構成することによって明らかにしようとする。
主要に描かれているのは、鉱山労働者や鉱山主婦会などの大衆運動の動きであって、その後景にあった農村部ゲリラ闘争は描かれていない。
リアリティを大事な要素とするセミ・ドキュメンタリー映画においては、必然的な方法だったろう。
試みられながら、弾圧によって未然に防がれてしまった大衆運動とゲリラとの「共闘」に、何らかの可能性はあったのだと伝えようとしている作品ではあるが、その「可能性」がどの程度のものであったかは誰にもわからない。
ボリビアにおけるチェ・ゲバラ部隊の敗北をはじめとして、ラテンアメリカ各地の農村部ゲリラ闘争が次々と敗退していく現実が背中合わせにあった以上、目には見えない「憧れ」としてのゲリラではなく、目の前にある、あるがままの大衆運動の現実を描くことに力点がおかれたことは当然であったと言えよう。
『第一の敵』(一九七四年製作)は、農園主の横暴な行為に我慢できなくなった先住民貧農と、都市部からやってきた学生・知識人から成る反帝国主義ゲリラとの出会いと共同闘争の試みを主題としている。
シナリオには下敷きがある。六〇年代ペルーの農村部でゲリラ闘争を展開した民族解放軍(ELN)の指導者、エクトル・ベハールが逮捕されたのち獄中で著わした総括文書『一九六五年:ペルーにおけるゲリラの経験』である。
作品中のいくつものエピソードがここから採られている。だが、それだけではない。この作品は一九七四年にペルー・アンデスで撮影された。
監督のホルヘ・サンヒネスらは、一九七一年のボリビア軍事クーデタ以後、チリに亡命していた。チリでは、七〇年に世界史上初の選挙による社会主義政権(サルバドール・アジェンデを首班とする)が成立していたから、軍事独裁下のラテンアメリカ諸国から多数の政治家、左派活動家、芸術家たちが亡命していたのである。
ところが、そのチリで一九七三年九月一一日にピノチェト将軍を主導者とする軍事クーデタが起こった。
もっとも手酷い弾圧を受けたのはチリの人びとではあったが、他国からの亡命者にも逮捕命令は出された。
亡命芸術家たちの多くは、文学・美術・映画・演劇など諸ジャンルで意欲的な試行が行なわれていたチリ革命の過程に積極的に参加して表現活動を行なっていたから、クーデタの首謀者たちにも知られる存在だったのである。
祖国におけるチェ・ゲバラの敗北、亡命先のチリ革命の挫折――ホルヘ・サンヒネスにとっては、相次いだ深刻な事態をどう受け止めるかという課題が、この作品では課されていた。
約めて言えば、ゲリラ兵士が突き立てる機関銃に象徴されるエンディングでは立ち行かなくなった時代状況ということである。
『第一の敵』には、アンデスの精神的支柱とも言うべき古老が随所に登場して、次に展開する物語の事と次第を説明する。アンデス先住民が慣れ親しんでいる話術文化である。
古老は、最後に、「抵抗の組織化が欠けていた」と語って、映画に登場する、架空の存在としてのゲリラ兵士をも批判の俎上にのせる。
一個の表現作品として、そこまで踏み込むことが逸脱感を与えているかといえば、私には、そうは思えない。
現実の出来事との間でのギリギリの緊迫感をもって表現しようという切実さを、むしろそこに感じとることができるからである。
こうして一九六〇年代初頭から七〇年代半ばにかけてのウカマウ作品を一望してみると、「映像による帝国主義論」の構築を企図していた彼らは、帝国主義と国内におけるその代理人たちが揮う暴力を描くと同時に、それに抵抗する民衆の対抗暴力をも積極的に描くという地点に、自らをおいていたことが明らかになる。
それは、繰り返し言うように、歴史創造の主体としての位置を、他者の暴力によって奪われてきた人びと(=被植民者と先住民)が、自らの攻撃性にめざめることを通して、自己決定しうる主体として確立していく過程であった。
それは、眼前に展開している反植民地闘争や民族解放闘争として、具体的な裏づけをもっていたのである。
日本社会に生きる私たちの主体の位置が、もちろん、そこからずれた地点にあることは自明のことだが、客観的な目から見ても、「解放」や「革命」に人びとが夢やロマンを託し得た時代だからこそ生まれた状況的な表現であった、と言うことができよう。
さて、一九七四年以降も、ウカマウ集団は着実に映画製作を続け、二〇〇三年までの三〇年間に五本の長篇作品が生み出される。
この三〇年間は、冒頭で述べたように、政治・社会的な意味において、世界的な激動に見舞われた歳月であった。
「解放」と「革命」の夢は大きな岐路に立たされ、それを目標してたたかう主体のあり方こそが問われる日々であった。
ウカマウは、したがって、『地下の民』(一九八九年)や『鳥の歌』(一九九五年)に典型的なように、主体の(前者においては先住民自身の、後者においては「良心派」の白人・メスティーソ〔混血者〕自身の)危機を描くことに力点をおいた。
「敵」は相変わらず強大な存在として外部にいるのだが、それへの「民衆の対抗暴力」などという問題意識の水準では対応できなくなった時代を迎えていたのである。
それは、ソ連崩壊・左翼イデオロギーの没落という状況を前に、私自身が模索し始めていた問題意識と深く重なるところがあった。
対抗暴力の問題をめぐって、ウカマウはどこへ行くのか。それに答えるのが、最新作『最後の庭の息子たち』(二〇〇三年)であろう。
製作者が、理想的な人物として設定している大学教師ロベルトは先住民出身であるが、彼は、白人やメスティーソと対等な立場に立ち、かつそれらと先住民世界の橋渡しの役割も果たせるという存在である。
ウカマウは、ボリビアが抱える深刻な問題のひとつが人種差別であると捉えているが、その観点からすれば、ロベルト的な存在は、これを解決するうえできわめて重要な役割を果たし得るのである。
そのロベルトは大学の講義で次のように言う。「きょうは暴力について学ぼう。民衆は抗議する権利をもつ。要求する権利もある。暴力に拠らずに、だ。
君たちはガンディーを知っているだろう? 暴力を用いずにイギリス帝国を屈服させた人物だ。
(「対話を信じますか?」という一学生の問いに答えて、ロベルトは続ける)。正しい対話をするためには、双方が共に主体的に決定する力をもった対話者であることが必要だ。
もし片方が、その場にいない権力に操られているのであれば、正しい対話というものは成立しない。いいかな。暴力が生まれるのは、そうした場合だ」。
ロベルトは、単純な非暴力主義者として描かれているのではない。暴力が生まれざるを得ない根拠を見きわめているという意味では、現実世界で起きている「9・11」の由来や、対話なき「反テロ戦争」がもたらすにちがいない結果を凝視していると言えるだろう。
それでいてなお、ロベルトたちのたたかいの根拠は「非暴力」志向へと向かっている。
この作品は、ボリビアの情勢に即応して急遽製作されたために、『地下の民』や『鳥の歌』と違って、日本の私たちは製作過程に関わっていない。
だが、私は、自分自身の問題意識に照らして、ウカマウの意図を推測することができる。
二〇世紀の終わりに、私たちは、社会的公正と平等を求めるという「ユートピア主義者」の魅惑的な夢が潰えるのを見た。ユートピア主義者は、私の外部にいたのではない。それは、ウカマウ自身であり私自身であった。
「力弱き者の立場に立ち、体制を批判する」という、当然の立場を選択した人びと(それは、「私たち」の謂いだ)が、「暴力の行使」を通して作り出した恐るべき世界を見てしまったのだ。
暴力の行使が、夢が潰えたことの唯一絶対の理由ではない。
だが、日本だけではない、世界のどこを見ても、それが重大な理由をなすことは、「解放」や「革命」の過程で、そしてそれが成就して後の過程で、軍隊(闘争の過程にあっては、それが、ゲリラ、人民軍、解放軍、革命軍などと呼ばれていようと)が果たした役割を全体として総括したときに、見えてくるのである。
そのようなふりかえり〔内省〕の過程で、ガンディーとの出会いがあったことを『最後の庭の息子たち』は示唆した。
私にとっては、それは、シモーヌ・ヴェイユであり、サパティスタであり、独立を控えた東チモールの来るべき大統領シャナナ・グスマンたちであったことについては、ここ数年来の論考で繰り返し触れてきた。
いずれも、「解放」や「革命」の理想を手離すことなく、革命派が有する軍事機構を廃絶することの意味に関して、萌芽的であるにせよ継承するに値するイメージを提出してきた人びとである。
ウカマウ映画という「フィクション」を通して検討してきた今回のテーマを、世界と日本の現実の中で検証することが次回の課題となるだろう。
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