気がつけば、秋山清さんは私のすぐそばにいた。私が二十歳を少しだけ超えたころの話である。
大学生になって東京へ出てきたのは、一九六〇年安保闘争の二年後だった。いわゆる「戦後革新勢力」の強力な地盤のひとつであった北海道に生まれ育った私は、その雰囲気の影響を十分に受けていたと思う。
高校二年で六〇年安保を迎えた私は、大学生が警備の警官隊ともみ合いながら行なうジグザグ・デモの隊列に友人と跳び込んだり、高校生だけの安保反対デモを行なったりしていた。
共産党シンパの高校教師は、大学生と一緒に動き始めた私たちに、「あの連中はトロツキストだから、一緒に行動しないほうがいい」と教え諭したりした。
左翼になったら共産党になるしかない、と思い込んでいた私が二年後の東京で見たのは、「前衛党神話」の完全なる崩壊状況であった。
いくつもの新左翼潮流が生まれていたが、それらにも、共産党に代わる前衛主義の匂いを嗅ぎ取った私は、強い違和感をいだき、早くから埴谷雄高さんの文章に惹かれていたこともあって、アナキズム理論への関心を深めていた。
同じような「心情的アナキスト」は、大学のあちらこちらにいたから、いつしかそれは名のないグループになって、時に応じて集まり、討論をし、集会を開いたりしていた。
集会とは、たとえば、自分を代表しうる者は自分以外の誰もいないことを主張するために、「代議制」である自治会役員選挙に立候補しつつ、その制度には異議申し立てをして「自分には投票するな」と訴えるというようなものであった。
「反選挙」を掲げたそのような活動は、党派の活動家にはもちろん「一般学生」にも受けはよくなかった。
秋山清さんの本に出会ったのは、そんな日々のころだったろうか。『日本の反逆思想』や『文学の自己批判』を、古本屋で手に入れた。
吉本隆明さんが「文学者の戦争責任」を追及した「転向論」は、当時の私が大きな関心を寄せていたテーマであったが、文学を語って悪しき党派性の影が微塵もない秋山さんの仕事に、意を強くしたのだった。秋山さんが、私にとって精神的な隣人になったのだ。
実際に秋山さんと知り合ったのが、いつのころのことなのか、もはや記憶は定かではない。居合わせた仲間たちの幾人かの顔や、集まった場所としての喫茶店・寺・事務所などのたたずまいも、それなりに思い出すことはできる。
真っ先に薄れて、おぼろになっていくのは、いつだって、「日時」と「時間」をめぐる記憶だ。でも、若い人間が、名のある文筆家と知り合いになるときのあの独特の緊張感とは無縁な、ごく自然な態度で、私は秋山さんのそばにいたように思える。
一九六六年の出会いはいくつも記憶している。その年、知り合いも幾人か参加した「ベトナム反戦直接行動委員会」のメンバーが、東京・田無にあった日特金属工場を襲った。米軍のベトナム侵略に荷担する小銃の生産に抗議しての行動であった。
仲間たちは捕まり、拘置されている警察署への差し入れ、起訴を受けて弁護団を交えての公判対策会議など、救援のための集まりが何度も開かれた。秋山さんの姿が、その場にあった。
秋山さんは、戦争中の詩を、小さな詩集『白い花』として、簡素にまとめた。吉本隆明さんの解説付きのその詩集の売上げを、被告の救援費用としてカンパするという趣旨での刊行だった。
吉本さんが「すぐれた抵抗詩」と高く評価したその詩集をたくさん抱えて、私も大いに売り歩いたことを覚えている。
「コスモス」が主催する講演会も聞きに行ったし、秋山さんとの交流の、もっとも濃密な時間がその頃だったのだろう。
実際に知り合うことになった大人のアナキストたちは、その理論の先鋭さと不釣合いなまでに、柔和で、物腰柔らかく、日常生活的にいっても「常識的な」人が多かったことが驚きだった。
おそらく「アナーキー」「無政府主義」などのレッテルを通して、アナキストに対する無用な先入観を私も与えられていたのだろう。
秋山さんに限らず、この時代の大人のアナキストとの付き合いを通して、私は、あえて言えば、人生の奥深さとでも言うべきものを学んだように思う。
今回この著作集のカタログを見て、秋山さんと、二十数年前に亡くなった私の父とが同年生まれだったと知った。
当時はそんなことを意識する必要もない付き合いができたことが、秋山さんと私の関係にとっても、父と私の関係にとっても、とても大事なことだったと思える。懐かしい人、とふと呟いてみたくなる。
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