現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
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◆拉致とミサイル2006/7/24

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◆「真実和解」へと至る、果てしない道 ―南アフリカ共和国の経験に学ぶ2006/3/19

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「真実和解」へと至る、果てしない道 ――南アフリカ共和国の経験に学ぶ
『派兵チェック』第166号(2006年3月15日発行)掲載
太田昌国


 南アフリカの劇作家ヤエル・ファーバーが自ら脚本を書いて演出もした『モローラ――灰』を観た(横浜・神奈川県立青少年センター、2006年2月17日〜21日)。

通し稽古を 観たのであろう複数紙の担当記者が前触れ記事で紹介し、いずれも高い評価を与えていることに興味をひかれたからだ。

9・11以後、暴力による報復の連鎖を断ち切ることができずにいる世界状況の中にあって、この演劇作品は、南アフリカ共和国におけるアパルトヘイト(人種隔離政策)廃絶後の「真実和解委員会」の活動にヒントを得て、「真実告白、赦し、和解」のプロセスを、ギリシャ悲劇に登場する人物に託して描くものであり、それはきわめて印象深い舞台となっているというのが、複数の記事に共通する説明であった。


 ヤエル・ファーバーは、ギリシャ悲劇のオレスティア3部作を翻案した。エレクトラとオレステスの姉弟(いずれも黒人として設定されている)が、父アガメムノンを殺した母クリテムネストラ(白人として設定されている)とその愛人に復讐する物語を、「人道への罪」とされたアパルトヘイトが廃絶されて後の南アフリカにおける黒人と白人の関係に置き換えて表現したのである。

南アフリカにおいて、アパルトヘイト廃絶という画期的な出来事(1991年)は、その後、世界史上でよくあったようには、流血の革命過程をたどることはなかった。

人種差別に基づく、深刻な人権侵害事件に満ち満ちていた時代を経て、新たな状況を迎えた時にありがちなことは、過去に不利益を被ってきた側が、かつての加害者に「報復」するという事態である。

それが、近代以降の革命を、多くの場合、無惨なまでに血塗られたものとしてきた。人種差別体制崩壊後の南アフリカに現われたのは「国民統合および和解」のための努力である。

1996年に始まった「真実和解委員会」の活動は、その象徴である。おぞましい人権侵害犯罪事件の加害者が、直接的な被害者を前に自らの罪を告白し、もって委員会は加害者を免責するというのがその活動の基本構造をなしている。


 『モローラ』の作劇構造の背景には、南アフリカのこの現実が据えられている。

クリテムネストラは娘のエレクトラを前に、父殺しを告白する。エレクトラはその罪を赦すことはできないと断言し、父殺しの現場を目撃した自分は、それに復讐するために、幼い弟オレステスを、亡き父の出身民族コーサ人の女たちに預けて養育を委ね、長じて復讐の機会を待っていたと語る――という形で物語は展開する。

これ以上詳述する余裕はないが、クリテムネストラが自分の行為の正当性には固執しつつも罪の意識に苛まれていること、姉弟は最後まで復讐の意思を持ち続けていること――が、物語の展開上は重要な軸をなす。


 終幕、オレステスがクリテムネストラの頭上にまさに斧を振り上げようとする瞬間、自分もまた殺人者=母親と同じ立場になることに悩んで、彼は母殺しを断念する。

代わって斧を掴んだエレクトラは、よりいっそう母への復讐心に燃えているが、彼女にはコロスの女たちが寄り添い、歌を歌い、彼女を抱きかかえて慰め、この地の子どもたちが「復讐の連鎖」を断ち切ることを祈る……。


 このエンディングはいかにも唐突にやってきて、私には大いなる不満が残った。

コロスの女たちは、アパルトヘイトが猛威を揮っていたころもっとも大きな被害を強いられていた存在だったと思うが、この作品の中では彼女たちの「のど歌(倍音唱法)」と(同族の男が奏でる)民族楽器が重要な役割を果たしているものの、和解を呼びかけ、復讐の連鎖を断とうとするその強靭な「思想」の根拠には触れられることがない。

劇作家は、現実の真実和解委員会で、息子を殺害されたひとりの母親が語った証言に打たれたという。「私の息子を殺したこの犯罪人が、もう一度まともな人間になって、私も含めて誰もがみんな人間性を取り戻せるというのであれば、私は和解を支持します」。

このいわく言い難い心情を「物語」として組み込むことができないままに、コロスを演じるコーサの女たちの「民族的」表現にもたれかかった点に、この作品の根本的な欠陥があるように思える。

もちろん、9・11以降の世界を覆い尽くす、米国主導の「報復の連鎖」に苛立たしいまでの思いがあるからこその野心的な問題作であるという点は否定しようとは思わないにしても。


 観劇後、真実和解委員会に関する資料をいくつか読んだ。楠瀬佳子「女たちの声をどのように記憶し、記録するか――真実和解委員会と女たちの証言」(宮本+松田編『現代アフリカの社会変動』人文書院、2002年)は、私が感じた問題意識を深く掘り下げてくれた。

「(真実和解委員会では)女性が自らの状況を語るというよりは、夫、父、兄弟や息子などの家族や友人に起こった出来事を語ることが多く、社会全体がジェンダー規範により女性を第二次的存在としてとらえていたことを示している」「家父長制のもとで男性が公的領域の活動、つまり政治活動をし、女性は私的領域である家庭で責任を負い、男性を支え、自らを主張しないという『沈黙の文化』の内在化」「反アパルトヘイト運動を担った男性指導者からも性暴力を受けていた実態が明らかになった」などの表現は、『モロ―ラ』の方法ではついに達することのできない問題の根深さを示している。

NHK国際部記者・山本浩の『真実と和解――ネルソン・マンデラ最後の闘い』(NHK出版、1999年)はフィクションとノンフィクションの境界の不分明な書き方が気に障るが、それでも終章まで読むと、「真実」と「和解」の間に広がる深淵をのぞき見ることになってしまう。

「と」で簡単に結び付けられた「ふたつの世界」の決定的な断絶と、にもかかわらず到達しうる「可能性としての」相互了解の《過程》をこそ描かなければ、せっかくの志向性が生きる場所のないことが、ここでもわかる。


 観劇後まもなく、ある新聞記事が目についた。毎日新聞ヨハネスブルグ支局・白戸圭一記者の「世界一の格差社会で暮らして」(同紙2006年3月10日付朝刊)である。

そこでは、かのビバリーヒルズにひとしい豪邸が立ち並ぶ旧白人住宅街と、「ゴミの平原にしか見えない」廃材小屋だらけの都市郊外の風景が、南アフリカでは並存している現実を伝えて、南アフリカには「弱肉強食」という「地球の縮図」が見られるとしている。


 醜悪な人種差別体制の崩壊直後から「真実和解」という困難な未踏の領域に挑もうとする人間的な高みをもつ人びとが、長年続いたアパルトヘイト体制の後遺症も手伝って、それではどうにもできない制度的な枷の中で喘ぐ姿を、私たちは現認しているのだと言える。

私自身は、とりわけエンディングに不満を感じる点が残った演劇『モローラ』は、それでも、いくつもの派生する思いを生み出してくれた。



付記――なお、この作品の舞台中継が、去る3月12日(日)夜、NHK教育テレビ「芸術劇場」で放映された。

自分が観た舞台を、テレビ中継でも観るというのは初めての経験だったが、ふたつを比較すると、視野の拡散と凝縮の間にある溝や、(生の視線ではできない)カメラ技法としてのクローズアップの特異性が感じられて、どちらが「いい」「わるい」というのではないが、各場面の印象度がけっこう違うことに、新鮮な驚きをおぼえた。

 

 
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