チェ・ゲバラが来日した一九五九年といえば、敗戦後一四年目の年だ。経済企 画庁は一九五六年にすでに「もはや戦後ではない」と豪語していた。
朝鮮戦争特需があったからであろう。それでもなお、貧しさ、つましさなどの戦後的要素が 色濃く残っていたことを、当時北海道に暮らす中学三年生であった私は、はっき りと思い出すことができる。
同時に想い起こすことは、当時活気を帯びていた反戦・平和の運動は、広島と 長崎の悲劇を「切り札」にして、被害者意識に依拠していたことだ。
「米国の物量作戦に負けた」という一面的な意識が、まだ根強かったのだ。
私たちが、あの 戦争はもともとアジア太平洋地域に対する日本の侵略戦争として始まったことを 自覚し、日本の加害者性を明確に意識し始めたのは、それから七、八年後のベト ナム戦争激化の過程においてである。
来日した三一歳のゲバラが、予定になかった広島行きを切望し、それを実現し た経緯は別稿に譲る。
無名戦士の墓参りを拒否し、広島に向かったゲバラのその 選択は、彼が日本の加害性と被害性を明快に理解していたことを示している。
当時の日本社会のあり方と比べた時に、その先見性が際立って見える。
ゲリラ戦士として生き死にした印象が強いゲバラは、軍事至上主義者と見なさ れることが多かった。
だが、彼が残した文章や演説を丁寧に読むと、印象は変わる。「国立銀行の金庫から出て行くお金で一番わびしく思えるのは、破壊兵器を購入するために支払われるお金だ」という言葉も、一九六〇年には残している。
国立銀行総裁時代の言葉だから、実感がある。こういう言葉を語る政治家は、世 界中見渡しても、きわめて少ない。
むしろ、最新武器の開発と実験、その売り込みや購入、絶えざる戦争の準備などに嬉々として勤しむ政治家や軍人や財界人が、 いまなお目立つ。
民意に問うこともない完全なる秘密交渉で、日米両国政府が合 意に至った「米軍再編」協議の過程を見れば、その種の政治家と軍人は、他なら ぬ私たちの足元にもいることがわかるだろう。
原爆資料舘を見たゲバラは、「米国にこんな目にあっておきながら、あなたた ちはなお米国のいいなりになるのか」と、案内の日本人に語りかけたという。
「 米軍再編」とは、自衛隊を米軍の指揮下におき、今後の世界の紛争地で戦闘に参加させる取り決めであり、そのためには憲法9条を改訂させることを目標とするものだ。ゲバラが生きていて、このことを知ったなら、絶句するだろう。
広島に来たゲバラは、そのわずか八年後にボリビアで死んだ。その八年間で、 彼はたくさんの希望と夢を後世の私たちに残した。もちろん、挫折と絶望も。
それよりなお四〇年近くを生き永らえた私たちの社会が、進んで「軍拡の悪循環」 に米国と共に乗り出すことは、人類にとっての悪夢だ。本誌が多面的に明かす「 広島とゲバラ」の繋がりは、そんな状況下にもがく私たちへの限りない励ましだ。
追記:(『がんぼ』は広島で発行されているタウン誌です。この号では「世界初公開! ゲバラが撮った一枚のヒロシマ」という特集を組み、キューバ 革命勝利の年である1959年7月に経済使節団団長として来日したゲバラが 広島を訪問し、「平和記念公園」を訪れた経緯や、そこでゲバラが撮った写 真などを公表しています。
一読・一見の価値あり、です。 南々社の電話番号は、082-261-8243、ファクスは082-261-8647『がんぼ』同号の定価は880円ですが、ほかに送料がかかります。
なお、ゲバラの広島行きの経緯については、同誌でも紹介されていますが、 私が1998年に書いた下記の文章でも、そのことに触れています。
http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/1998/1998kosoku.html
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