現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
2006年の発言

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◆東アジアの緊迫した情勢について2006/12月

◆映画『出草之歌』を観て2006/10月

◆政治家の「文章」と「表現」について2006/10月

◆〈民衆の大綱暴力〉像の変遷――ボリビアの映画集団ウカマウの作品群を通して2006/10月

◆もうひとつの「9・11」とキューバの米軍基地――ラテンアメリカから見る「対テロ戦争」の本質2006/10月

◆ボリビア、515年目の凱旋――抵抗の最前線に立つ先住民2006/8

◆拉致とミサイル『武力で平和は創れない――改憲必要論についての私たちの見解』2006/8/19

◆ゲバラがヒロシマから現代日本に問いかけるもの2006/7/31

◆「どなたかは存じませんが、何のご縁で?」ーー〈米軍再編〉計画の中の日米関係2006/7/24

◆拉致とミサイル2006/7/24

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◆「江戸の水運」と世界水フォーラムの間の、深き溝2006/4/12

◆「真実和解」へと至る、果てしない道 ―南アフリカ共和国の経験に学ぶ2006/3/19

◆ボリビアで先住民族(アイマラ人)出身の大統領が誕生―その意義をめぐる対話2006/3/19

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◆遠くから、サパティスタが問いかける普遍的な課題――蜂起12年目に当たって2006/2/1

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 もうひとつの「9・11」とキューバの米軍基地
――ラテンアメリカから見る「対テロ戦争」の本質            
木戸衛一編『対テロ戦争と現代世界』所収(御茶ノ水書房、2006年10月刊)
太田昌国


 1 もうひとつの「9・11」


 2001年9月11日にニューヨークおよびワシントンで起きた事態(一般的には「テロリズム」と呼ばれている)と、それをきっかけにして5年後の世界を覆い尽くしている戦争状況(この事態の主導者は「反テロ戦争」と呼んでいる)の本質を、ラテンアメリカの現実に即して検討するというのが、私に与えられている課題である。

3つのテーマを介して、この問題を考えてみることにしたいが、その前に、「9・11」が全体として孕む問題性を私なりの方法で捉えておきたい。


私は、「9・11」事態が起きる3日前に、長野市の市民運動団体に招かれて講演を行なっていた。当時の世界と日本のあり方をどのように捉えるか、というのが課題であった。私が結論的に話した内容は、次のような言葉にまとめることができる。


  すなわち――ソ連・東欧の社会主義圏が崩壊し、唯一の超大国となった米国を筆頭とするG7グループが世界規模で推進しているグローバリゼーション(全地球化)という「暴力」的な過程がこのまま進行するならば、それに耐え切れなくなった矛盾を抱え込んだ地域で、必ずや「爆発」が起こるだろう。

グローバリゼーションの過程を「暴力」と呼ぶのは、それが、不平等な出発点を固定化したまま弱肉強食を原理とした経済秩序を世界全体に押しつけるからである。

「原因」を作り出しているグローバリゼーションを不問に付したまま、その「結果」としての暴発や爆発だけを取り上げて、これを取締りの対象とするだけでは、ことは済まない。

悲劇的な装いをもつかもしれないそのような暴発や爆発が起こる前に、世界中の国・政府・そして人びとが、現代世界の社会・経済・政治構造に孕まれている矛盾の本質を掴み、かつその解決のための対策を講じること。

あるいは逆に、その本質を掴み損ない、抜本的な解決策を講じようともしないこと。そのいずれの道をたどることになるかという点に、今後の世界のあり方を規定する、決定的な要素が見られるだろう――というように。


「9・11」事態が起こった直後、「予言が当たりましたね」と言ってきた当日の参加者がいた。しかし私は、いつ、どこで、何が起こるかを明示的に言ったわけではない。

悲劇的な何事かが起こる以前に私たちがとりうる態度を語っただけである。

当時の世界のあり方をふりかえれば、決して少なくはない数の人びとが、ぼんやりとではあれ感じていた思い(具体的に言えば、不安、憂慮、焦り、怖れ、怒りなどの感情と規定できよう)を、私も共有していたというにすぎない。

  さて、事態は「9・11」のような形をとって、現実に起こった。この事態は、どの点から見ても、私の精神を震撼させた。どのようにこれを捉えるべきか。事件直後の段階で私が考えていたことは、次のような論点である(註1)。               


()事件の悲劇性――当初は6000人近いと想定されていた犠牲者(結果的には3000人とされた)とその関係者にとって、民間人殺戮行為以外の何ものでもないこの事件が、許しがたく、悲劇的なものであることは、言うまでもない。

かつてであれば、革命運動や解放運動の主体は、何らかの行動を選択する場合には、必ずその意図を説明しうる言葉をもっていた。

仮に意図に反する結果が生みだされた場合には、その誤りを自ら説明する義務を負っていることを自覚していた。

自死を厭わなかったこの事件の行動者たちにも、もしかしてその背後に潜む者たちにも、そのような考えはないように見えた。したがって、これは従来の社会運動の概念では捉えることのできない性格の「運動」だと思われる。私がそこに感じたのは、底なしのニヒリズムであった。

  だが同時に、大急ぎで付け加えておくべきことは、当の米国にも、「悲劇性」の側面でこの事態を捉える人ばかりがいたわけではないということである。映画『ザ・コーポレーション』(註2)に登場する、米国人である先物取引業の一人は語った。

「あの9・11事件のとき、真っ先に考えたのは、これで金が高騰するぞ、だった。もちろん金はすぐはね上がった。1991年の湾岸戦争のときは石油が高騰したんだ。つぎの戦争が待ち遠しかったね」と。

私は、この先物取引業者と価値観を同じくする者ではないが、事態の悲劇性を、社会・経済的な文脈を抜かしてセンチメンタルにのみ語る者に対しては、次のように言って構わないと思う。

すなわち、この業者は、犠牲者が身近にいない場合の、資本主義社会に生きている者の本音を、きわめて正直に語ったに過ぎないのではないか、と。                            


()場所が米国で起こった背景――上記()前半での考察にもかかわらず、その行為の背後に、政治・経済・軍事・文化浸透などあらゆる人間生活の局面で一人勝ちしている米国に対する、並々ならぬ憎悪の感情があるのではないか、と正当にも推察することができる。

それが、国際的な社会・経済の諸関係の中で生起している事態であると推定できる以上、米国は報復的な「憎しみ」や「妬み」の水準でそれを捉えるのではなく、自らがなぜかくも驚くべき憎しみの対象になっているのかを、冷静に見究めるだけの度量が必要である。


()悲劇を専売特許としない――この項目がもっとも重要なことだと思えた。だが、結果的に言えば、米国は「9・11」の悲劇を独占した。「9・11」はまぎれもなく、人為的に引き起こされた悲劇である。

事件直後の米国の動きを見ていると、米国は自分たちが世界に唯一無二の悲劇の体現者であると振る舞おうとしているように思える。

だが、世界各地に暮らしてきている人びとの観点に立つなら、私たちは数多くの「9・11」を経験し、あるいは目撃してきたのではないか? という問いが、当然にも、生まれてこざるを得ない。


  さて、ここから本稿の主題に入る。ラテンアメリカ現代史に深い関心を抱き続けてきた者からすれば、「9・11」という日付には、拭いがたい既視感がある。

 それは、1973年9月11日のことである。2001年のそれから遡って数えるなら、28年前のことになる。

28年前のこの日、南米チリの首都サンティアゴ・デ・チレにある大統領府モネダ宮は、クーデタを起こしたアウグスト・ピノチェト陸軍総司令官が指揮するチリ国軍三部隊の激しい砲火を浴びた。

およそ3年前に、世界史上はじめて一般選挙を通して成立した社会主義政権(サルバドル・アジェンデを首班とする)を打倒するためのクーデタであった。

モネダ宮の内部には、アジェンデ大統領が篭もっていたのである。クーデタに至る理由が、純粋にチリの国内事情に帰せられるのであれば、これから私が論じようとすることは論理的・歴史的な根拠をもたない。


 だが、選挙を通して大統領に選ばれたアジェンデの政権を打倒するために、米国政府および関連多国籍企業が駆使した戦術を知る者からすれば、28年間の時間と空間とを隔てた「ふたつの9・11」について同時に語ることには、必然性がある。このクーデタを機に国外に亡命したチリの作家・劇作家、アリエル・ドルフマンは、この観点をいち早く提示したひとりである。


「チリのアジェンデ政権に対するクーデタが起きたのが、28年前の同じ日、同じ火曜日だった。軍事政権によって愛する人を失い、行方知れずにされ、数十万人が拷問されたことを知る者は忘れない。しかし、あの日は世界を変えはしなかった。ルワンダで数十万人が殺されても、世界は変わらなかった。

広島での原爆による暴力は世界貿易センターよりもはるかにすさまじかった。今年の9月11日は、最強の国に恐怖を与え、暴力と報復を呼び込むことで世界史を変えたのだ」。

「チリの人々に聞いてほしい。米国はチリに干渉し、ピノチェトのクーデタを助け、選挙で民主的に選ばれたアジェンデ大統領を倒させた。ピノチェトは、合法的にはできないことを暴力でやったテロリストだった。

米国はテロと戦うというが、ニカラグアでテロリストを武装させ、エルサルバドルのテロリスト政府を助けたのも米国だ。強者は忘れるが、敗者は忘れない」(註3)。


 ドルフマンがここで行なっているのは、米国が背後に潜んで行なった1973年の「9・11」の悲劇を持ち出すことによって、米国で起きた2001年の「9・11」の悲劇の軽減を図る、あるいはふたつの悲劇を相殺するという作業では、もちろん、ない。

「悲劇もまた歴史の一部である」ことを理解できるか否か、という問いかけである。先に触れた、事件直後の私の言葉に置き換えるなら、「世界の現状が政治的・経済的・社会的に深い矛盾を抱えたものとして存在している以上、どんな悲劇的な出来事からでも、歴史的な過程と現代社会の存立構造に孕まれる問題を引き出すことが、未来に向かうかぼそい道だ」と表現できるような、自己内省的な態度のことである。


 実際にアジェンデ政権の文化政策顧問として千日間におよぶチリ革命の過程を、身をもって体験したドルフマンが語った上の思いは、痛切なものだったに違いない。

チリ革命の期間中にドルフマンが力を集中したのは、帝国主義の文化浸透に対する批判作業であった。

それは、ディズニー王国を代表するキャラクターであるドナルド・ダックという「無邪気そのもの」とも言えるアヒルの背後に、どんな実像が潜んでいるかを暴露する仕事『ドナルド・ダックを読む』(アルマン・マトゥラールとの共著、山崎カヲル訳、晶文社、1984年)として、チリ革命のさなかの1971年に結実した。

クーデタの後、軍事政権はこの書を禁書とした。米国製のテレビ番組、映画、コミックに占有されていたチリの従属的な文化状況を変革するために、革命の期間を通じてなされたこの種の偶像破壊的な作業は、チリ革命の可能性を際立たせるもののひとつであった。

ドルフマンは、チリ・クーデタの後も子ども向けの多様な表現に見られる文化侵略についての批判作業を続け、それは『子どものメディアを読む』(諸岡敏行訳、晶文社、1992年)として実現した。


  ドルフマンが携わった文化面での攻防ばかりではなく、チリ革命の全体像に目を向けよう。

アジェンデ政権が着手した政策のうち、もっとも大事なものは、所得の再配分政策、資源産業の国有化、農地改革である。

資源産業の国有化の主軸をなしたのは、五大銅山および全施設の国有化案である。

国有化に際しては「正当な補償」を行なうが、米国系銅山会社のチリにおける利潤率が異常に高い例もあったので(なかには、世界平均利潤率が10%であったのに、チリにおいては50%を超える利潤率を得ていた企業すらあった)、銅山企業がチリで得た「超過利潤」を補償額から差し引くという条件を付していた。

多くの場合、超過利潤は補償額を超えていたので、銅山は実質的に無償国有化となったのである。

米国はこの政策に激しく反発して、報復措置を次々と講じた。米国が戦略備蓄していた銅を放出して国際価格を低迷させたり、国際金融機関が信用給与や資金流出を中止して、米国への従属的な体質を持たされていたチリ経済に打撃を与えたり――などの形をとった経済制裁によって、である。


  資源産業ばかりではない。巨大多国籍企業が、自らが経済活動を行っている地域・国において、いままで享受してきた権益を損ねるかもしれない政権が成立したときに、どれほどまでの「妨害工作」を行なうものであるかの具体的な例が、このチリ革命においても見られたのである。それは、ITT(国際電話電信会社)のことである。

ITTが、大統領選挙前にはアジェンデの当選を阻止するためにどんな策謀を張り巡らせ、政権成立後にはこれを打倒するために、CIA(米国中央情報局)などといかなる活動を行なって、チリ経済の混乱を引き起こしたかについては、アンソニー・サンプソンが著した『企業国家ITT――巨大多国籍企業の生態』(田中融二訳、サイマル出版会、1974年)に詳しい。

この本は、米国人の創設者が1920年に不良債権のカタに差し押さえたプエルトリコの小さな電話会社が、当時最新式であった電話という通信手段を生かして、50年後には従業員40万人、活動範囲67カ国(1973年段階)という規模に膨れ上がり、電話通信はもとより、ホテル、住宅、レンタカー、保険金融、人工衛星部品、調理食品自動販売機などの業種まで扱う多国籍コングロマリットに成長した過程を生々しく描き出しており、その点でも興味深いが、ITT国有化をめぐって激しい攻防を展開していた当時のアジェンデ大統領の言葉を記録している。

1972年11月、国連総会で演説したアジェンデは、ITTが「その触手をわが国の深部にさし入れ、われわれの政治的生活を支配しようと企てた。私はITT を、内乱を起こさせようと試みたかどで糾弾する」と語ったのである。


 これを享けて言うなら、ドルフマンが「米国はチリに干渉し」と述べているのは、次のような内容において、であろう。

経済的な膨張主義を臆面もなく展開する大国と多国籍企業は、進出先の地域・国々において、対等・平等な経済・貿易関係を打ち立てるのではなく、一方が他方を支配し従属させる関係を取り結ぶ。

後者の国々において政治的・社会的な変革過程が進行し、従来のように大国や国際金融機関が定める方針を唯々諾々と受け入れるのではなく、経済的自律性の追求と資源ナショナリズムに基づく政策を採用するに至ると、その体制を転覆させるために、ありとあらゆる手段を取る。

かつてのCIA長官が、米国は1970〜73年にかけて、800万ドル以上の資金をチリ反体制派に供与し、社会の「不安定化工作」に充てさせたと証言したことがあったが、長い時間を経てからでもこのように公になるのは、すべての工作活動のほんのわずかな部分でしかない。

それらの工作によってもたらされる社会的不安や政治的な不安定さは、大国による、次の段階での「介入」「干渉」を呼び入れるのである。

貿易、海外投資など近代的で合法的な装いをもって行なわれているかに見える経済活動が、その根底にどれほど暴力的な本質を隠し持っているものであるか、という問題提起なのである。


 1973年「9・11」のチリ軍事クーデタは、まさしくこの過程をたどって実行に移された。軍事政権による徹底的な弾圧によって少なく見積もっても2万人の人びとが犠牲となった。

これに拷問、誘拐、追放などのリストを付け加え、さらにアジェンデ政権下で国有化された銅山企業や農地が元の所有者の手に戻され、かつてない自由競争原理に社会が委ねられたときに、多数の貧困層が「経済システム」によるいかなる「死」に見舞われたかを振り返るなら、「9・11」によって隔てられたふたつの社会を貫く価値観の違いがくっきりと浮かび上がってくる。

「9・11」以後、軍事政権に支配されるチリを、米国政府と多国籍企業が人権抑圧問題に限っては時に眉を顰めるポーズをとりながら、きわめて積極的に支えたことはよく知られている。


 以上、簡潔に述べてきたように、「9・11」は、米国が独占したがっているような2001年のそれに限られるものではない。

しかも、ここまでは日付にこだわって「9・11」という限定の下で語ってきたが、これを「9・11的なる出来事」と捉え直して日付上の限定をなくすなら、世界の近現代史は数多くの「9・11」にあふれていると言っても、過言ではない。

そして、次のことが何よりも重大なことなのだが、いくつもの「9・11」を人為的に引き起こしたのは、他のどの国よりも多く米国なのだ。


 米国が自己の姿をこのような歴史的現実という鏡に映し出して自己検証することができたならば、2001年の「9・11」は、現状とはまったく別な結果を持ちえたかもしれない。

事実、「9・11」犠牲者の遺族のなかからは、「ピ−スフル・トゥモロウズ」のように、「9・11」を口実とした米国の「反テロ戦争」なるものに強硬に抗議し反対する一群の人びとが生まれた。

それは、米国内にも存在しえた正気の声であった。真の悲劇は、その正気の声の持ち主は圧倒的な少数派に留まり、米国は、私たちが現認してきたような「反テロ戦争」を遂行してきていることにある。



 2 「カンダハール発・グアンタナモ行」という航空路


 奢り高ぶるものは、ときに、人の想像力を絶するような所業をすら、敢えて行なう。2002年1月10日、米空軍C17輸送機が「カンダハール発・グアンタナモ行」という航空路を史上初めて飛んだとき、私はそう感じた。

国籍的な意味では、私は、その航空路に関わりのある地域に住む者ではない。しかし、これは、たとえ傍から見ている者にとっても、人間的な意味合いにおいて、屈辱感とか根本的に大切なものが蹂躪されている思いとか、許しがたい感情を引き起こす種類のものだったと言っていいように思う。


  離陸地のカンダハールとは、もちろん、アフガニスタン西部にある都市の名である。2001年後半、米国によるアフガニスタン攻撃が必至の情勢下および実際に攻撃が行なわれているさなかに世界中で公開された、イランの映画監督モフセン・マフバルバフの作品『カンダハール』を鮮明に思い起こす人は多いだろう。

2001年10月7日、米軍を主力とする多国籍軍がアフガニスタン全土に対する一方的な攻撃を始めて以来、主要な軍事行動が行なわれている場所として、この地名は何度となく私たちの耳目に届いた。これが何を「輸送」するための航空路だったのかは、あとで触れよう。


 ところで、着陸地のグアンタナモという地名は、どの程度知られているだろうか? 知る人ぞ知る、とは言えるが、一般的には知らない人のほうが多いだろう。

カリブ海はキューバの東部にある湾および地域一帯の名称である。キューバが、1959年の革命勝利以降、米国と抜き差しならない対立関係にあることを知る人は多いだろうから、こともあろうにカンダハールを出発した米国空軍輸送機が、なぜキューバの或る地点に着陸したのか、訝しく思った人も多かっただろう。


  この輸送機には、アフガニスタンにおける「反テロ戦争」で米軍に「捕捉」されたターリバーン兵やアルカイーダのメンバー20人が乗せられていたのである。

目隠しをされ、手足をロープで縛られたうえ座席にも縛り付けられていた彼らは、立つことも許されず、食事は米兵が口に運んで食べさせたと報道されている。

数日後には第2便が同じ航空路を飛び、さらに30名のアルカイーダ兵が「輸送」された。

「輸送」状況がその後逐一報道されることはなくなったが、3週間後の2002年1月末には158人にまで増えたとの報道が各メディアで続いた。

2006年初頭の段階では、イラク、アフガニスタン、サウジアラビアなどの国籍を有する500人が収容されているとの報道がなされている。


 ここから、ふたつの問題を取り出すことができる。ひとつには、なぜキューバに米軍基地が存在しているのか、という問題である。

ふたつ目の問題は、そこを、この時期に、これ見よがしに、上のような目的で米国政府が使用することに孕まれる問題である。


 あらためて言うが、グアンタナモ基地の存在を思うと(これは、世界中のすべての軍事基地に関わって沸き起こる気持ちだと言うべきであるが)、私たちは、人間として不条理なこの時代の苦悩に襲われる。

その基地が生まれた背景を探ると、米国近・現代史の暗部が浮き彫りにされてくるように私には思える。

発端は19世紀末のことである。ラテンアメリカ諸国の多くが19世紀初頭にスペインからの独立を勝ち得たのに比して、キューバは独立が遅れた。

それでも19世紀末に至って、独立の気運と運動は高揚した。米国によって併合される危機が切迫していたからでもある。

この時期の米国は、南北戦争後の急速な経済発展の結果として余剰農産物や工業製品を輸出するための海外市場を必要としていた。

先住民族であるインディアンに対する殲滅戦争の終結によって国内のフロンティア・ラインは消滅していた。

軍人・学者・宗教家・政治家たちは、アングロ・サクソン民族の優越性を唱え、米国の政治制度の至上性を説き、後進地域の文明化とキリスト教化が自らの使命であると強調していた。

それらの要素が相俟って、海外膨張の機運が高まっていたのである。

半世紀前の19世紀半ばに登場した膨張主義イデオロギーを象徴する言葉は「神によって与えられたこの大陸にわれわれが拡大するという明白なる天命」(ルビ*マニフェスト・デスティニー)というものであったが、その「使命感」が「海外」に向かい始めたのだ。


  スペインからの独立運動が高揚していたフィリピンとキューバは、そのような米国に巧みに「利用」された。

両国の独立軍がスペインとの戦いで勝利を目前にした頃合いを見計らって米国は1898年スペインに宣戦布告し、キューバ、プエルトリコ、フィリピンを戦場とした戦争で、スペインを打ち破ったのである。

講和会議は、キューバ、フィリピン、プエルトリコ代表を参加させずに、米国とスペインの間で開かれた。米国はフィリピンの国土と民衆を200万ドルでスペインから買い取った。

講和条約はまた、「スペインがキューバに対する主権を放棄し、独立の準備ができるまで」米国政府がキューバを軍事占領下におくことを定めた。


 軍事占領下のキューバでは、下からの独立をめざす諸勢力は解体され、革命党も臨時政府も消滅させられて、独立はあたかも上からの「恩恵」として賦与されるかのような形となった。

1901年、米国議会はキューバの独立を「認める」に際して、新しいキューバ憲法に付加されるべき条項を採決した。

政府の意を受けてそれを提案した上院議員、オービル・H.プラットの名をとって「プラット修正」と呼ばれている。その言うところは、

(1)キューバ政府は、いかなる外国との間でも、キューバの独立を損なうような条約・協定を結んではならない。

(2)キューバ政府は、返済能力を超えるような債務を負ってはならない。

(3)キューバ政府は、キューバの独立を擁護し、市民の生命・財産・自由を保護するにふさわしい政府を維持するために、米国が干渉する権利を有することを認める。

(4)キューバの独立を維持し、その国民を防衛し、また他ならぬ自らの防衛のためにも、キューバ政府はしかるべき地点に米国海軍のための燃料と基地を売却あるいは貸与するものとする。
――などの条項であった(註4)。

ここにあるのは、キューバと唯一条約を結ぶことが認められている米国が、キューバの独立を損なう政策を実施することは決してあり得ず、常にその独立を擁護する存在であることを前提にした文言である。

誰の目にも明白な主権侵害条項が、自国の新憲法に盛り込まれることを知って、キューバでは激しい反発と抗議の動きが起こった。

米国はキューバに対して、「プラット修正」を受け入れるか、米軍による軍事占領を継続するかの、ふたつにひとつの選択を迫った。他にもあり得る多くの選択肢を覆い隠して「これか、あれか」の二者択一を他者に強要するのは、この国の政府の常套手段である。

2001年「9・11」直後の米国議会演説でブッシュ大統領は「すべての国はわれわれの味方になるのかテロリストの側につくのか、どちらかを選ばなければならない」と語って世界を脅したが、1世紀の時間を貫いて、この国の為政者に変わることなく巣食う傲慢な態度が透けて見えるだろう。


 1902年、キューバは米国の保護国として独立した。1903年、米国とキューバは条約を結び、「プラット修正」を永久条約化した。

そして、この条約によって、グアンタナモに海軍基地を獲得したのだった。

「プラット修正」は、1934年、キューバにおける民族主義的機運の高まりのなかで、両国政府間の交渉によって撤廃された。

だが、同時に新しい条約に基づいて、米国はグアンタナモ基地だけは手放さなかったのである。これが撤廃されるのは、両国政府が合意したときのみだけである、という「規定」に守られて。


  1959年のキューバ革命の勝利から47年を経たいまもなお、キューバに敵対している米国が自国海軍の基地をキューバ領内に維持し続け、常時4000人の兵員がそこに駐在しているという、信じがたい現実の秘密はここにある。


  ここで、ふたつ目の問題が生まれる。この「約束」が両国政府の間で、いわば強制的に交わされてからちょうど100年後の2002年1月、米国国防長官ラムズフェルドは、アフガニスタンで拘束した者たちを、「最悪を最小限にとどめる場所」であるキューバのグアンタナモ基地に移送する方針を語ったのであるが、その意図はどこにあるのか、という問題である。 


  米国政府首脳は、これらの被拘束者について次のようにも語っている。ブッシュ大統領によれば「アルカイーダは既存の軍隊ではない。殺人者で、テロリストだ。彼らは国家というものを知らない」。

ラムズフェルド国防長官によれば「戦争捕虜ではなく、非合法戦闘員であり、ジュネーブ条約に基づく権利はない」(『毎日新聞』2002年1月31日付け朝刊、ワシントン発佐藤千矢子記者)と。

すべての武力紛争における傷病者、捕虜、文民保護について定めたジュネーブ条約が適用されるとすれば、「捕虜は常に人道的に待遇しなければなら」ず、処刑、拷問、暴行、脅迫、報復行為などは禁じられ、侮辱や公衆の好奇心から保護されなければならないという規定を守らなければならないことを、米国政府が嫌ったための言動であろう。


 グアンタナモ基地がそのように使われ始めてから4年が過ぎた。その間にも、被収容者の処遇状況などについての報道がとぎれとぎれに続いた。

アフガニスタン現地における根拠のない拘束と移送、劣悪な処遇、看守が被収容者のクルアーン(コーラン)をトイレに流すなどという宗教的な侮辱、拷問――米兵による虐待事件が起きたイラクのアブ・グレイブ刑務所とも並ぶような、「悪名」の高さが印象的である。

否、むしろ、アブ・グレイブにおける拷問は、グアンタナモの段階で「実験」されていた、と伝える報道もある(註5)。

米国司法省と国防省は、収容者に対して、「衣服を剥ぎ取る」、「睡眠を奪う」、「食事を与えない」、「犬で威嚇する」、「暴行を加える」などの方法も許されるとの結論に至り、それを採用したのである。


  2006年2月16日、国連人権委員会の特別報告者5人は、グアンタナモ基地にある容疑者収容施設の人権状況に関する報告書を提出したが、「米軍当局による取り調べは激しい苦痛を伴うものであり、国際条約に照らせば拷問に当たる」と非難し、宗教的差別に基づく行為や、身体の健康を損なう非人道的で残虐な行為をやめるよう米国に要求した。調査に18カ月を費やした報告書は、収容施設の閉鎖を要求したが、米国はこれを拒否している。


 これだけの事実を提示すれば、補足する言葉はあまり必要ないようにも思える。100年といえば、人間の平均的寿命を超え、その間に幾世代もの入れ替わりが生じ、政治・社会制度の変化も起こり、価値意識の変貌も生まれてくるような、長い歳月である。

それほどまでに長い期間を過ぎてなお、いったん定められた規定を変更するためには両者の合意が必要だとするような条約が、両者が対等な立場で、民主主義的な手続きを経て、決められるわけがない。

それを、自らの軍事力・経済力・政治力を背景に相手国に押しつけ、あまつさえ、その措置が相手国の「独立」に配慮しているかのごとく振る舞うのが、米国式民主主義なのである。

ターリバーン兵らを米国本土の軍事基地に収容するなら、処遇の実態についての監視の目も厳しく、ジュネーブ条約に基づく捕虜であるか否かをめぐる論争も高まって、政府が窮地に陥ることもありえようが、外地のキューバ内基地に追いやれば、それだけ監視の目も緩やかで、好き勝手な処遇をほしいままにできる――米国政府にはたらいた打算は、このようなものであっただろう。この事実を知った者には、超大国の為政者のこのような心根に何を感じるか、が問われるのである。


 ひとは言うかもしれない。他方にソ連という「社会主義」大国が存在し、1959年革命以来それと密接な関係にあったキューバに対して、ソ連と対立するもうひとつの大国である米国が、キューバを自らの支配下におこうとするのは、国際政治の冷徹な現実を反映しているだけではないか、と。

東西冷戦構造が世界政治・軍事の基軸をなした第二次世界大戦以降の戦後過程を言うなら、それが必ずしも当たらないわけではないだろう。

だが、米国の対外膨張史の基本構造は、1917年のロシア革命以前に築き上げられたものであることを無視することはできない。

その意味で、本稿では触れる機会のなかった19世紀半ばの米国史の展開過程(そこには、1848年対メキシコ戦争を通して実現されたテキサス・カリフォルニアなどの広大なメキシコ領土の獲得、1853年ペリー艦隊の日本に対する砲艦外交の展開などが含まれる)と、簡潔に触れた19世紀末の動き(カリブ海域への進出が実現し、さらには遠くアジアのフィリピンまでを支配下に収めた)の意味を分析することが重要になるのである。


 歴史を回顧していると、これほどのまでの不平等な条約が締結されてしまうとは、超大国の振る舞いの傲慢さもさることながら、いったい相手国の政府、議会、民衆はどうしていたのか、と思わずにはいられない場合がある。

しかし、考えてみれば、米国が企図する「反テロ戦争」の今後の展望が必然化させた2006年度「米軍再編計画」に関して、日米両政府首脳が喜色満面で合意に至った経過を見ると、1世紀前と変わることのない同質の問題が、他ならぬ私たちを取り囲んでいることが見えてくるのである。

そのような政府のあり方は論外としても、自国憲法に「プラット修正」が強要された1世紀前のキューバ議会と民衆レベルの憤激を伝える歴史書を読むとき、私たちが思わず、2006年の日本議会と民衆のありようを内省するよう誘われるのは、理由のないことではない。



3 免罪される「国家テロ」 


以上見てきた「9・11」以降の米国の対外政策にもっとも寄り添う態度を示してきた国としては、イギリス、オーストラリアなどがすぐ挙げられようが、ちょうど自民・公明連立の小泉政権時代に対応していた日本政府も、米国主導の「対テロ戦争」を支持という意味では、一貫した姿勢を取り続けている。

それは、2001年10月7日に始まったアフガニスタン攻撃に際しては、日本の国軍である自衛隊輸送船をインド洋に派遣して米軍などに対する補給作戦を展開するという形で、さらには2003年3月に始まったイラク攻撃に際してはイラク南部サマワ地域に陸上自衛隊を10次にわたって派遣している(2006年5月現在)という事実に如実に示されている。


  日本政府がこのような政策をこの間取り続けてきた背景には、米国ブッシュ政権の「反テロ戦争」政策に対して、批判どころか疑問ひとつ持つことなく、常に各国に先駆けて支持を表明してきた小泉首相の特殊な性格があるだろう。

しかし、その政策に対して民衆レベルにおいて、これを阻止し得る有効な批判運動が起きなかった理由は、考察の対象となる。その原因は、もとより複合的に考えられるべきものではあるだろう。

私はここで、理由のひとつとして十分な役割を果たしたと思われる、1996〜97年に起きたペルー日本大使公邸占拠・人質事件に関わる言論状況を振り返ってみたい。


  ペルーの反体制組織トパック・アマル革命運動(MRTA)のメンバー14人は、1996年12月16日、天皇記念日を祝賀するパーティが開かれていた、首都リマにある日本大使公邸を襲い、多くの人びとを人質にして邸内に立てこもった。

彼らは、当時のフジモリ政権とその背後にある国際的な政治・経済秩序に関わって、次のような要求を掲げた。

(1)フジモリ政権が行なっている人権侵害と大多数のペルー民衆によりいっそうの悲惨と飢餓をもたらしている新自由主義経済政策を、日本政府が一貫して支持することを通して、祖国へ干渉していることに抗議する。

(2)獄中にいる450名の同志が劣悪な処遇を受けており、その釈放を要求する。

フジモリ政権は「テロリストの要求には応じない」と断言した。G7およびロシアなどの大国の政府は「いかなる政治的目的もこのような手段を正当化しない」と述べて「テロリストの行為を強く非難する」議長声明を発した。


  私は、これら各国為政者たちの言動と、それを当然の前提として報道するマスコミの姿勢に、大きな疑問を感じた。私は、MRTAのそれまでの行動にそれほどの共感を持つ者ではなかった。

またこの人質作戦に関わるメッセージ内容と行動形態にも、いくつかの疑問を感じていた。

私は、にもかかわらず、それが、時代の社会的・政治的・経済的な文脈で生まれている問題である以上は、それ以外の文脈で解決を図るなどということが不可能であり愚かなことでもある、と考えた。

共感するかしないか、不快に思うか思わないかという個人的な思いのレベルを超えた地点で、社会・政治問題は把握され解決されなければならない。とりわけ、為政者や公共報道機関の任務としては。


 ところが、フジモリ政権も、その背後にいるとして非難されている日本政府もG7+ロシアも、MRTAがその行為を通して訴えている中身には耳目を塞いで、ひたすら行為形態そのものを指して「テロ行為」だと切り捨てている。

彼らが体現する国家は、戦争を最悪の頂点とする「国家テロリズム」の主体ではないのか? 国家テロリズムの「神々しさ」と、小規模集団あるいは個人が発動するテロリズムの「まがまがしさ」「凶悪さ」とを分け隔てる基準は何なのか?

 その問いに明確に答えずに、一方的なテロ非難に終始するのであれば、それはきわめてご都合主義的な態度に他ならないだろう。


 このように主張する立場は、当時の状況の中にあっては、ごく少数に留まったようである。

日本人商社員、日系人が数多く人質に取られ大使公邸内部に幽閉されている以上、報道は、落ち着いた分析的なものにはならずに、ひたすら人質の安否を情緒的に煽るだけのものに純化していった。その対極で、「テロリスト」の「残忍さ」が強調されたのだった。


  この前年には、神戸淡路大震災が起こり、さらには東京地下鉄サリン事件、オウム真理教事件の一斉摘発など、人びとの恐怖心がかき立てられる出来事が当時は続発していた。

信じられないような規模の自然災害と、人為的な凶悪事件の真っ只中で、人びとのこころは揺さぶられていた。

「テロ対策」「治安管理」などの言葉が、政治家、治安当局者、メディアに登場する評論家、コメンテーターなる人びとの口を通して、声高に語られ始めた。

この社会的雰囲気を深化させ、進行させようとする者たちは、ペルー大使公邸事件に孕まれる問題の本質を巧みにずらし、人びとの恐怖心を煽るために利用した。


  7年間に及んでいた治世のなかで、フジモリ政権による弱者切り捨ての社会・経済政策が生み出してきた社会不安は問題にもせずに、また反体制勢力に対する暴力的な弾圧など「国家テロリズム」を行使してきた政治路線の是非を問うこともなく、MRTAの「テロリズム」のみが非難されたのだ。

フジモリ大統領は、結局、事件発生から4ヵ月後の1997年4月23日、掘り続けていた地下トンネルを伝って武装部隊を公邸内に突入させた。

爆発物による爆破、建物の炎上、その場での射殺などによってMRTAメンバー14人全員が死亡した。人質1人、兵士2人も亡くなった。


  この段階でもなお、平和的な解決の道は閉ざされていなかったというのが、私の判断である(註6)。

日本大使館書記官として人質にされていた小倉英敬も、4カ月のあいだ人質として邸内に暮らし、MRTAゲリラとも対話を重ねた経験に即して、フジモリ大統領の武力行使は間違っており、これを支持した日本政府の方針もまた大きな過ちを犯したと考えて、事後的に外務省の職を辞した(註7)。


  だが、日本社会を覆い尽した主流の言論は違った。「テロリストに屈服しない」フジモリ大統領を「日本にはもはや途絶えた真のサムライだ」と言って称える類の言論が溢れた。

小集団の「テロ行為」を口をきわめて非難する者たちが、それに倍する「国家テロ」の暴力で少数者が圧殺される行為を誉めそやしたのである。そこには、物事を歴史的な展望の中で振り返るという姿勢も、事態を論理的に分析するという方法も見られなかった。


  こうして、「テロ撲滅!」というスローガンが上から与えられるなら、それに黙々として付き従う群集が現れたのである。

このとき人びとのこころに内面化された「武力行使志向性」が、すでに見たように、「反テロ戦争」の時代を迎えたときに、自衛隊の海外派兵を許すものへと繋がっていくことを、数年後に私たちは見ることになる。


  4 グローバリゼーションへの抵抗

2001年以降の米国主導の「反テロ戦争」に参加したラテンアメリカの国には、エルサルバドルがある。この決定を行なった同国政府には、米国との関係における自国の立場を慮った事情があるのだろう。

本稿では、それには触れず、あえて「対テロ戦争」なるものをラテンアメリカの歴史的背景の中に据えると、それがどんな姿・形で見えてくるかを考えてきた。

取り上げたテーマの時間幅は多様で、キューバになお現存する米軍基地の本質を見抜くためには19世紀末以降現在に至る1世紀を越す時間軸を設定しなければならなかった。

チリの場合は、アジェンデ社会主義政権成立の年=1970年から36年の幅を、1996〜97年のペルー大使公邸事件からは10年の幅を超えて、現在の問題としての「対テロ戦争」の本質を捉えようとしたのだった。

こうして、ラテンアメリカ近代史の中にも、現代史の中にも、「対テロ戦争」に深く関わってくる事柄が孕まれていることがわかり、「対テロ戦争」とは歴史的にも捉えるべき課題であることが明らかになったといえよう。


  この間米国が「対テロ戦争」を展開してきた背景には、グローバリゼーションという経済的な趨勢があることは見易い道理だ。第二次世界大戦後の20世紀後半のおよそ45年間を、ソ連が主軸となった社会主義圏とのたたかい(政治・経済・軍事上の競争)に費やした資本主義大国=米国は、1991年ソ連圏の最終的な自己崩壊と共に、世界にふたつと並ぶことのない超大国となって、取り残された。

社会主義の廃墟の上に得意満面で立った当時の米国大統領ブッシュ(父親)は、言ったものだった。

「次はキューバだ」と。客観的に見るならば、「プラット修正」以来一貫して相手方を屈辱的なまでに痛めつけているのは、米国であってキューバではない。

だが、その歴史が当然だと思う米国支配層からすれば、革命後のキューバが、米国の「裏庭」に位置していながら自分の指示するままにはならないでいること、米国の経済的な権益を剥奪したこと、絶えることのない経済封鎖にも耐えてきていること、米国が積極的に支援した反革命勢力の軍事侵攻と攻撃を打ち破ってきたこと、それが第三世界の自立を求める人びとにとっての一定の指針となっていること――などに「屈辱感」を抱いているのであろう。


  地理的拡張運動としてのグローバリゼーションは、1492年のコロンブスのアメリカ大陸到達によって始まったとするのが私の持論だが、それに踵を接して始まったヨーロッパ諸勢力による異世界の植民地化過程は、経済的膨張運動でもあった。

初発としての、5世紀前のグローバリゼーションの洗礼に世界に先駆けて荒々しく見舞われたのは、いまに言うラテンアメリカ諸地域であった。ヨーロッパによる「征服」と「植民地化」の事業が、「大航海時代」の直後にそこで始まったからである。


  この文脈で事態を捉えるなら、次のように言うことができよう。キューバという国を特別に過大視することは禁物だが、グローバリゼーションの歴史的な過程を考察するとき、キューバはそれぞれの時代で、きわめて「象徴的な」位置を占めているのではないか、と。

コロンブスたちが最初に足跡を印したカリブ海に位置していることで、キューバはカリブ海域の他の島々と共に、「征服」の影響を全身で受け止めざるを得なかった。先住民族タイノ、シボネイ、アラワクは、人種差別主義に基づく虐殺とヨーロッパ人が持ち込んだ疫病で、1世紀後にほぼ死に絶えた。

初発のグローバリゼーションの段階で「死の島」と化したキューバは、奴隷貿易を主軸としてヨーロッパのメトロポリ(中枢部)が栄える16世紀以降のグローバリゼーションの過程では、アフリカから強制連行された黒人奴隷を受け入れる地域となった。

そしてさらに、「アメリカはアメリカ人の手に」という、自己本位なスローガンの下で、19世紀前半ヨーロッパ諸列強を排除して独自のグローバリゼーションの実践に踏み出した米国が、海外に目標を定めたときには、すでに見たように、キューバは米国によって意のままに支配される状態になっていたのである。


  20 世紀後半において、現代的グローバリゼーションの展開の時代になっても、キューバをめぐって事態は動く。

米国からすれば、東西対立体制の最後の段階にあって、社会主義キューバに対抗して多くの国々に成立した軍事政権を支え育てるうえで、グローバリゼーションの徹底化こそが効果的かつ効率的だった。

  貧富の差がはげしいラテンアメリカ地域で、資産と所得を根本的に再分配し、民衆福祉を重点化した社会改革を行なったのがキューバであった。(もちろん、キューバ経済は、さまざまな重大な問題と矛盾を抱えてもいるが、ここでの主題から外れるので、これには触れない)。

逆に、経済的な公平や平等という要素を一顧だにすることなく、市場原理にすべてを委ねたのが、1970年代以降の新自由主義経済政策下の軍事政権諸国であった。

金融の自由化をはじめとする一連の自由化と規制緩和政策が実施されたそれらの諸国に現れたのは、投機ブーム、通貨・金融危機、対外債務の累積、雇用と社会保障の脆弱化、所得分配の悪化などであった。


  そして21 世紀初頭の現在、ラテンアメリカ諸国には、米国と多国籍企業が主導するグローバリゼーションの流れに抵抗する動きがじわじわと広がっている。

それは、民衆運動のレベルにおいても、国政のレベルにおいても言えることである。

唯一の超大国=米国が、世界中を政治的・経済的・軍事的・社会文化的に支配しているかに見える現在、すなわち、グローバリゼーションの極限的な支配が貫徹しつつあるこのときに、ラテンアメリカでは、なぜ、この流れに逆らう動きが顕在化しているのだろうか? 

それは、現代においてもまた、この地域が世界に先駆けて、グローバリゼーションがもつ暴力的な作用を手厳しく経験したからであろう。その結果どんな社会がそこに出現するかを、痛みをもって味わったからであろう。


米国主導の「反テロ戦争」は、分断と対立と競争を原理とし、他者に対する憎しみと蔑みの感情に支えられて、続けられている。新自由主義経済システムもまた、同じ原理と感情を基盤にしていることは、「小泉改革」の5年間を経た私たちが身をもって体験したところである。

これに代わって、連帯と参加と共同(協働)を原理とし、他者に対する友愛と歓待の感情に支えられた私たちの試行は、どのように続けられるのがよいだろうか? 

ここでは、「反テロ戦争」にまで行き着いているグローバリゼーションの歴史過程をラテンアメリカに即して考えてきたが、上の課題を追求するためのヒントのひとつなりとも得られるなら、望外のことだ。



(註1)事件から10日後の2001年9月21日に行なわれ、同月24日に加筆・訂正をほどこした『図書新聞』掲載のインタビュー記事「批判精神なき頽廃状況を撃つ」で、私は詳しくこれらの諸点について語った。(『図書新聞』2001年10月6日付け、聞き手=米田綱路。これは後に、太田昌国『「国家と戦争」異説』、現代企画室、2004年、に収録されている)


(註2)映画『ザ・コーポレーション』は、マーク・アクバー、ジェニファー・アボット共同監督作品、2004年製作、米国。

日本ではアップリンクが配給。原作本は『ザ・コーポレーション――わたしたちの社会は「企業」に支配されている』(ジョエル・ベイカン=著、酒井泰介=訳、早川書房、2004年)として翻訳されている。


(註3)「テロは世界を変えたか――南米出身で米国で活躍する作家、アリエル・ドーフマン氏に聞く」(『朝日新聞』2001年11月28日付け朝刊、聞き手=ヨーロッパ総局長、村松泰雄)。

ドルフマンがここで中米のニカラグアとエルサルバドルについて触れているのは、ラテンアメリカ地域で起こった政治的・社会的事件で、米国の責任を問いうるものとして、1979年ニカラグア・サンディニスタ革命以降の米国の介入が記憶に新しいからであろう。

ニカラグアの場合、米国政府は、ホンジュラスから侵入して農作物の焼き討ち、農民や識字運動ボランティアの殺害などを頻繁に繰り返す反革命勢力(コントラ)に対して一貫して経済的・軍事的支援を与えていた。

ニカラグア政府は、コントラに対する米国の軍事支援は国際法に照らして違法であることを国際司法裁判所に提訴した。米国は、コントラ支援は集団的自衛権の行使だと抗弁したが、1986年、同裁判所は、次のような判決を下した。

「武力の行使には、武力攻撃のようなもっとも重大な形態のものと、兵器の供与や兵站その他の支援のように、より重大でない形態のものがあるが」、後者といえども、「武力による威嚇または武力の行使と見做しうるし、他の諸国家の国内または対外問題に対する干渉に相当する」と。米国はこの判決を実質的に無視した。

さらにドルフマンは、ニカラグア革命の影響もあって、民族解放闘争の高揚が見られた1980年代初頭のエルサルバドルにおいても、米国は、次々と人権侵害事件を引き起こす軍事政権を強力に支え続けたことに言及している。

(註4)Gilberto Toste Ballart, Historia de una usurpacion : La base naval de Estados Unidos en la bahia de Guantanamo, Editora Politica, La Habana, 1982. 

(註5)The roots of the Torture, Newsweek, 24 May, 2004.

(註6)この事件のあいだに書き続けていた文章は、太田昌国『「ペルー人質事件」解読のための21章』(現代企画室、1997年)に収録されている。

(註7)小倉英敬『封殺された対話――ペルー日本大使公邸占拠事件再考』(平凡社、2000年)
 

 

 
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