武田泰淳に『政治家の文章』(岩波新書、1960年)という著書があった。政治家には何の興味もなかったが、泰淳の本だったので、出版されてすぐに読んだ。
遠い若いころの話、内容はほとんど覚えておらず、本も手元からなくした。
人の書く文章が、おのずからあぶり出す当人の本質、「ひと」と「なり」に触れる泰淳の解釈を楽しんだことだけを覚えている。
対象とされた政治家たちもその文章も、泰淳がもったかもしれない人物とその政治路線への賛否や好悪を越えて、何らかの意味で論じるに足るものだったのだろう。
懐かしさをこめて泰淳の旧著を思い出したのは、ほかでもない、この5年間、私たちの社会をただただ引っ掻き回して去った21世紀初頭の政治家が最後に残したのが、次のような、文章ならぬ短歌であった、と知ったからだ。
「ありがとう 支えてくれて ありがとう 激励 協力 只々感謝」
一刻も早く頭から消し去りたい“表現”だが、香山リカの言葉を借りると「ここまで文学性がないと逆に頭に残ってしまう」(『創』06年11月号)類のもので、悩ましい。
相田みつおのほうが、まだしもマシにさえ思えてくる代物だ。
私たちが、日本社会の進路を急カーブで右旋回させることを許してしまった男の表現力は、この程度のものであったことを忘れまい。
同時に、このような表現を一貫して行なった人物が大衆的な「人気」を博してしまった時代というものの様相全体を批判的に分析するという重要な課題が、私たちの足元には残っていることも。
ところで、現代政治家の文章は、この程度にも留まることはない。
底なしの泥沼だ。前号では、この国の新しい首相になると予想されている男が、およそ「事実」も「真実」も意味をなさないと信じる確信犯であるらしいことを指摘した。
その後実際に首相になったこの人物の所信表明演説や国会答弁、加えて“評判の”著書『美しい国へ』(文春新書、2006年)などに我慢に我慢を重ねて大急ぎで目を通して、泥沼の深さを痛感した。特に著作の文章は、引用することも憚られるので、あえて引用はしない。
10代前半の子どもでも、気の利いた子ならこんな作文は作らないだろうと思われる物言いの文章が散見されるところが、何やら“不気味である”と言うに留めておきたいが、この水準の“不気味さ”が分厚い世論の支持を得るはずはないと断言できない点に、いま私たちの社会が抱える問題の 深刻さがある。
従来の議員時代に表明していた考えや総裁選挙の際の演説と、首相になってからの演説や答弁の間には、微妙な差異が生じている。
とりわけ、歴史認識に関わる「事実」や「真実」に関しては、植民地支配と侵略を認めて謝罪した村山談話も、従軍慰安婦問題で日本軍当局の関与と強制性を認めた河野官房長官談話も、「私を含め政府として受け継いでいる」と答弁した。
それとは真っ向から食い違っていた彼自身の過去の発言は「政治家個人としての」ものであり、「歴史的な政府としての談話」に関してはその精神を基本的に受け継いでいく、という使い分けを行なう意図のようだ。
後者が、せめて、しっかりと(これも、彼が愛用し連発する言葉だ)己自身の真意であるならまだしも、単に、直後に控えていた中国・韓国首脳との会談を慮っての小手先の策を弄したものであることは、誰にでも分かる。
この「政治家の表現」を知ったなら、温厚な泰淳といえども、「ペテン」とか「二枚舌」とか「卑劣」とか「ごまかし」などの言葉を使わずにはいられなかったのではないだろうか。
それにしても、ある時代状況の中での国家政治とは、哀しくも、愚劣なものだ。
こんな「敵」にすらあえて塩を贈る「将軍様」は存在するのである。中国も韓国も、日本の新任首相を比較的穏やかに迎えたことは事実だが、会談では、やはり歴史認識問題が大きな課題として引き続き残っていることが明らかであった。
新首相のペテンかごまかしが、早晩窮地に陥ることは予測できた。だが、高句麗の地の将軍は、9日、地下核実験を強行した。
「美しい国」の新首相は、当然にも危機意識を強めていっそう排外的なナショナリズムへと傾斜する国内世論を背景に、会談したばかりの中国や韓国の首脳ともども、北朝鮮制裁へと動く国際政治の場にもさっそく登場できるのである。
これが、新首相にとって、口をきわめて非難してきた当の「敵」の将軍から贈られた、僥倖印の「塩」でなくて、なんであろうか。
狙撃を警戒して、防護壁がひときわ高い閲兵台からチラッと顔をのぞかせて、はるか下方にひしめく群衆や兵士の隊列に軽く手をふるというのが、この軍人兼政治家がもつ特異な「表現」だ。
「現地指導」と称して、農民や軍人や工場労働者を前に、何やら手か指を振りあげて命令しているという姿も、この男が親譲りで得意としている「表現」だ。
どの国の政治家の「表現」や「文章」を見ても、まったく、ろくなものではない。それは、実例を世界に拡大して取ってみても、同じことだろう。
鋭く対立しているようでいて、どこか、持ちつ持たれつの関係にある国家間政治の現実。
大げさな身振りで進行する、内容空疎な劇場型政治のあり方をいやというほど体験した私たちは、今回の事態を通して、このような水準の「政治」と「国家」のあり方を止揚する方法の端緒なりとも身につけたいものだ。
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