ボリビアを含めた最近のラテンアメリカの注目すべき社会・政治の動向をどのように捉えるかについては、私はすでに別稿で論じた(註1)。
ボリビアにおいて、先住民族アイマラ出身のエボ・モラーレスを大統領とする新政権が、二〇〇六年一月に発足した。すでに、土地改革、天然ガス資源の国有化、水資源のコモンズ(共有財)宣言、大統領および議員歳費の半額削減など、歴代政府の政策を知る者からすれば画期的な諸施策に手をつけている。
とりわけ資源に関わる政策方針は、世界銀行の上級副総裁を務めたジョセフ・スティグリッツのような経済学者から見ても、「奪われていた資産の返還」に過ぎず(註2)、今後事態がいかなる展開を遂げていくかに注目したいが、いずれにせよ発足後わずか半年有余の政権の可能性や命運を論じるのは、性急に過ぎるというものだろう。
ここでは、〇六年段階でボリビアに現われている社会的・政治的変貌の意義を、きわめて極私的な経験に基づいて語ってみたい。それが、はるか遠くにありながら、同時代を生きる人間としての関心をもってこの地域の人びとの試行を見続けている私が、いま取りうる抑制的な態度であると思う。
私がボリビアという国に深い関心を抱いたのは、アンデス古代文明への幼い頃からの憧憬を別とすれば、チェ・ゲバラの生死が注目された一九六六〜六七年当時が初めてである。
ゲバラが指揮していたボリビア民族解放軍のコミュニケは、あまり時間をおかずに読んでおり、いわば「革命」の「現実性」をそこから読み取っていたといえよう。ところが、六七年一〇月八日、ゲバラとその仲間たちは、政府軍との早過ぎる遭遇戦に突入してしまう。負傷して捕捉されたゲバラが、大統領命令で銃殺されたのは、翌九日のことであった。
当時、私は、ゲバラ敗北に至る過程を、もっぱらゲバラ自身の言動と理論に即して解釈しようとしていた。
ゲバラは『ボリビア日記』の中で、「インディオは、他人が入り込めない目つきをしている」と書いているが、この記述について私は当初、〈書かれた側〉に想像力を巡らせて再解釈を行なうことはなかった。私は、いわば〈外部〉からの視線に純化させて、ボリビアを見つめているつもりでいたのだ。
その後明らかになる資料や証言から考えるなら、ゲバラたちは、ボリビアにおける複雑な民族問題についての現状分析を、大きな革命戦略の中で欠いていた、と思える。それが、革命的な情勢が熟していると私(たち)には思えた状況の中で、その運動の主体と外部からの共感者が、ともに位置していた場所だった。
七五年、私はエクアドルの首都キトにいた。中南米放浪の旅はすでに二年を越えていた。民族間の関係性のあり方が、人類が抱える大きな問題のひとつだという確信は、六〇年代後半以降の日本の中で得ていたが、中南米の旅でもそのことを再確認していた。
街中に貼られたポスターを見て、ひとつの映画を観に行った。『コンドルの血』。ボリビア映画、とある。銃を構える先住民の若い男のせっぱ詰まった表情が印象的だ。
衝撃的だった、物語の展開と映画づくりの方法の、双方において。物語は、先進国からアンデスの一寒村に派遣された医療援助チームが、住民女性に強制的な不妊治療を施していたという事実に基づいて展開する。
人口爆発による食糧危機を未然に防ぐというのが、その理由をなすのだが、仮にそんな「理論」を述べる者がいたとしても、それを信じてそんな形で実行に移す者が存在したことへの驚きである。
そして、現実にあったその物語が、先住民の視線によって再構成されると、ヨーロッパに起源をもつ映画作りの文法は、ここまで転倒されるものかという鮮烈な印象もあった。
対象を一方的に見る・眺め回すカメラワークを見てきた者にとっては、役者としては素人だが演じる先住民と、カメラの親和性が醸し出す雰囲気にも、感じ入るものがあった(註3)。
監督は、軍事政権下のボリビアから亡命して、エクアドルにいた。会って話をした。理解し合える友となった。お互いの世界史像と世界像の共通性を感じた。彼、ホルヘ・サンヒネスは白人だ。
ゲバラのゲリラ闘争をイメージ的な背景とした作品をすでに二作も創っていた。政治的には左派の監督である。彼の見方からすれば、ボリビアが抱える最大の問題は人種差別であり、白人とメスティーソ(混血)社会が、先住民族に対する差別・抑圧の現実に無自覚であるというものだった。
ボリビアを人口構成から見ると、先住民五五%、メスティーソ三二%、白人一三%となるが、経済的・政治的・社会的頂点に白人が立ち、中間層にメスティーソ、最下層に先住民が押し込められるというピラミッドを形づくっている。
その社会で、ホルヘ・サンヒネスのような立場を貫くのは、容易なことではない。しかも、彼は、人種差別という問題に限っては大半の左翼だって無自覚だと公言して、ありきたりの左翼とも一線を画しているのだった。
アンデス地域であって、アイマラとケチュアなどの先住民族社会の価値観、自然と人間の関わり、自然哲学、人間関係などを学び尽くし、それによって既存の社会のあり方を変革することに彼は賭けていた。
映画は、その意味で、人びとを内省へと誘う恰好の表現方法であるというのが、彼の考えだった。私が、日本と世界全体のあり方をめぐって考え始めていたことも同じであって、以後今日までの四半世紀有余、上映・共同製作という形での協働が続くことになる。
ウカマウ集団を名乗る彼らは、先住民族が主人公で、その言語を話し、民族衣装をまとい、自らの考えをきっぱりと主張する映画を、一貫して創り続けてきた。もちろん、次第にその内部矛盾も描くようになる。
「政治」は人間の思考を表面的にしか変えないことも多いが、「文化」はそれを根源から変えるだけの力を発揮して、人間の内部に根付くことができる。ウカマウの映画は、そういう力を蓄えてきたと思う。
八二年、ひとりのボリビア人が来日した。ラミーロ・レイナガ。ゲバラのゲリラ部隊の一員だった人物だ。彼は、ゲバラ敗北の原因は、白人である彼にはアンデス先住民の世界がまったく分からなかったからだと言った。
そして、核文明にまで行き着いた白人文明一般を批判し、これに代わって世界を救い得るのは、インカの先住民文明だと断言した。
私は彼と討論する機会があり、従来の歴史観(ヨーロッパ中心主義)を単に百%裏返した歴史観にすがるのは間違いだと主張した。
思考方法そのものを変えない限り、同じ過ちを繰り返すだけだ、と。彼は、論理的には同意しつつ、「だが白人が今まで自分たちに行なってきた仕打ちを考えると――」と言って、白人に対する徹底した憎悪と不信の言葉を吐き続けるのだった(註4)。
私はラミーロと対話しながら、日本におけるアイヌ民族や在日朝鮮人との激烈な対話のいくつかを思い出していた。
つまり、日本人一般のあり方に関して、ラミーロ的な物言いをする人が、ここにもいることを思っていた。ラミーロがたどり着いた結論には同意しないが、この関係性が変わるためには、まず抑圧している側の考え方と態度の変革が必要だという思いは、当時も今も変わることはない。
その頃からだったろうか、ボリビアのチャパレ地域から、コカ栽培農民たちの権利獲得運動の様子が、きれぎれにではあったが、伝わるようになった。
主として米国などの産業先進国のように、麻薬禍に悩む社会にあっては、例えばコカインの原料となるコカの葉栽培それ自体を罪悪視する見方が生まれやすい。
だが、アンデス先住民族からすれば、ポシェットに入れて持ち歩く乾燥コカ葉は、人と出会って腰を下して話し合うときの、大事なコミュニケーションの媒介物だ。
互いのコカ葉を交換し、何年物だと自慢し合いながら噛むのだ。疲れ、飢え、寒さ、痛みなどを少しは和らげることができる。呪術的な用い方もある。
占い事にも使われる。こうして、コカの葉は、先住民族の生活と文化に根ざした重要な植物なのだ。
それを、先進国の都合と論理で根絶やしにするというのは、身勝手だ。そこから、コカレーロス(コカ栽培農民)の権利獲得運動は広がった。来るべき大統領、エボ・モラーレスもコカレーロスのひとりであった。
この間ボリビアは、水資源と天然ガス資源をめぐって、その全的な支配を目論む多国籍企業の標的とされてきた。大きな犠牲を払いながらも結果的には成功したそれへの抵抗運動にも、先住民族の広い参加が見られた。
こうして、この間、ボリビア先住民族は歴史創造の主体としての位置を着実に固めてきたのである。
水資源の私企業化すら企図するグローバル化の動きには、現代資本主義の象徴的表現を見てとることができる。
ヨーロッパ資本主義生成の起点となった、五世紀あまり前の「大航海」と「地理上の発見」の時代に「作り出された」先住民族の末裔たちが、そのグローバル化への抵抗闘争の最前線に立っていることに、歴史の胎動を感じる。
エボ・モラーレスは大統領就任演説で、「正義と平等を求めたゲバラの夢が実現する」と語った。それは、先達の模範的な先例からも、痛ましい過誤からも、もっとも大事な教訓を選び取り、「精神のリレー」によって歴史を繋げていこうとする決意の表われだろうと私は思った。
(註1)『グローバリズムか、「抵抗の五〇〇年運動」か――「抗米枢軸」形成が進むラテンアメリカ情勢を読む』季刊『ピープルズ・プラン』三三号(〇六年冬号)。
http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2006/500.html
(註2)「しんぶん赤旗」〇六年五月二一日付。
(註3)これらの映画については、http://www.jca.apc.org/gendai/ukamau/index.htmlに詳しい。
(註4)ラミーロがワンカール名で書いた本は翻訳されている。『先住民族インカの抵抗五百年史』吉田秀穂訳、新泉社、一九九三年
|