サパティスタ運動が公然化して以降の歳月が、早くも十二年間を刻んだ。この運動の「現在」を語るためには、私(たち)が当初からこの運動に何を見てきたのかを振り返ることから始めることが不可欠だと思える。
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十二年前の一九九四年一月一日、メキシコ南東部チアパス州の各所で、およそ三千人の先住民が当時のサリナス政権の政策に反対して武装蜂起を行なった。サパティスタ民族解放軍(EZLN)を名乗る人びとだった。
政府軍すら、周到に準備された、この大規模な反政府蜂起の事前情報を把握していなかった。ましてや、遠く離れた日本に住む私(たち)にとっての第一報は、新聞休刊日の出来事であったことも手伝って、空虚な馬鹿騒ぎに終始するテレビの正月番組の合間にわずかな時間だけ組み込まれた海外ニュースであった。
関心浅からぬメキシコで、何か重大なことが起こったらしいということだけが、おぼろげに理解できた。
政府軍と交戦した後に、機を見て速やかに自らの支配地域に撤退するという、ラテンアメリカに伝統的な左翼ゲリラの戦術を踏襲していたならば、そしてこの作戦行動の意味を訴えるコミュニケが発表されたとしてもそこで干からびた政治言語が用いられていたならば、いつものように、情報は政府側が提供するものと、メディアが流す推測・憶測に基づくものに終始しただろう。
サパティスタの場合はそうではなかった。サンクリストバル市の庁舎前広場では、スポークスパースンが報道機関のインタビューに応じて、自分たちの行動の意味を語っていた。
後に判明するが、解放軍のなかの数少ない非先住民メンバー、副司令官マルコスであった。ほかにも武装ゲリラ兵士たちが、知らせを聞いて駆けつけたらしい市民と随所で「対話」している情景が後日の映像メディアでは流れた。
「武装」と「対話」のコントラストが鮮やかだった。同時に発表された文書は、先住民世界の歴史観と文明観に根をおろした表現にあふれ、多くの人びとの心を打たずにはおかない内容であった。
しかも、そのような内容をもつコミュニケが、インターネット時代の到来という条件の下で、瞬く間に、メキシコはおろか全世界に伝達されたのであった。
たたかいを開始した主体の論理をその言葉に即して理解できる方途があると確信できたので、私は、意義深いと直感したこの運動の資料を読み込み、日本に住む自分なりの読み方を明らかにする形で、しっかりとその意味を考え抜きたいと思った。私が重要だと感じた論点を、確認のために、箇条書き的に再掲してみる。
(一)一九九二年の「コロンブス航海五百年」を契機として、世界各地で先住民族の権利回復運動は大きく躍進し、また伝統的な歴史観からすれば「歴史なき民」と見なされてきた人びとが歴史の創造的主体であると捉える視点の変革も進んだ。サパティスタ運動が先住民族主体の運動であることは、まさにこの現実を裏づけるものである。
(二)サパティスタ運動には、都市出身の伝統的な左翼が山岳部の先住民族に政治的に働きかけた様子も見られる。だが、両者の関係は一方交通的なものではなく、相互主体的・相互浸透的なものであることがうかがわれる。
(三)上記(二)とも関連するが、サパティスタ運動は、前衛(党)主義から、いかなる意味でも自由である。さまざまな課題を抱える諸運動団体が共同で作り上げる民主主義的空間の重要性を謳う点に、その斬新さは現れている。これらは、いずれも、先住民族社会の規範から受け継いでいると言えるが、同時にソ連型社会主義の無惨な失敗から学んだものと捉えることができる。
(四)サパティスタが文書において、また語り口において用いる言語は、きわめて独特である。それは、政治・社会運動のスタイルを一新したほどの特異性をもっている。
(五)サパティスタがメキシコ連邦政府および州政府に向けた要求は、仕事・住居・医療・道路などの、一地域的な未整備状態を改善することばかりではなかった。
蜂起当日に発効することになっていたTLC(北米自由貿易協定)が先住民農民の死命を制するほどの意味合いをもつものであることを訴え、その中止を求めるものでもあった。
グローバリゼーションなるものが、世界のいかなる地域(そこが、いわゆる辺境地域であろうとも)に居住している者をも巻き込む現実的な力であることを、それは世界中に示した。
(六)止むに止まれず武装蜂起という手段に訴えたサパティスタは、同時に、他人を殺す兵士であることの虚しさを率直に語り、軍隊の廃絶を展望している。この点も、軍事至上主義者が多かった従来の伝統的なラテンアメリカ左翼の範疇を抜け出ている。
ヨーロッパ近代が植民地主義を推進する過程で必然的に派生させた「先住民族問題」の、公然たる浮上、民族問題と南北問題が現代世界にとって焦眉の課題であるという認識、グローバリゼーションに対する懐疑と抗議、左翼再生のためのいくつもの試み――メキシコから遠く離れた日本の地にあって、ほぼ同じ問題意識で試行錯誤を続けていた私(たち)にとって、サパティスタの登場は刺激的だった。
そこで私は、上に書いたように、世界的・普遍的な意味合いをもつサパティスタ運動が問いかけるものを分析すること、その分析・判断を行なうための基本資料を翻訳・紹介することに力を注ぎたいと考えたのだった。
まだ不十分にしかできていない点も多いが、前者に関しては、蜂起直後の分析をサパティスタ文書集『もう、たくさんだ!1』にまとめた。一九九六年、チアパスのサパティスタ管轄地域で開かれた「人類のために、新自由主義に反対する大陸間会議」に出席しての報告は、私の著書『〈異世界・同時代〉乱反射』に収めた。後者に関しては、小林致広さんをはじめとする人びとの努力によって、すでに五冊の書物の刊行を終えた。
『もう、たくさんだ!1』『マルコス、ここは世界の片隅なのか』『ラカンドン密林のドン・ドゥリート』『老アントニオのお話』『サパティスタの夢』の五冊である(以上のいずれも、現代企画室から刊行されている)。
重要な文書と分析の書に関しては、なお続刊する予定である。サパティスタ運動が公然化する以前の経緯と、その後の過程は、かなりの程度まで、これらの書物によってたどることができる。紙幅の関もあるので、ここでは、ごく最近のサパティスタ文書および動向のなかに、(上に箇条書きしたところの)十二年前に私たちが読み取ることのできた問題意識が、どのように生き続けているかを検討することにしたい。
ごく最近の文書と言えば、二〇〇五年六月に発表された「第6ラカンドン宣言」である。本誌の読者は、九七号に柴田修子さんが書いた「サパティスタ民族解放軍の現在」をお読みだろうから、その延長上で考えてくださればよいと思う。
箇条書きに述べた問題意識から見て、まず目をひくのは「2 われわれはどこにいるのか」の一文である。政府との対話路線は、せっかく合意に達した協定を政府が履行しないことによって暗礁に乗り上げる。サパティスタは、先住民共同体独自の、民主的な自治形態に基盤をおいた叛乱自治区の形成に力を入れる。
だが、「軍隊であるがゆえに本来的に民主的であり得ないサパティスタ民族解放軍の政治・軍事部門」が、民主的な自治区の決定に介入するということがしばしば起こったことに触れている。それを克服することは容易なことではない、とも言う。
蜂起・政府軍との対峙・軍事的緊張が続くなかで、どうしても他の構成員に対して「優位」な地点に立ちがちな軍事部門の役割を、いかにしてしかるべき範囲内に制御するかという課題を、サパティスタは明確に自覚し続けていることがわかる。
「サパティスタは、兵士がいなくなるための兵士なのだ」という一文も、彼らが当初から「兵士=軍隊消滅論」を唱えてきたことを知る者には、懐かしい。
ソビエト革命以後の現代革命が、革命軍(軍事組織)のあり方をめぐって重大な失敗を積み重ねて敗北した(している)ことを理解するなら、サパティスタが持ち続けているこの問題意識の重要性がわかる。
民政統治が一定の成果を生み出していることに触れる箇所では「統治者を監視することのない民衆は、奴隷になるほかはない」という言葉が続く。日本の現状を思い起こして胸を痛め、わが身を振り返らざるにはいられない箇所である。
「3 われわれは世界をどう見ているか」は、資本主義およびその現代的形態としての新自由主義原理に基づくグローバリゼーション批判である。
文書の全体を通じて言えることだが、語り口はやさしく、文意は通じやすい。この箇所も同様である。
ここでは、新自由主義一般に対する批判が行なわれているが、「W われわれは、わがメキシコをどう見ているか」と合わせ読むと、北米自由貿易協定が発効して一〇年を過ぎた段階で、どんな具体的な現実がメキシコに生まれているかが、わずかながら分かる。
その蜂起が、まさに同協定が発効する日を狙い定めて行なわれた、つまり「的確な時を掴んで」いたことを想起するなら、これを理解することは重要なことだと言えよう。
世界中で反グローバリズム運動が広がり深まるうえで、「自由貿易協定 否!」のスローガンを掲げた一九九四年サパティスタ蜂起は大きな影響力を及ぼしたと思えるが、資本のグローバリゼーションを逆手にとって「叛乱のグローバリゼーション」について述べた箇所では、自分たちの運動を「ささやかにも小さいものだが、確かにここにいる」と語っている。
自分を決して大きく見せかけようとはしない作風が貫徹しているのだろう。それは、サパティスタが諸市民組織間に民主主義的空間が形成されることを重視したり、前衛主義を否定したりすることと繋がっているのだと思える。
「一九六〇年代のキューバ」を「世界革命の根拠地」として過大視した時代の空気を大きく吸い込んだ苦い経験をもつ私(たち)の世代から見れば、この言葉には安心感を覚える。かつて会話を交わした、私と同世代のキューバの映画監督は「(一九六〇年代の)われわれは、世界の変革の中心にいると考え、慢心していた」と語った。
片方に「慢心」があるとすれば、もう片方には、足場を失った「思い入れ」や「憧憬」がある。心しなければ、と思うときに、問題は自分に回帰してくる。「慢心」も「思い入れ」も「憧憬」も、たたかいの絶頂期に必然的に生まれる「精神的高揚」と無縁ではないことが微妙で、難しいところである。
「5 われわれが行なおうとすること」では、世界の各地で新自由主義とたたかっているめぼしい運動に連帯のメッセージを送った後で、サパティスタ自身の今後の方針が大まかに描かれている。柴田さんが言うように、そこでは「現存する左翼運動に希望を見出し、彼らとの協調を目指す」と語っている。
十二年間もの間、世界はおろかメキシコ中央部から見ても「辺境」でしかないチアパス山中に孤絶して、サパティスタは生き延びた。
どんなたたかいにも、「高揚」と「停滞」の時期は必ずある。たたかいの渦中にある者は、停滞の時期をも、日常生活をしながら乗り切らなければならない。この客観的な事情を思えば、既成左翼を含めて一定の広がりをもつ層に共通の課題を投げかけたいという思いが生じることは、私にはよく理解できる。
問題はむしろ、課題を提起された「左翼」の側にあると言うべきだろう。私が冒頭でまとめた箇条書きにある項目は、世界中の伝統的な左翼を呪縛してきた理念からすれば、決して了解しやすいものではない。
先住民族の存在など意にも介さぬ人種差別主義的な自称「左翼」は、少なくはない。上から、ドグマを押しつける流儀を好む「左翼」ほど、相互主体的な関係性から縁遠い地点で生きて、自足している。
それは、前衛主義の跋扈に繋がるし、自己絶対主義的な「左翼」が諸組織間の民主主義的な関係に配慮することなど、ほとんどあり得ないことくらい、「運動圏」にいる(いた)経験をもつ者には、残念ながら自明のことであろう。
「左翼」の政治言語が、人びとの感性と現実感に訴えかける資質を失って、久しい。そのことに気づいている「左翼」が稀であることも、不思議なことである。グローバリゼーション・南北問題・帝国主義の植民地支配など「国際的」な視野を必要とする課題への無自覚もまた、長いこと「左翼」を呪縛してきている。
一国主義的な世界観・歴史観に縛られているのは、右翼民族主義者に限らないのである。「国家」も、ましてや一時的な存在であったはずの「革命軍」も「ゲリラ」も「人民軍」も、真の左翼的な理念からすれば、いつか廃絶されるべきものであるはずなのに、その永続性を信じている非左翼・反左翼が世界にあふれている。
番号は付さなかったが、前段のパラグラフに書いたことは、冒頭の箇条書き部分の内容に、順列で相応している。私が、メキシコ左翼の世界にとりわけ詳しいから、書けたことではない。
日本の現実に即して書いたことである。そして、私が具体的に知っている諸個人、読んだ歴史読み物と文学、観た映画などから総合的に判断する限り、これは、無念なことには、メキシコを含めて世界的な普遍性をもつ現実であろう。
このように言う私だって、これらの属性と一貫して無縁であったと偽装することはできない。つまり、メキシコの「左翼」が、そして世界中の「左翼」や市民が、サパティスタの上の呼びかけに応えるためには、理念レベルでもありのままでいることはできない。
宣言の最後に「6 われわれは何をなすか」が来る。超大国の封鎖とたたかうキューバの民衆や新自由主義に抵抗するエクアドルとボリビアの先住民族に、ささやかなりとも連帯の証としてトウモロコシやガソリンを送りたいという件もある。泣かせる話だ。
世界に向かっては、新たな大陸間会議を開催する提案もなされている。メキシコ国内向けには、より具体的で、サパティスタ代表団の派遣・討論をはじめ、いくつかの提案がなされている。
何事にせよ「下からの」合意形成を大事にしていること、選挙などという一時的な国政スケジュールに縛られることなく、広範な諸組織・個人が協働できる場を創り出すこと(統一組織の形成を提案しているわけではない)をめざしていることなど、いかにもサパティスタらしい提議である。
遠くメキシコ南東部でサパティスタが発する言葉が、はるか日本の私たちのこころに響くのは、なぜか。サパティスタとの、現実の、また想像上の対話の道を閉ざしたくない、と私は思う。
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