ユーゴ戦争:報道批判特集
コソボの人口、90%アルバニア系、か?
1999.9.10 WEB雑誌『憎まれ愚痴』37号掲載
1999.9.6.ユーゴ関係mail再録。一部MLには縮小版送信。
1999.9.6.現在、私の再三再四の催促にもかかわらず、NHK広報局の経営広報部のS副部長から、未だに回答を得ていない重大問題があります。
衛星第1:BS22「ワールドニュース」放映の2つのユーゴ特集で、1つの方では、渋い顔の中年男性キャスターが重々しく(私の使い古し表現では「ご神託」のごとく)、もう1つの方では、細面の若い女性アシスタントがスンナリと軽やかに「解説」した「コソボ州の人口の90%はアルバニア系」の出典です。なお、出典を明示できないデータを使うことは、特に、公共放送では、絶対に許されないことなのです。
もちろん、これは、NHKだけの問題ではなくて、新聞その他のすべての大手メディアに、ほぼ共通する報道状況の問題点の1つなのでもありますが、NHKは、その歴史もさることながら、現在、「皆様のNHK」と名乗られておられるので、特に、代表しての御答えを御願いしているのです。
ユーゴ連邦全体の中では少数民族であるアルバニア人の位置付けについては、まるで何にも言わずに、いきなりコソボ州だけについて「解説」して下さるのも、多分、頭の芯まで疲れ果てて自殺寸前の視聴者の精神的負担を、少しでも軽減して遣わそうとの有り難い御考慮かと御推測申し上げつつも、やはり、いきなり90%と教えられると、独立要求も無理はなかろうと思ってしまう視聴者もいるはずなので、恐れながらと、世論誤導の疑いを差し挟まずにはいられないのです。
念のために、総理府統計局に聞いても、外務省に聞いても、国連広報センターに聞いても、国の単位の人口統計しかありません。ユーゴ大使館で唯1人日本語ができる3等書記官、ヤンコヴィッチさんが、ユーゴ連邦政府の発表を訳したワープロ資料、「コソボとメヒトヤに関する基本的事実」では、「アルバニア人は約66%」となっています。
1988年版、つまりはユーゴ問題勃発以前に発行された平凡社『世界百科事典』の「コソボ」の項目では、「民族構成はアルバニア人74%(イスラム教徒のアルバニア人を含む)」となっています。
以下、まずは、数字や記号の表記、ごく一部のミスプリ、テニオハを直した他は、ユーゴ大使館訳を、そのまま紹介します。文中、コソボは、現在のコソボ州の東部地方、メヒトヤは同じく西部地方の、古来からの地名です。
コソボとメトヒヤに関する基本的諸事実
歴史的背景
コソボとメトヒヤは常にセルビアの文化と文明の揺藍の地であり、その民族的国家的精神的アイデンティティそのものでした。最も古い民衆の伝統とすべての本物の歴史的文書によれば、その領土は6世紀以来、外国の占領の期間を除いて、継続的にセルビア人に属してきました。すべての国際条約と法規範によれば、コソボとメトヒヤはセルビア国家とユーゴスラビア連邦共和国の争う余地のない欠くことのできない一部分です。
中世の時代では、コソボとメトヒヤは繁栄したセルビア王国の中心地で、人口の大多数はセルビア人でした。プリズレンという町が1389年にオットマン帝国に占領されるまで首郡でした。セルビア正教会は州内のもっとも大きい都市の一つであるペチにいまでもあります。そこには主に中世初期からの約1,300のセルビアの文化的歴史的記念物、教会と修道院があって、それらは地域の文化的歴史的遺産全体の90%以上になります。
民族集団としてのアルバニア人は14世紀になってはじめて言及されました。5世紀以上に及ぶオットマン・トルコ支配の下で人口構成は変化し、今日ではアルバニア人が、セルビア人と他の非アルバニア人を系統的に虐待し、排斥したために、人口の大部分となっています。しかしながら、19世紀の前半とそれ以前はセルビア人がコソボとメトヒヤの優勢な人口でした。
地理的及び経済的重要性
コソボとメトヒヤは2つの地域からなり、また略して、コスメトといわれ《第2次大戦までは「旧セルビア」と呼ばれました》そして10,806平方キロの面積でセルビア共和国領土の12.3%になります。この地域はセルビアとユーゴスラビアにとってはいつも大きな地理的に戦略的重要性を持っていました。ラシュカ地方とともにコソボとメトヒヤはセルビアとモンテネグロの間の自然の連結部です。
コソボとメトヒヤは不充分にしか開発されてない地域ですが、天然資源が豊富で、したがってその開発利用が今後の発展の基礎となります。それは強力な第1次エネルギーの潜在力と、電力生産、さらに金属の生産と加工のための非鉄金属鉱石の重要な鉱物資源及び進んだ軽・重工業と化学産業の発展を含みます。
コソボとメトヒヤの経済的社会的発展は第2次大戦後、大量の資金が、主にセルビア共和国の資金ですが、工業生産能力の建設に、農業、化学、教育及び文化の増進に投資されたときに、速度を速めました。
人口
利用し得る公式データによれば、アルバニア人は約917,000人、セルビア人は223,000人、モンテネグロ人23,000人、ロマニ人97,000人、ムスリム人72,500人、ユーゴスラビア人3,500人、トルコ人21,000人とその他23,000人になっています。これらの数字は、コソボとメトヒヤには約1,380,000の住民がおり、アルバニア人は約66%、セルビア人約16%で、その他が約18%であることを示しています。セルビア人とモンテネグロ人に対する系統的な迫害及び高い出生率というアルバニア人住民の政策はコソボとメトヒヤの民族的人口的有り様を本質的に変えてしまいました。この世紀の間だけでもその有り様は数回変わりました。
セルビア人とモンテネグロ人を強制的に追い出すことが第2次大戦のはじめまでは特に重要でした。セルビア人とモンテネグロ人を追い出すと同時に、アルバニアとトルコからアルバニア人が地域に移住してきました。第2次大戦中だけでも約10万人のセルビア人が迫い出されました。
戦後、旧ユーゴスラビア共産主義政権はアルバニアをユーゴスラビア連邦に加入させようと試みて追放されたセルビア人が帰ってくるのを禁止しました。1968-1988年の期間にさらに220,000のセルビア人とモンテネグロ人が圧力を受けて州を去りました。700以上の村が民族的に純枠になりました。このように400,000以上のセルビア人とモンテネグロ人がこの40年間にコソボとメトヒヤを去りました。
州の自治の地位
セルビア共和国の現行憲法の下では州はボイボデイナ自治州とコソボとメトヒヤ自治州ですが、国際的基準に則って広範な自治を享有しています。文化、教育、少数民族の言葉、文字を公に使用すること、広報、保健と社会保障に関する事項を定める州の権利に加えて、セルビア共和国はその憲法の下で自己の権限内の特定事項の遂行を自治州に委任し、この目的のために必要な資金を自治州に交付することができます。
1989年のコソボとメトヒヤの自治州として地位の唯一の変更は世界の通常の自治の概念に属さない国家の地位の除去でした。他の部分は全部依然として有効ですが、この変更によって州が徐々に独立を獲得していく過程は止まりました。一つの結果として、コソボとメトヒヤの分離主義者は活動を強化し、多数のアルバニア少数民族がセルビアとユーゴスラビアの適法の選挙及び政治制度をボイコットしました。
人権と民族的権利
ユーゴスラビア連邦共和国憲法は人権に関する国際条約や他の国際的文書に則ってコソボとメトヒヤにおけるアルバニア人が最高度の人権と自由を享有することを可能にしました。
少数民族の人たちはユーゴスラビア連邦共和国の人口の3分の1にあたるのですが、アルバニア少数民族を除いて、憲法にしたがって自分たちの権利を行使しています。それは抑圧の結果ではなくて、アルバニア分離主義者たちの圧力と脅迫の下での選択的ボイコットの結果なのです。
あらゆる点でアルバニア少数民族はすべての他の市民と同じ権利、義務を有しています。しかし、彼らはその諸権利を選択的に行使しています。彼らは総選挙、地方選挙、国勢調査をボイコットしましたが、経済のあらゆる分野での私有財産に対する権利、また年金や他の社会保障の給付に対する権利は積極的に行使しています。
コソボとメトヒヤにおけるアルバニア人が訴えている数にもとずいた自決権は、1つの国の人口に占める割合にかかわらず、少数民族のための国際法の中には予定されていません。
教育と報道機関
ユーゴスラビア連邦共和国は世界的に知られており、尊敬されているあらゆるレベルでの近代的教育制度を発展させました。コソボとメトヒヤの首都プリシュテイナ大学には14の学部があります。ベオグラードを除いて、プリシュテイナはユーゴスラビア連邦共和国の中で最も多い学部と学生数を持つ地域センターです。小学校及び中学校の授業の90%以上はアルバニア語で行われています。
適法な教育制度のボイコット、擬似教育機関の設立は分離主義者の周知の手段です。セルビア共和国政府はアルバニア人による数えきれない妨害にもかかわらず、教育協定をやむことなく主張してきました。学校や大学の将来の共同使用についてのそのような協定はついに1998年3月に調印されました。これは教育の重要な分野でのよりよい協力に向けての最初の第一歩でした。
ユーゴスラビア連邦共和国憲法は報道の自由を保障しています。市民はだれでも、会社はどれでも、登記簿にただ記入するだけで新聞や他の報道機関を設立することができます。ユーゴスラビアで使用されている少数民族の言語で出版されている新聞は80以上あり、そのうち51紙はアルバニア語で印刷されています。それらの新聞は2,500,000以上の発行部数を持っています。所有者は私人であったり、株主の団体だったりします。ラジオ・テレビ局のプリシュテイナ、ベオグラード、ノビ・サド、ポドゴリッツア及びその他はアルバニア語や他の少数民族の言語で番組を放送しています。モンテネグロ共和国にもいくつかのアルバニア語の新聞や雑誌があります。
アルバニア分離主義とテロリズムの根源
アルバニア分離主義は深い歴史的根源を持つ政治的事実です。1878年に所謂「プリズレン・リーグ」を結成することによってその基礎が築かれました。そしてその綱領はすべてのアルバニア人の領土を統一することでした。それ以来戦略的目標は同じでした。即ち、民族的に純化されたすべてのアルバニア人の民族国家としての「大アルバニア」です。
アルバニア・テロリスト組織の活動はコソボとメトヒヤで民族的に純枠な領土を作り上げ、そしてこの州をセルビアから分離することを目的としていました。いわゆる「コソボ解放軍」はその世紀に及ぶ夢と政治目標……分離主義と独立のために戦う典型的なテロリスト組織です。それは国際的テロリスト組織のリストに含まれるべきです。
テロ活動の古典的な形態を使って分離主義者たちは1998年だけで1,885回のテロ攻撃を行い、そのうち1,120回は警察部隊に対してでした。これらの攻撃で警察官115人が殺され、403人が負傷しました。テロリストたちは市民をも攻撃しました。彼らは128人を殺害し、そのうち46人がセルビア人、77人がアルバニア人、5人がロマニ人でした。
国際社会はコソボとメトヒヤのテロリズムに対しては残念ながら明確な立場を持ってなくて、依然としてそれを非難するよりもむしろ支持するという二重基準の攻策を取っています。しかし、テロリズムは今日の世界の普遍的な悪として世界のどこにおいても非難されなければならないし、支持されてはいけません。それと戦うのはすべての国の合法的権利です。
政治的対話と広範な自治による解決
1998年2月以来セルビア共和国とユーゴスラビア連邦共和国の政治的代表者は対話を呼びかけ、平和的方法と政治的手段による解決を見出そうと努めてきました。セルビアとユーゴスラビアの代表団は20回以上もプリシュテイナで話し合いと直接的対話にアルバニア人の代表者を招待しました。アルバニア人の政治的代表者はそのどれをも受け入れませんでした。
フランスにおけるコソボとメトヒヤに関する話し合いのセルビアとユーゴスラビアの国家代表団はアルバニア住民の政治的代表者との真の直接的対話を期待していました。そのような交渉と公正な協定は州の広範な自治のみならず、セルビア共和国とユーゴスラビア連邦共和国の主権と領土保全、及びコソボとメトヒヤに住むすべての民族共同体の平等を確認すべきです。それが1999年1月29日ロンドンで採択された連絡調整グループの10の基本原則に完全に合致するものです。それ以外の考え方、コソボとメトヒヤの独立、国家内国家、第3共和国、外国章隊の駐留付きの国際保護領、3年の暫定期間後の民族自決のいずれも受け入れられません。
ユーゴスラビア連邦共和国の立場は私たちの多民族の代表団の全員によってパリ会議の最後に調印された協定に表明されています。それは公式に連絡調整グループに手渡され、また公表されました。提案された協定は現実的なもので実質的な自治を与えるもので、その機関は存在し機能することができ、また関係するすべての人々の最善の利益と必要を満たすことができるものです。私たちの代表団は、また、すべての人に受け入れられる最終解決に達するまで建設的交渉を続ける用意のあることを確認しました。
ユーゴスラビアの多民族の代表団はアルバニア人分離主義者の代表者によって調印された、押し付けられた、議論されたこともない、存在していない「協定」を考慮しませんでした。それは外国軍隊の助けを借りて国家内国家を作り出そうという意図を公然と示すものです。
以上で引用終り。
なお、上記文中の最後の方の2カ所に御注目下さい。
「コソボとメトヒヤの独立、国家内国家、第3共和国、外国章隊の駐留付きの国際保護領、3年の暫定期間後の民族自決のいずれも受け入れられません」
「ユーゴスラビアの多民族の代表団はアルバニア人分離主義者の代表者によって調印された、押し付けられた、議論されたこともない、存在していない『協定』を考慮しませんでした。それは外国軍隊の助けを借りて国家内国家を作り出そうという意図を公然と示すものです」
この部分は、先にmailし、わがHPにも入れた重要文書、「ユーゴ挑発Annex-B」を指しています。しかし、とても、とても、控え目な表現なのです。このあたりが、日本なら東北の口下手な農民のような人柄と言われるセルビア人の性格の表われなのでしょう。
ああ、やんぬるかな。またまた、馬鹿正直に告白してしまいましょう。このA4判で5枚のワープロ文書を、私は2部、持っています。1度目は、1999.6.9.一水会が講師にユーゴ大使館のヨーヴィッチ公使を呼んだ集会の資料として、2度目は、1999.8.27.品川区議、民主党の高木明さんが中心となって準備し、品川区にあるユーゴ大使館の全員が家族同伴で参加した「ユーゴスラビア親善の夕べ」の資料として、受け取り、一応は、話を聞きながら、目を通し、しかし、しかし、この部分が「ユーゴ挑発Annex-B」批判であり、決定的に重要な問題点をはらむものとは気付かなかったのでした。ですから今、この部分を、何度も読み返しては、物悲しい想いに沈まざるを得ないのです。
以上。
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