ユーゴ戦争:報道批判特集
一方的な報道による悪魔化
(「一方的な報道」:下記『ボスニア戦記』より引用
「ユーゴ紛争の報道は、一方的な報道でしかないことがハッキリとわかった。」)
1999.6.4 WEB雑誌『憎まれ愚痴』23号掲載
日経(1999.5.17)は、以下のように伝えています。
【ブリュッセル発26日=加藤秀央】米CNNなど複数のメディアによると、国連の旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷の検察団は26日までに、ユーゴのミロシェビッチ大統領を戦犯容疑で同法廷に起訴した。[後略]
同法廷には、ボスニア戦争の際のセルビア人指導者カラジッチも起訴されていますが、逮捕には至っておらず、ミロソビッチ大統領に匿われていると「言われて」います。
その後、このミロソビッチ大統領の起訴に対して、「ロシア外務省」による「批判声明」と「ギリシャ元首相」の「批判」、「クリントン米大統領」による「歓迎」の「緊急声明」が短く報道されました。
私は、目下、同法廷の設置を決めた「1993年5月の安保理決議」と同法廷の「規則」などの資料入手を準備中です。別に極秘の特種ではない筈ですが、手近な報道例がないので、外務省の国連政策課に根掘り葉掘り聞いたところ、最初には「担当者でないと分からないから電話させる」で待たされ、次ぎには催促すると、「担当者は海外出張」と、実に無礼な対応を受け、しかも当然のことながら電話料金を2度も払わされ、結局、いかにも頼りなげな若い男の声で、下記の諸国家連合(United Nations.の正確な訳語)ホームぺージに「入っているでしょう」との返事を得たばかりです。
さて、同法廷は、ハーグの国際司法裁判所とは別物で、国際的には、ニュルンベルグ裁判、極東軍事裁判(通称「東京裁判」)に次ぎ、諸国家連合の主導としては初めてのシロモノです。
ニュルンベルグ裁判所については、拙訳『偽イスラエル政治神話』「ニュルンベルグの正義の神話」の節で、「勝者のみによって構成された軍事裁判所」「法律の皮を被った化け物……恣意的な訴訟手続き」などの詳しい批判が加えられています(p.130-147)。
湾岸戦争の際にもアメリカなどは、同種法廷を、「独裁者サダム・フセイン」目当てにチラツカセましたが、実際には、「なぜ開かないかと言えば、戦争犯罪法廷を開けばアメリカの違法行為も裁かれる」という観測を新聞紙上で展開した日本軍(自衛隊)幹部もいたほどで、法廷は実現しませんでした。
しかし、その他諸々の手段で、サダム・フセインの「悪魔化儀式」は成功し、たかが人口1千7百万の第3世界の小国を、人口3億5千万の工業先進国の超々大国が、10年掛りで準備した最新兵器装備の軍勢による人類史上最大量の爆撃で、破壊し尽くし、相変わらずの経済制裁、懲罰爆撃を続けているという超々異常事態にもかかわらず、またその後、劣化ウラン弾使用による敵味方なしの惨害などが明るみに出ても、ミソッカスのミツグ君こと、わが国の小淵首相などは、直ちに「理解」を示し、世間様は騒ぎもしません。
事実経過から判断すると、「国際戦犯法廷への起訴」は、それ自体が「冤罪」報道となっており、アメリカの無残極まりない「悪魔封じ込め作戦」を容易にするものです。「冤罪」報道による「悪魔化儀式」の結果、今度の場合でも、「ユーゴ空爆」を批判する人々でさえもが、いわゆる「喧嘩両成敗」のスタンスを取ってしまい、たとえば、次ぎのような一般受けの「前振り」をしないと、発言し難くなります。
「一人の恥知らずな民族差別主義者」「ミロシェビッチのセルビア軍によるコソボ自治州のアルバニア系住民に対する迫害と民族浄化と抑圧政策」「セルビア人支配下のアルバニア系住民に対して恐怖政治が行われていることは、誰も疑うものはいない。だが問題は……」(E.サイード、『ニュー・レフト・レビュー235号』より、鵜戸口哲尚訳、『人民新聞』1999.4.15)
「ミロシェビッチ大統領のアルバニア系住民排除政策は糾弾されるべきものです。しかし……」(『市民の党』むさしの市民の党ニュースNO.17.1999.5.14)
「だが」、「しかし」、私は、湾岸戦争とその後の経過における場合と同様に、「ミロシェビッチが他の国家元首に比べて特に悪質だという証拠がありますか?」という問いを、あえて発します。
最初に断言して置くと、私が、従来通りの私の主義に基づいて、可能な限りの資料を集め、先入観念を排して虚心坦懐に比較検討し、多くの関係者に聞き質してみた結果、これまでに旧ユーゴズラヴィア連邦から武力によって独立を達成したクロアチア、スロベニアなどの指導者と比較して、特にミロシェビッチが「悪質な民族差別主義者」だという証拠は、まるでありません。そう思えるのは、扇情的なメディアの「歪め」報道による「思い込み」の結果なのです。
まず最初に、まったく逆の主旨の「セルビア人」の声を聞いてみましょう。
『文藝春秋』1999.6.
ユーゴ空爆わが母国の悲しみ
ドラガン・ストコビッチ
(ユーゴスラビア代表チーム主将、名古屋グランパスエイト所属)
取材・構成・竹澤哲
[前略]
クリントンやCNNは、ユーゴだけを悪者にして、全ての責任を押しつけようとしています。
[中略]
NATOは「ユーゴ国民は独裁者ミロシェビッチに騙されている」などと宣伝していますが、大きな間違いです。ミロシェビッチは国民が選んだ大統領であり、彼は国民から愛されているのです。
[中略]
クロアチアの独立を真先に認めたのが、歴史的にクロアチアに利害を持っているドイッでした。
[中略]
その結果、悲惨なことが起こりました。例えばクライナ地方には50万人のセルビア人が住んでいました。スラブ族は何百年もこの土地に住んでいるのです。クライナはセルビア側として独立したかったのだけれど許されませんでした。そしてクロアチアは、50万人ものセルビア人に対して、クラィナから出ていかなければ殺すと脅し、たった2日間で追い出したのです。
国連平和維持軍がこの時クロアチアに駐留していましたが、彼らのやったことは一緒になって難民を追い出しただけでした。そのとき、「これはひどい。いけないことだ」と国際社会では誰も言わなかったのです。誰もが口をつぐみ、見ないふりをしたのです。
[中略]
CNNは難民が発生したのも空爆以前からだとしています。しかし、僕はニュース番組を欠かさず観ていますが、ある番組で「なぜ逃げているんですか」という問いに対して、アルバニア系住民は「空爆が起きて家が壊されて怖くて逃げている」と答えた。ところが、英語字幕ではそこはカットされて、「セルビア人によって追い出された」ということだけが文字となって出ていたのです。セルビア語でしやべっているので僕にはわかりました。でも、嘘だと言っても誰も信じてはくれません。
[中略]
僕はスポーツマンですし、政治家でもないので本当はこのような話はしたくありません。しかし、クリントンやCNNが流している嘘を少しでも正し、みなさんにどうしても真実をわかって欲しかったのです。
次に、日本人のユーゴ現地取材体験を、聞いてみましょう。
『ボスニア戦記』
(水口康成、三一書房、1996.7.31)
[前略]ユーゴ紛争の報道は、一方的な報道でしかないことがハッキリとわかった。なぜ一方的になるのか、なぜ戦争そのものが問題にならないのか。
[中略]
ボスニアにまだユーゴ連邦軍が存在していた1992年1月15日、私は、ボスニア駐留の連邦軍駐屯地を経由して、クライナ地区西スラボニア地方のパクラッツヘと向かった。
クロアチア共和国軍とユーゴ連邦軍との間で捕虜が交換されるというので、連邦軍側のプレスバスに便乗し、取材に出かけた。
私は連邦軍に同行していたが、私以外の外国人記者は一人もいなかった。
捕虞交換に先立って、撮影のための場所取りをしようと土手を上がったとき、クロアチア側から大勢の人影がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。捕虜がやってきた、とっさにそう思った私は、土手を下りてビデオカメラを回した。
ところが、ファインダーに見えたその集団が、捕虜にしてはおかしな荷物を皆持っていて近づいてくると、その集団は報道陣なのだとわかった。大きなテレビカメラを一肩に担ぎ、カメラを肩にぶら下げ、大きなマイクまである。それを確認したとき、捕虜ならばこの程度の人数かと思うが、報道障だとわかってみると、その人数が余りに多過ぎると感じられた。
連邦軍側の外国人プレスは私1人、クロアチア側の5~60人の報道陣は、1個師団ほどの大部隊にも見える。連邦軍側はゼロ、クロアチア側は30局近いテレビ局が世界に報道することになる。報道陣の数での不均衡がハッキリと見られた。
こうして一方的な報道が生まれてしまうのだろう。
どうして一方的になってしまうのだろうか。
クロアチア側から入ってきたジャーナリストの話が証明してくれる。
「おまえ、なんで連邦側にいるんだ」
「連邦側からの情報がないからさ」
「そんなもの誰も買わないぞ」
ジャーナリストにとって、まずは売れなければ仕事にならない。だからこそ、売れる側の情報源にジャーナリストは入っていく。
そして売れた情報がその後どうなるかは全く関係ない。
ユーゴの内戦報道にモラルがないとよくいわれる由縁は、売れるかどうかを問題にしている報道のあり方にも原因があるように思えた。セルビア人がどうあれクロアチア人が何であろうと、ユーゴ連邦を共産主義国と罵り、セルビア人を戦犯と攻めたてる記事を過激に書けば、記事は西側で売れる。
ボスニア内戦に至っては、セルビア人が何人死んでも記事にならないが、イスラム教徒が1人でも死ねば大変な騒ぎになってしまう。
イスラム教徒の悲劇以外は伝えても仕方がない、伝える意味がない、それは売れないからだ。
そこには報道自らが作り上げた、虚像でしかない国際世論があった。
そして、この国際世論が擁護するクロアチアは、戦争を継続するための無敵の鎧を世界中から授かったことになり、内戦を長引かせる結果を招いた。
ここに報道の功罪が目立つことになる。
湾岸戦争当時の「双方からの映像」はこのクロアチア内戦に限っては無かった。
[後略]
著者:水口康成(みずぐちやすなり)
1963(昭和38)年、鳥取県益田市に生れる。
筑波大学卒業。フリーフォトジャーナリスト。大学卒業後、5大陸を放浪、人の生き様をテーマに写真を撮り続ける。
1991年から、マスコミのユーゴ報道に疑問をもち独自取材に没頭する。
しかし、94年~95年にかけてはボスニア在留邦人一家の救出に奔走。NHK衛星放送、テレビ朝日などの報道番組でユーゴ問題を取材報道。著書に『ボスニア・一人ぼっちの救出作戦』、
写真集『旧ユーゴ内戦91-96・バルカンに生きる』(共にNHK出版)がある。
以下、以上のような発言を、より正確に理解しやすくする目的で、同書ほかの各種資料から作成した歴史的経過を記します。
一番重要な問題点は、旧ユーゴスラヴィア連邦が、カリスマ的指導者だったチトー大統領の死と冷戦構造の崩壊後、内外の要因によって分解し始め、どの部分でも「民族派政党」の政権が成立したことです。つまり、旧ユーゴスラヴィア連邦を引き継ぐ立場にあるセルビアのミロシェヴィッチ大統領「だけ」が、特殊な「民族主義者」では「ない」という事実なのです。
資料1:ユーゴスラヴィア(南スラブ人の国)
1918年 「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人の王国」として建国。
1929年 「ユーゴスラヴィア王国」に改称。
1945年 「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」として独立。
1963年 「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」成立。
「7つの国境・6つの共和国・5つの民族・4つの言語・3つの宗教・2つの文字・1つの国」と言われた。
民族の区分
民族の選択は自己申告制。1971年にモスレム人が民族に認められ、6つの民族となる。その他に「ユーゴスラヴィア人」として申告(1991年・約5.5%)、もともとは、同一のスラブ系の人々が、宗教で分化した。
宗教と民族
ローマ・カトリック/クロアチア人、スロベニア人。
セルビア正教/セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人。
イスラム教/モスレム人。
資料2:旧ユーゴスラビア連邦の崩壊
1989年12月 自由選挙実施方針。
ユーゴスラヴィア共産主義者同盟(共産党)以外の政党承認。
セルビア共和国が反対のまま決定。
1990年1月 ユーゴスラヴィア共産主義者同盟の第14回臨時大会流産。
以後、空中分解に向かう。
1990年4月 スロベニア・クロアチア自由選挙実施。
民族派政党勝利。
1990年5月 ユーゴ連邦議員選挙実施されず。
連邦政府議会機能停止。
1990年11月 ボスニア・マケドニア自由選挙。
民族派政党勝利。
1990年12月 セルビア・モンテネグロ自由選挙実施。
民族派政党勝利。
自由選挙の結果、共産主義者同盟(共産党)は各共和国の政権を失う。
1990年12月21日 クロアチア独立方針を決定。
1990年12月22日 スロベニア独立方針を決定。
1990年6月25日 クロアチアとスロベニアが独立宣言。
以上。
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